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scene 4. ストレンジャー・イン・パラダイス Ⅱ
「――おーっ、すっげえ」
「なんか暖かいね、やっぱり」
ヴジーデルニー・コロナーダは、一九七〇年代に建設された比較的新しい、硝子張りのモダンな建物である。地下二五〇〇メートルの深さから一分間に二千リットルもの温水が高さ十メートル以上も噴き上げる様子は圧巻で、数あるコロナーダのなかで唯一完全な屋内にあることから、寒い時期でもゆっくり眺めていられると人気のスポットだ。
中には五ヶ所、それぞれ泉源の異なる温泉水が出てくる蛇口があり、ラーゼンスキー・ポハーレック 、英語でスパカップと呼ばれる飲泉用のカップも売っている。カルロヴィ・ヴァリは近郊で良質な陶土が採れる、ボヘミア陶器の生産地でもあるのだ。
「あっ、あれか。温泉飲むカップ」
「ああ、買うか? だが、飲んでみればわかるが、そんなに旨いもんじゃないぞ」
「猫のかたちのもある。ルカ、あれにしなよ」
色や形が様々なカップのなかからそれぞれ好きなものを選んで、ひとつずつ買う。ルカはテディに云われたとおり猫型のものを最初手に取ったが、「小さいな」と云ってブルーオニオンがデザインされた、水差しのような形のものに変えた。テディはいちばんポピュラーな、川沿いの風景が描かれている淡いグリーンのものを買った。
スパカップを買った客は皆、そのまま持ち歩いて飲泉所巡りをするので袋などには入れずに手渡される。早速いちばん近くにあった蛇口から熱い温泉水を汲み、ふぅ、と冷ましながら飲んでみる――と、テディがなんともいえない顔をした。
「……不味い。鉄臭い……」
「旨いもんじゃないと云ったろう」
ユーリが笑う。ルカも一口飲み、うーんと唇を歪めるとテディの持っていたスパ・ワッフルをぱりっと割りちぎり、口に放りこんだ。
「これ食いながらのほうが飲みやすいみたいだ」
「あ、ほんとだ」
土産物などを売っているコーナーを見ながら一廻りし、ヴジーデルニー・コロナーダを出てまたしばらく歩くと、今度は白いレース編みのような細工が施された、美しい外回廊風の建物があった。トルジニー・コロナーダ という、ここでも温泉水を飲むことができるそうだが――
「ここは勧めない。確かかなり不味かった」
見ると、蛇口部分に石灰がこびりついていた。ユーリの助言に従い、ここは眺めるだけで通り過ぎることにする。
テプラー川沿いの道をずっとぶらぶらと散策する。すると、前方にまるで神殿のような荘厳な建物が見えてきた。
「わ、あれなに……あれもコロナーダ?」
「ああ」
ムリーンスカー・コロナーダ は、百を超える柱が支える屋根の上に十二の月を表した彫像が飾られた、ネオ・ルネッサンス様式の巨大な石造りの建物である。
円い柱がずらりと並んだ長い回廊は一三二メートルもあり、夜はライトアップされ、その美しい造形を浮かびあがらせる。
「こりゃあすごいな。アテネかローマの神殿みたいだ」
「レーゲンスブルクかも」
柱のあいだには四ヶ所の飲泉場があり、ルカとテディは順にカップに汲み、おそるおそる飲んでみた。
「……さっきのよりは飲みやすい気がする」
「うーん、ちょっと塩味がしてるからか? 慣れただけかな」
観光客の姿が多い回廊から離れ、テプラー川を挟んだ向こう側の景色を眺めながら歩く。びっしりと並ぶカラフルな建物はまるで積み木のようだ。あちこちに白いベンチやオープンカフェのある広いエリアに差し掛かると、またも大きく立派な建物に辿り着いた。表にたくさんの看板などが立てられていて、テディがなんだろうと近づいて見る。
「……あ、ラーズニェ ……、ここで温泉に入れるのか」
