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scene 8. マック・ザ・ナイフ Ⅲ

 翌朝。目を覚ましたルカがサイドテーブルに置いたスマートフォンの時計を見ると、時刻はもう八時を過ぎていた。まだぐっすりと気持ちよさそうに眠っているテディの顔を覗きこみ、ルカはその頬にそっとキスを落とした。  スパの効果かいつもより熟睡しすぎてしまい、心地良い気怠さが全身を支配している。早く起きて朝食に行かないと、と思うのだが、すぐに動ける気がしない。  そういえばユーリは? とルカは肘をついて少し躰を起こし、ベッドの反対側を見やった。が、そこに彼の姿はなかった。 「おう、起きたか」  と、そのときちょうどバスルームからシャワーを浴びていたらしいユーリが出てきた。バスタオルを腰に巻いただけの恰好だったユーリはベッドエンドスツールに腰掛け、そこに置いてあった下着とジーンズだけを身に着けると、ルカに声をかけた。 「どうした、テディが起きないのか」 「いや、まだ起こしてない。でももう起こさないとな。朝食に行かないと」  そう云ってルカは「おいテディ、起きろ。もう八時だぞ、メシ食いに行くぞ。起きろよ……」と、テディの肩を揺さぶり始めた。  振り返ったままその様子をじっと見つめ、ユーリが不思議なものでも見たような顔をする。 「……ちょっと訊くが」 「うん?」 「おまえ、いつもそんなふうにして起こすのか? それとも俺がいるからか?」  なにが云いたいのかがよくわからず、ルカは「なにがだよ?」と聞き返した。するとユーリはやれやれと呆れたように頭を振り――立ちあがってブランケットを捲り、ベッドに入ってきた。 「なにやってんだよ」 「なにって、テディを起こしてやるんだよ。黙って見てろ」  ユーリはそう云い、またもとの場所――テディを挟んでルカの反対側に寝そべった。  ルカのほうを向いて横になっているテディを背中から抱きこむようにして、ユーリはぴたりと躰を密着させた。そしてブランケットのなかで、なにやらもぞもぞと手を動かし始めた。  怪訝な表情でそれを見つめているルカの前で、ユーリがテディの耳許に顔を近づけ「テディ……朝だぞ。まだ起きないのか?」と、低い声で囁く。そのあいだもブランケットのなか――それも、腰から下のあたり――は如何わしく蠢いている。不愉快そうにしながらもルカがその様子を見ていると、テディが「んっ……」と微かな呻きを漏らした。ユーリはもう一方の手でテディの髪を掻きあげるように撫で、頸筋に口吻けた。 「朝飯はいらないのか……? 起きないならこのまま喰っちまうぞ……」  云いながら、軽く耳朶を噛む。すると、きゅっと首を竦ませたテディが目を閉じたまま口許に笑みを浮かべ、ユーリの腕のなかで寝返りを打った。くるりと背を向けられ、ますますルカが不満げな表情になる。そうとは知らず、テディはユーリの胸許に頬擦りするようにして顔を埋め、背中に手をまわした。 「……ん……、朝から盛るなよユーリ……」 「おはよう、お寝坊さん。ほら、さっさと起きないからルカがすっかり機嫌悪くしてるぞ」 「えっ――」  それを聞いてやっと本当に目が覚めたのか、テディががばっと半身を起こして背後を見た。  テディは苦虫を噛み潰したような顔をしているルカに「お、おはようルカ……」と引き攣った笑顔で云い、ベッドから出たユーリを睨んで唇を尖らせた。 「なんだ。俺は起こしてやっただけだぞ?」  そう云ったユーリに、テディがなにか云いたげに眉をあげてみせる。ルカは「ああ、だよな。そうだろうさ」と、首を何度か縦に振った。 「俺もさ。俺もいつもと同じに起こしただけさ。なにしろこいつは昔から寝起きが悪くて、もう十年もこのやり方で起こし続けてきてるんでね。まあでも、もう慣れちまってこれじゃ起きられないってテディが云うなら、俺も起こし方を変えてやってもいいけど?」  わざとらしく云うルカと、くっくっと笑いを堪らえているユーリのあいだで、テディが困ったように呟いた。 「……アラームで起きられるように努力するよ」  遅くなってしまったが、そのためレストランは昨夜よりも空いていた。  