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第11話 マイハニー

 スミとは会えなかったが、ニケ憧れの人物の仕事場に招かれることとなった。  目を輝かせ、ずっとそわそわしているニケが可愛い。尻尾が左右に揺れるのではなく、ぐるんぐるんと回転している。初めて見る尻尾の動かし方だ。ずっと見てられる。……と、同時に胸が変な、もやっとしたなにかが胸に沸き上がる。 「?」  胸に手を当てるも、原因が分かるはずもなく。 「さ、着いたで。ここが私の借りている部屋や」 「おおっ」  ニケの興奮した声が聞こえたので尾から目を離し、目の前の建物に目をやる。門構えがなんとも立派なお屋敷だ。流石人気浮世絵師の仕事場。軽く百人は入りそうである――そんな屋敷を想像していたのだが。  現実はよくある古びた長屋の一室。しかもところどころ障子が破れ、中が覗けてしまう。おまけに隣はだらしない腹を掻いて酒を呷っている汗臭いおやじの部屋。逆隣の部屋はなんかこう……閉め切ってある扉に「入ってくるな」「呪う」「許さない」と、血文字で書かれたような札がびっしりと貼りつけてあって、怖くて近寄れない。  その一切が目に入っていないかのように、 「ただいまー」  扉を開けグライスファーレは堂々と中に入っていくが、ここ、女の子が住んでいていい環境なのだろうか。彼女自身がこぎれいな身なりをしているせいで、非常に浮いている。  ――よほどその用心棒とやらが頼りになるんだろうな。  いったいどんな大男なのだろうか。心情的に鬼族だったらフリーは回れ右するかもしれない。もう鬼に会いたくない。 「お邪魔しますっ」  にこにこ笑顔のニケに続き、家の中にお邪魔する。アキチカだったら角をぶつけていそうなほど、天井が低い。衣兎(ころもうさぎ)族のお家を思い出しつつ、フリーは中腰になる。  狭い室内に何枚もの紙が吊り下げられている。墨を乾かすためだろう。室内が墨の香りで一杯だ。  ニケは平気だろうか。顔を見ようと更に身を屈めると、敷かれっぱなしの布団の上で、なにかがごそりと動いた。 「ふあぁ~……にゃむにゃむ」  それは仰向けに寝返りを打つと、ぼりぼりとヘソの上を掻いた。  深みのある紺色の髪に、同色の猫耳。目は閉じられ大きく開かれた口からは涎が垂れ落ち、布団に水たまりを作っている。すごい分泌量だ。リーン並みに小柄な身体を布団一杯に投げ出し、あられもない姿で爆睡している。 「……」  そんな「少女」に近づくと、グライスファーレは容赦なく蹴飛ばした。 「ぎゅんっ?」  惰眠を貪っていた少女は壁にぶつけられる。  ぐらぐらと部屋が揺れ、紙が何枚か落ちる。ニケはそれを折り目がつかないよう手のひらで受け止めると、たくさんの筆でごちゃついた机の上に置こうとしたが……置く場所がない。片付けられないどこかの薬師を思い出し、フリーに「持ってろ」と手渡す。 「あ、はい」 「ふぎゅ~」  情けない声を上げ壁からずり落ち、尻を突き出した体勢で床に倒れる紺髪の少女。しかも着物がめくれ上がり、下着丸出しである。 「……」  とても見ていられない状況だったので、フリーはそっと視線を外す。しかしどこを見ても、幽霊と目が合うなこの部屋。  グライスファーレは紺髪の少女の突き出した尻をスパンとはたく。 「こら。自宅警備員が寝るな。留守番も出来ひんのかワレ」 「うぐぐ……。こ、この声と力加減は……」  尻を押さえて起き上がると、涙目のまま紺髪はぱあぁと表情を明るくした。 「マイハニーやんけえぇ! おっかえりなさーい!」  両手を広げ、紺髪はグライスファーレに飛びついた。 「うおおっ」  反動でグライスファーレはくるりとその場で一回転し、踏みとどまる。添える程度で紺髪の腰に手を回すと、しょうがないと言いたげにほほ笑んだ。……口角が一ミリくらい上がった気がする。その眼差しは言うことを聞かないくせに甘えてくる困った、でも可愛いペットを見るような。 「急に飛びつくな言うてるやろ?」  紺髪のペットは、すりすりとグライスファーレに甘えだす。 「ううん。おかえりおかえり。寂しかったでぇ~? 好き好き。ちゅっちゅっちゅっ」  唇を突き出し、グライスファーレの顔に判子のように唇を押していく。 「「……」」  なんだか見ていられなくなり、フリーとニケは外で待機しようと無言で回れ右した。 「はっ! あああ! 待って待って」  それを「帰ろうとしている」と思ったらしいグライスファーレが手を伸ばしてくる。 「帰らんといてぇ」 「ああん。どこ行くのハニー?」  彼らの元へ行こうとするグライスファーレを抱きしめたまま阻止する。 「……ちょ、いい加減離れんかいっ」 「おごっ」  膝を叩き込み紺髪をもう一度罪のない壁にシュートすると、白い着物と赤地に黒い花の咲いた着物を掴む。またひらりと宙を舞った紙が、大股開きで倒れている少女の顔面に落ちる。 「まあまあまあ。いま、お茶でも淹れるから。