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scene 7. マック・ザ・ナイフ Ⅱ

 テディはむすっと不機嫌そうな表情で、シャンパンをグレープフルーツジュースで割った、ホワイトミモザというカクテルをぐいと呷った。  ホテル内にあるバーの、カウンター近くのボックス席で三人はナクラーダニー・ヘルメリーン( Nakládaný hermelín )というカマンベールチーズのマリネやウトペネッツ(Utopenec)ヴェプショヴェー・コレノ( Vepřové koleno )タタラーク(Tatarák)をつまみに飲んでいた。  瓶詰めにされた酢漬けの白いソーセージが、まるで水を吸って膨れたのように見えることから名付けられたらしい『水死体』という意味を持つウトペネッツは、チェコでは定番の料理のひとつである。ヴェプショヴェー・コレノはドイツ料理のシュバイネハクセのことで、豚の脚のローストを西洋わさびやマスタードで食べる。  タタラークというのはタルタルステーキだ。トピンカ(Topinka)と呼ばれる、チェコでは一般的なフレバ(Chleba)という黒パンを薄くスライスしてかりかりに揚げたものと生大蒜(にんにく)が、玉ねぎのみじん切りやスパイスなどで味付けされた牛肉のタルタルに添えられる。生大蒜をトピンカに摺りこむように塗りつけ、タタラークを乗せて食べるのだが、これがビールにぴったりでたまらない。  三人は初めの一杯だけベヘロフカ――アルコールに強くないテディだけはベトンという、ベヘロフカをトニックウォーターで割ってレモンを添えたカクテル――を注文し、二杯めからはそれぞれ好きなものを飲んでいた。  エレベーターの前で、妙に急いで階段を駆け下りてきた男とルカがぶつかったとき。脱いで手に持つと嵩張るからという理由で着たままだったルカのダウンコートに血がついたのは、あのとき以外に考えられなかった。  もしも元々、つまりノヴィー・スミーホフで買った時点でついていた血痕なら、とっくに乾いてしまっているはずである。部屋に入る直前、コートを着てなにかと接触した心当たりなど、他にない。そしてあの男は、ルカとぶつかったとき、特に痛そうな様子を見せなかった――つまり、男自身の怪我などによる血である可能性も低い。  なら、何故あの男は血など付着させていたのか? 何故あの男はあんなに慌てて立ち去ったのか? ホテル内で殺人事件が起こったというなら、それらの解答は簡単に導きだせる――血は刺したときについた被害者のもの、即ち、男が殺人事件の犯人だ。男が急いでいたのは、早く現場から立ち去るためだったのだ。  名探偵よろしく推論を披露するテディに、ルカもユーリも否定の言葉を思いつかなかった。ぶつかってきたのが殺人犯だったなどにわかには信じ難いが、確かに他に血液らしいものが付着した説明のしようがない。  黒い服を着ていた男は、自分の衣服に血がついてしまっていることに気がついていなかったのだろう。テディやルカだって、白いシーツにまで移っていなければ、きっと今でも気づいていなかったに違いない。ということは、ルカのダウンコートは証拠品のひとつであり、ルカは証人となる可能性が濃厚だ。  すぐにさっきのボロフスキー刑事に知らせようと云うテディに、しかしルカは渋い顔をし、頑なに首を縦に振らなかった。 「――ふーんだ、ルカのばーか。そんなになんでも面倒臭いなら、もう一生ファックしないでひとりで寝ればいいんだ」 「おいテディ、おまえ飲み過ぎだぞ。もう――」 「うるさいうるさい、ユーリもいっしょじゃないか。警察嫌いとか云っちゃってさ……いつまで不良少年の気分でいるんだよ。もう……あれ、ユーリっていくつ上だっけ……、二十七? 二十八?」 「俺はまだ二十六だ」 「二十六? そうだっけ……あれ? 一コしか違わなかったっけ……?」 「おまえと違って俺はまだ誕生日がきてないだけだ。ほら、もう飲むな。まったく……ちょっとは飲めるようになってきたみたいだが、寝るより(たち)が悪くなったな」 「やーだ、まだ飲むぅ……」  うだうだと愚痴りながら飲んで絡むテディからグラスを奪い、ユーリはルカと顔を見合わせて苦笑した。 「まあ確かに、面倒臭いからって警察に連絡するのを明日にするってのは、どうかと思うがな」  ユーリがそう云うと、ルカは涼しい顔をしてマリネされたパプリカとチーズをひとかけ、口に放りこんだ。 「おまえ、俺が本当に面倒臭いってだけで連絡しないと思うのか?」 「いや」  ビアマグを傾けながら、ユーリはにやりと笑った。「けっこう頭にきてるだろ? おまえ」 「当然だろ。こいつのために運転すんの好きじゃないけど車まで買って、温泉でのんびりって思っていろいろ考えてたのにさ。こいつはおまえも一緒になんて云いだすし、おまけにおまえが運転したそうにしてたら俺が替わるように仕向けやがるし。そんで今度は殺人事件なんて起こって、どうやらこれは重要な手懸かりだから証言しないとなんてぬかしやがって……こいつは昔からそうなんだ。俺の気持ちなんかまったくわかろうとしちゃくれないんだよ。……おまえのはわかるくせに」  いつの間にか、テディはテーブルに突っ伏して眠っている。 「こんな時間からそれを警察に知らせたら、スパに入ってこのクソ怠くなった躰を休めることもできなくなるだろってんだよ。だいたいこんなに怠くなるのも予定外なんだぞ。ほんとなら今頃、ベッドでしっかりしてるはずなのに。おまえがいたからだぞ、くそ、ガキみたいに調子に乗って暴れすぎた」  こんなに怠くちゃベッドに入ったらすぐにおねんねだ、とぼやくルカに、ユーリは声を抑えくっくっと笑った。 「ところで、おまえら今夜はあのベッドで寝るのか?」 「……それだ。うっかりしてた……証拠としては、あのコートだけあればいいとは思うけど」  ボロフスキー刑事に連絡するのは明日の朝にして、一通りの説明をしたら連絡先を伝えプラハに戻ろう、とルカは考えていたのだが――ベッドのことまでは気がまわっていなかった。  ほんの僅かだとはいえ、かなりの確率で殺された被害者の血が付着したのだと思うと、あのベッドで眠る気は起きない。警察に話をしたあとならば、シーツを交換してもらえば済むことではあるのだが―― 「俺の部屋のベッドもいちおう、三人が楽に寝られる広さはあるが?」  ユーリの言葉に、そうするしかないよなあと溜息をつきながら、ルカは傍らですやすやと寝息をたてているテディを見つめた。

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