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第17話 悪夢を振り払う者

「……は?」  表情が抜け落ちる。目の前のフリーは、わくわくした顔で待機している。  ――こやつはなんでも言うことを聞くから。「死ね」と言って、本当に死ぬか試して遊んでみよう。  すごく楽しそうな声だ。自分の心の中で自分以外の声が響く。そんな状況でも、ニケに浮かんだのは苛烈な怒りだった。  なぜ? や この声は? など、思うところはもちろんあったが、ニケはその全てを無視した。それだけ、謎の声はニケの地雷を踏んでいた。  ――僕も望んでいるだろう? フリーが自分の言葉すべてに従うことを。これで迷うことなく命を絶てば、僕は満足するんだ。 「気安くフリーの名を呼ぶな。穢れる」  なんだか久しぶりにフリーの名を呼んだ気がする。いつも「お前さん」だからな。これからはなるべく呼んでやるか。  ――死ねといえば死ぬ。これぞ愛の究極形態ではない? 試してみよう。フリーの愛を。知りたいだろう? どれだけニケを愛してくれているのかを。  ニケは静かに目を閉じる。 「それはまあ、多少は気になるな」  ――では。  その声を遮る。 「だが、それを試すか試さないかは僕が決める。これ以上、僕の心で不愉快な言葉を垂れ流すのは許さない。今すぐにどっか行け」  ガリッと白い棒に歯を立てる。すると螺旋を描くように炎が走り、ファスの部屋、幽霊画、お布団とすべてが黒焦げとなって崩れていく。木造平屋に大量の紙。燃え上がるのはあっというまだった。  何もかもなくなり、炎で明るくなった心の中。ニケの眼前に、黒いモヤが蹲る。 『……どうして僕の言う通りにしないの?』 「どっか行けと言ったぞ」  黒いモヤは首のような部位をかくんと傾げる。 『ニケは僕の術中にいるのに、君の心に触れられない』 「ふーん……? 精神攻撃を得意とする種族か、幻覚系の魔九来来(まくらら)か。僕はそのどれかを受けている最中か。ってことは、現実の僕は今、気を失っている状態……か?」  フリーが暴走していないといいが。  それだけを心配し、静かに目を閉る。白い棒を口から離す。  火は瞬時に消え、降ってきた闇と黒いモヤが同化する。暗闇にニケ一人となった。  でも声は聞こえる。 『僕に心を明け渡して? 良い夢を見せてあげる』  モヤが色んな幻影を見せてくる。どれも他人には見せられない、ニケの望む未来。妄想。欲望。たしかに心地よい。このままその幻覚に浸っていたいと思うくらい。 「まさか「第二の火・回火(かいひ)」を使えるようになるとはな。帰ったらフリーに自慢してやろう」  自分の心をも無視して、ニケは魔九来来の第二を使えたことを喜んだ。  じいちゃんに教わった。精神攻撃を仕掛けてくる魔物のこと。精神攻撃を受けたと理解した瞬間から、すべてを無視しろと。聞こえる声に返事をするな。助けを求めるな。弱みを見せるな。理解しようとするな、と。  凍光山(とうこうざん)という魔境に暮らしていただけあり、やわな精神はしていない。それでも所詮は「子どもにしては」の域。  ニケの心は不安と恐怖でいっぱいだった。  モヤが嫌な幻覚を見せてくる。  家族が死んだ。キミカゲもリーンも。知り合いすべてが血みどろの屍と化した紅葉街で、ニケは座っている。……竜(オキン)の死体がないことに笑った。流石に竜が死ぬところなど相手も想像できないか。  笑っているはずの口元が引き攣る。押しつぶされそうだ。握った拳が冷たい。 (僕は孤独が嫌いだ)  だから相手はこんな幻を作るのだろう。効率的だ。ニケの一番嫌なものを突き付けてくる。  それでもニケは自分を見失わなかった。 『どうして? 壊れないの?』 「……フリーの声がする」  この場所にいるのも飽きた。さっさとフリーの腕の中へ行こう。  歩き出すニケに、モヤが腕のようなものを伸ばす。 『逃がさない。ニケはずっとここにいて』  モヤが両肩を掴み、ニケの心臓がびくりと跳ねる。  そのまま闇に引きずり込もうとし、覆いかぶさろうとした時だった。  ニケの唇から、女の声がした。 『私の弟の心に、土足で入ってこないで』 『!』  モヤが凄まじい力で弾き飛ばされる。焦って手を伸ばすも、小さな身体はもうどこにもなかった。幻影から抜け出したのだ。信じられない。信じられない。信じない。許さない。 『もう一度、飲み込んでやる』  大きく口を開け、呪いの言葉を叫ぼうとしたモヤの肩を、誰かが気楽に叩く。  ぽんぽん。 『……え?』  振り返ったモヤが間抜けな声を漏らす。  そこにいたのは、ニケとよく似た顔立ちの、髪の長い少女だった。  黒い犬耳に、ふさふさの黒い尻尾。黄色の着物が良く似合う利発そうな顔立ちに、炎の瞳。  モヤは呟く。呆然と。ここは自分の領域(テリトリー)なのに、異物がどこから入り込んだのだ。 『……誰?』  犬耳の少女はにこりとほほ笑む。 