いろんな種類のパンやフルーツ、ハムとチーズ、ピクルス、スクランブルエッグなどの定番メニューの他にじゃがいもと(きのこ)クライダ(Kulajda)というスープ、オボツネー・クネドリーキ( Ovocné knedlíky )という、中にフルーツの入った一口サイズの蒸しパンのようなデザートと、バラエティに富んだメニューが並んだビュッフェスタイルの朝食を楽しむ。チェコでは朝食時にビールを飲むのはめずらしくなく、ここでも当然のように注文することができたが、ルカたちはこれから車で帰るということでやめておいた。  満足して部屋に戻ると、三人はそれぞれ荷物をまとめ、帰り支度を始めた。とはいえ、あるのは少しの着替えとルカの買った土産物程度で、荷作りはすぐに終わった。  ユーリもフラットから持ってきたバッグひとつだけを持ち、すぐにスイートルームへとやってきた。 「もう連絡したのか?」  バルコニーから外を眺めていたルカにユーリがそう尋ねると、彼は「いや、まだだよ」と返事をした。ソファで煙草を吸っていたテディが「早く電話しなよ」と急かすように云う。するとルカは「んー」となんだか煮えきらない声をだしながら部屋のなかへ戻り「……なあ、別にあの刑事じゃなくてもいいよな?」と、ふたりの顔を見た。 「え?」 「どういう意味だ?」  テディとユーリが揃って眉をひそめる。ルカは、こんなことを云いだした。 「今からあの刑事に電話して来てもらわなくても、階下(した)に警官がいると思うんだよ。今そこからパトカーが見えたしさ。警察なら誰でもいいだろ」  テディは少し考えるように首を傾げた。 「そりゃあまあ、だめってことはないと思うけど、なんで?」 「メモが見当たらなくって」 「はあ?」  ユーリが呆れた。「メモって、昨夜あの刑事に渡された、電話番号を書いたメモか?」  ルカは頷くかわりに肩を竦めてみせた。テディが信じられない、という顔で煙草を揉み消す。 「ちゃんとよく探したの?」 「いや、正直どこにしまったかも憶えてなくって……ありそうなところにはなかったし、探しまわってもみつかる保障ないし面倒だし――」  知らせるんだからそれでいいよな? と開き直ったように云うルカに、テディとユーリはしょうがない、と降参するように息をついた。 「――あ」  すっかり帰り支度を整えて部屋を出ようとした、そのとき。ドアを開け、不意にテディが立ち止まった。 「おいそこで止まるな。……どうした?」  中途半端に開いたドアのノブに手をかけたまま、テディはなにやら廊下の様子を(うかが)っている。そのすぐ後ろにいたユーリは、同じようにテディの肩口から顔を出しながらきょろきょろと左右を見た。 「なんだ、パパラッチでもいたのか?」 「そう、なのかな……。ドアを開けたら、あそこにささっと誰かが引っこんだような気がしたんだ……。まるで慌てて隠れるみたいに」  小声で云うテディが指しているのはエレベーターと階段のある側で、そのホールへと伸びる廊下は折れていて、死角になっている。だがどこにも、テディの云うような人影は見当たらなかった。 「気のせいじゃないのか?」 「わかんない、誰かがいたのは確かだと思うんだけど……。でも、この(フロア)ってルカが我が儘云って変更したんだから、宿泊客は他にいないはずだよね……」 「我が儘のとこ要るか?」  ふたりの背後でルカが荷物を床に置き、腰に手をあてて云った。「ま、さすがに気づいた奴がいてもおかしくないよな。パパラッチかファンの子でも隠れて待ちかまえてるんじゃないか?」  ルカがそう云った途端、微かに複数の女性の笑い声と、カカカ……と遠ざかっていく足音が耳に届いた。 「あ、やっぱり」 「当たりだったみたいだな。まあでも、たいした騒ぎにはならんのじゃないか?」  ユーリはそう云ったが、ルカは面倒臭そうに首を横に振った。 「ホテルを出るくらいは問題ないかもしれないけど、車を知られるのはいやだな。テディ、ドア閉めろ。出るのちょっと待て」  そういってルカは荷物を置いたまま部屋の奥へと取って返し、ルームフォンでフロントを呼びだした。

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