扉にローマ数字でⅢと記されたラーズニェは、観光に来た一般客 など、誰でも利用することができる公衆浴場である。
ラーズニェは過去に五ヶ所ほどがあったようだが、今は公衆浴場として営業しているのは二ヶ所しかないらしい。
「入りたいな。着替えとか持ってくればよかった」
「スパはホテルで入ればいいじゃないか、あとが楽だし」
残念そうにするテディに、ユーリは云った。
「いちおう教えてやるが、ここは混浴だぞ」
「そうなんだ? でも……ハンガリーもそうだったし、別に驚かないよ」
「水着だって着るし、いるのはどうせ年寄りばっかりだろ」
「どうかな。前に俺が来たときは、けっこう若いカップルが素っ裸で入ってたが」
「まじか」
ラーズニェを過ぎるとテプラー川を渡る橋があった。もうこのあたりは散策コースの端、折り返し地点らしい。
「……ちょっと寒くなってきたかな」
時計を見るとあと十五分ほどで四時だった。三人は川向こうの通りへ出ると、またゆっくりと景色や立ち並ぶショップを眺めながら、来た方向へと戻っていった。
ホテルまでの帰り道、ルカはボヘミアングラスの店に立ち寄り、自分とテディのために揃いのタンブラーとワイングラス、事務所用に花瓶と灰皿を買い、纏めて発送の手続きをした。
そのあと、また露店をみつけたテディが中にたっぷりとクリームの詰まったトゥルデルニークを、ユーリが小腹が空いたとラクレットチーズのサンドウィッチとソーセージを買い、食べながら歩いた。ルカはなにも食べはしなかったが、他にも土産物などをたくさん買っていた。
ホテルの部屋に戻ったのは四時半頃だった。テディが夕食までまだ時間があるからスパに入ってこようと云いだしたとき、ユーリは迷わず賛成した。腹ごなしのためである。
「だから云ったろ? こんな時間に食うなって……」
「まあいいじゃない。どうせ時間が余ってるのに、することもないし」
ホテル内にはジャクージバスと温水プール、三種類のサウナ、スパ・トリートメントなど充実した設備がある。スイムパンツと着替えのシャツなどを用意すると、ルカは脱いだジャケットをワードローブのハンガーに掛けた。
「おいテディ、おまえのもよこせ。それと、俺のコートもついでに取ってくれ」
「ん」
云われたとおり脱いだコートを腕に引っ掛け、ベッドの上に放りっぱなしだったルカのダウンコートを、テディが取ってくる。
「はい」
「おう」
手渡したコートをルカがワードローブにしまう。そのとき、ふとなにかに気がついたように、テディがベッドのほうを振り返った。
「ねえ、ルカ」
「ん?」
テディは再びベッドに近づき、そのうっすらとついている色を見た。
「どこか、怪我でもした?」
「怪我?」
ぱたんとワードローブを閉め、ルカはテディのほうを見た。「いや、してない。どうした?」
「これ……なんの汚れだろう?」
「どれ?」
ベッドの足許に掛けられた、シックなオリーブグリーン色のベッドスロー。その傍の真っ白いシーツの一点を、テディは指さした。
「これ。……なんか、乾いた血みたいに見えるんだけど」
「んー?」
なにかを摺り合わせたような擦 れたその汚れは、確かに赤茶色っぽく、血の痕のように見えた。
「もともと汚れてたんじゃないか?」
「まさか。これだけのホテルがそんなことある? それに、まだ真新しそうな感じだし」
ルカはそれほど興味がなさそうに、ひょいと肩を竦めた。
「フロントに云って、シーツを替えさせよう。サーラに云えばすぐ――」
「そういうことじゃなくて……いや、うん。別にいいんだけど」
テディは気になってしょうがないようだったが、ちょうどユーリが「準備できたか?」と顔を出し、ふたりはそれきりその話はせずに部屋を出た。
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