座って座って」  人数分の円座(藁などで渦巻き型に編んだ敷物)を床に敷こうとして、狭い床を布団が占拠していることにムッと頬を膨らませる。グライスファーレは円座を持ったまま、ペットに指示を飛ばす。 「ほら。お客さん来とるねん。早う、お布団しまい(仕舞いなさい)」  その言葉で、紺髪は初めて自分とグライスファーレ以外が家にいることに気づいた。  身軽に跳び起きる。 「え? だ、だれだれ? 誰やねん。おたくら」 「お客さん言うとるやろ。ああもう、邪魔やこのでかい尻ィ!」 「みゃんっ?」  円座で紺髪の尻をひっ叩き、文句を言いながら布団を畳み、部屋の隅へ置く。尻を摩り「ああ~」と涙を流している少女を無視して、グライスファーレは円座を差し出す。 「ほんまにごめんな……。ここ五分間の記憶消してもらえると嬉しい」  その声は疲れ切っていた。  ぺこりと頭を下げ、円座を受け取る。 「あ、どうも」  記憶を消すすべはないので、円座の上にあぐらをかく。無意識にニケはフリーの膝に座ろうとして、ヒトの家だということを思い出し、すごすごと円座に正座する。頬がほんのり赤くなっているのが可愛すぎて寿命が延びる。  最後に自分も腰を下ろす。グライスファーレは正座を崩した横座りで、ブーツを脱いでいなかったことを思い出し、紐を解いて適当なところへ置いておく。 「では、改めて。私は猫妖精のグライスファーレ。長いし、良かったらファスって呼んでや」  尻尾の揺れが止まらないニケが「次は僕の番だ」と、元から伸ばしている背筋をもっと伸ばし、犬耳までピンと立てる。  ……理由は分からないが、またフリーの胸がもやっとした。 「ご丁寧にありがとうございます。で、では、ファスさん。僕はニドルケ。赤犬族です。ニケと呼んでください」 「ニケ、か。かわええやん」  そして自然と、ファスの目がフリーに向けられる。 「俺は――」  せっかく仕切り直しして順調だった自己紹介の場に、紺色の影が乱入した。 「ちょお、待ちい? なんやねん、なんやねん」  紺髪はニケとフリーを交互に見ると、フリーの周囲をうろつき始めた。猫のように四つん這いでフリーを見上げながら、くるくると三周する。  そしてムンクのような叫びをあげる。 「男や! 男やんけーっ! いやあー。マイハニーが男連れこんだ! しかも二人の愛の巣に。いやあー、ひどいひどいぃっ」  おもちゃの前で「買って買って~」する子どものように、またはひっくり返ったカブトムシのようにじたばたと空を蹴る。 「うああああんっ。うああああんっ。ハニーがあ、ハニーが浮気したああん! こんなに愛してるうちの前で~。ああああああん」 「「……」」  修羅場と化した仕事部屋。  フリーはどうしていいのか分からず膝を抱え、ニケは近所のヒトが「うるさい」と怒鳴りこんでこないか、冷静に扉を振り返っていた。 「ああああ、ああああん!」  涙を飛ばしまくる自宅警備員に、ファスは自身の唇を指差す。 「いますぐ静かにしたら、ちゅーしたるで?」  ぴたっ……。  顔ムンクに両足を上げた状態で、少女は石像のように停止した。  あまりの急な静寂に、耳がキーンとなる。  紺髪は起き上がると目をキラキラさせてファスににじり寄っていく。「静かにしたよ? キスして? キスして?」と全身で表現している。  着物からチラ見えしている紺色の尻尾がふりふりと揺れている。猫って嬉しいと尻尾振るんだっけ? 「……」  冷たいアイスブルーの瞳が、息の荒いペットを見下ろす。 「ぐえ?」  ファスは紺髪の胸ぐらを掴むと、桃色の唇を頬に押し当てた。  ちゅっ。 「――――ッ」  言語化できていない歓喜を叫びながら、紺髪は部屋を飛び出し外を走り回る。雪が降った犬のように。  長屋の前の空き地を三周ほどすると、そのままの速度で戻ってきた。ずさぁーとファスの膝に倒れ込み、太ももに頬ずりする。 「んもう、んもう。ハニーったらぁ。いけずなんやからあああ」  ファスは優しく紺色の髪を撫でる。 「私の愛を疑うからや。男一人連れてきたぐらいで、やかましいわ。これまでもモデルとして、女性や幽霊を連れ込んでいるやろうが。というか、連れ込んだって言うのやめーや。招いたと言って」  幽霊を連れ込むとは……?  紺髪はファスに縋りつく。甘えん坊の妹とその姉のようにも見えた。 「だ、だって。男を連れ、ま、招いたことは、なかったやん?」 「だからなんや? 私を疑うのか? 私の愛が信じられんと?」  真っすぐ見つめてくるアイスブルーの瞳に、紺髪は痺れたように震える。 「ああーっ。その冷たい瞳がきゅんきゅんするんやぁ~。好き!」  目を閉じて、ファスも抱きしめ返す。 「私も、好きやで。この世界の何よりも」 「「……」」  秘密の花園とでも表現すべきか。なんだか男が立ち入ってはいけない空気を感じたので、ニケとふたり外に出る。空き地で膝を抱え、沈みゆく夕陽を眺めていた。

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