『こっちの台詞よ』  少女はモヤを掴んだまま身を翻すと、すたすたと歩いていく。思わぬ怪力に、モヤは引きずられる。 『ど、どこに行くのっ?』 『地獄よ。私の家族もいるから、みんなでコテンパンにしてあげるわ』  ぐっと握った拳に青筋が浮かんでいる。  信じられないと言いたげに、モヤの声が震える。 『そんな。そんなっ馬鹿なことが……。死者が直接生者を殺せるはずが』 『ここは境界線があいまいな心の中よ? そんなことも知らないで、ヒトの心に入っていたわけ? お馬鹿さんねぇ……』  頬に手を当て、やれやれと首を振る。美しい黒髪が波打つ。 『そんなっ! 嫌だ。死にたくない! 小娘が、殺してやるっ』  モヤが喚くが、少女はもう相手にしなかった。  死を感じたせいかあまりに必死にモヤが暴れるので、少女の腕や身体が傷ついていく。鋭い爪に傷つけられ着物が赤に染まる。モヤを掴んでいる指など、もう千切れそうだった。自身がこぼした血で赤い道を築きながら、ただ一度、ニケが歩いて行った道を振り返る。 『……お墓参りに来てくれて、ありがとうね。ニケ。いつまでも、大好きよ……』 『がああああっ! 死にたくない。死んでたまるか。放せ、この死神が!』  血走った目で、モヤが少女の腕を力任せに引き千切る。血しぶきが激しく舞うが、もう手遅れだった。 『あっ……?』  足場が消える。モヤがヒュッと息を呑む。  動かなくなった少女と共に、モヤは真っ逆さまに落ちていく。地獄の炎の中へと。  目を覚ましたニケの視界に、物置のような部屋が映った。  頭がフラフラする。長い夢をみていたように。すぐに起き上がれそうにない。 「……ぃー?」  フリーと言いたかったのに、声にならなかった。それでも少し離れたところで「ニケの声が聞こえた!」「え? 何?」と、二人分の声がした。  扉が開き、どたどたとやかましい二人分の足音が飛び込んでくる。 「ニケ? 起きたのかっ? 俺が分かるか?」 「マジじゃん……。なんなんこの子」  視界に入ってきたのは、髪が乱れかすり傷だらけのフリーと、衣兎(ころもうさぎ)族のうさ耳娘の兄貴・スミだった。 「ぃー?」 「そう! フリーだよ。俺だよ。ニケ! 身体の具合はどうだ? どこか痛むか?」  唾を飛ばしながら、ニケの手を両手で包み込むように握る。こんな必死な顔のフリーなど珍しい。ニケは思わず小さくほほ笑む。 「ねむ、ぃ……」 「ニケ?」  赤い瞳が瞼に隠され、幼子はこてんと眠りにつく。 「ニケ!」 「落ち着け」  真っ青になったフリーの肩を、スミが掴んで引きはがす。取り乱しそうな白い青年を自分の方に向かせ、目を見て話す。あの怒気は何だったのかと思うほど、フリーから何も感じなくなっていた。 「大丈夫っぽいから。さっきまで苦しそうにしていたのに、今は落ち着いているだろう? 見てみ」  スミに言われ、フリーは恐る恐るニケの寝顔を覗き込む。確かに、さきほどまでの苦しげな表情が嘘のようだ。  汗ばんだニケの頬を挟みこむ。はあ~~~やわらかい。 「じゃなくて、本当だ……。少し楽そう。でも本当に大丈夫なの? 何をもって大丈夫と言ってるの?」  あわあわと落ち着きのないフリーに、ため息をつきながら腰を下ろす。 「何をもってって……。衣兎族より弱い種族などそういない。つまり自分の危機察知能力は天下一だ。言っただろ? 自分が大丈夫といえば大丈夫なんだよ」  真剣な表情で謎の自信を掲げる青年にフリーも言葉に詰まる。そんな馬鹿なと一笑できない何かを感じた。  ふあふあなうさ耳で、人には感知できない何かを捉えているのだろう。金の混じった黒髪に、衣兎族が持つはずないという青い瞳。肌は健康的に焼けており、雪山育ちの肌と比べるとよく焼けたせんべいを思い出す。ほつれの目立つ青いシャツに黒のズボン。  目線がスミの頭上に固定されたまま、フリーは口を開く。 「じゃあ、首都の神使さんを呼ばなくても、良いってことですか?」 「そう……だな。精神攻撃系の魔九来来は、そのまま精神力で跳ね返すか、神使様に魔払いをしてもらうかしかない。……でもニケは自分で跳ね除けた、みたいだ」  感心半分呆れ半分なスミの言葉に、フリーはへたり込む。 「はああぁ……。そっかぁ。さすがニケだ。もおおおお。ニケが目を覚まさなかったら俺、暴れ散らかしてたよ」  べちょっとニケの横で倒れ込むフリーに、スミは内心で冷や汗を流す。  心の中でどんな戦いがあったのかは分からない。心の中など助けに行きようがなく、見ていることしか出来なかった。何もしてやれないというのは地味に苦しかったが、もっと苦しかったのはニケだろう。いや本当に、ニケが打ち勝ってくれてよかった。この白い子、さっき揉めた際に爆発寸前のような気を発して、ちょびっと怖かったのだ。  スミもその場でごろんと横になる。  とても疲れた。  スミがフリーたちと会ったのは、犯罪集団の争いが激しさを増した頃だ。

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