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第29話 滝雨
(大きい音が嫌なんだな……)
耳を倒したニケの顔をすごくすごく見たかったが、腕に顔を押してくるようにくっついているので、ご尊顔が拝めない。くそう。
雷が鳴る直前で、フリーはニケの倒した耳に手のひらを添えるように置く。この程度で音を完全に遮断できるわけはないが、多少はマシだろう。直後、空が割れるような音がして微かに地響きがする。身構えていたニケだが、思ったより音がくぐもっていたおかげでそこまで怖くなかった。彼が耳を塞いでくれた事を嬉しく思いながらも、「空を見ていないのにいつ雷が鳴るのか、わかるのか?」と、ちょっぴり引いた。
「落ちたな」
何気なく呟くと、フリーの手をどかしてニケが膝に乗っかってきた。そのままフリーにしがみつく。
フリーは目元を押さえて天を仰いだ。
(っはぁ~。可愛い以外の言葉がない)
時間止まらないかな~と、足をぶらぶらさせていると、いきなり滝のような雨が降ってきた。小声では会話もままならないほどの、ざぁーという音が館内に響く。
「ええっ? なにこの雨?」
立ち上がりそうになるフリーに呆れた目を向ける。
「だから雨が降ると言っているだろうが……」
「こんな急に降るっ? 小雨から徐々に大雨になるのなら分かるよ?」
ニケを抱えて、玄関付近まで行ってみる。
大雨で視界が白く霞んでおり、客も女中も関係なく建物の中に駆け込んでくる。
「いやぁ。まいったまいった。ずぶ濡れだ」
「すごい雨ですね」
「野分の月がきたって気がするな」
宿泊客だろうか。濡れたと言う割にはどこか楽しそうだ。女中さん達から手ぬぐいなどを受け取っている。
フリーたちは端っこによけ、空を見上げる。
「こりゃ、笠を被っていても関係ないね。走って帰る?」
「やめろ。お前さんがすっ転んで水路に落ちる未来しか見えん。僕を巻き込むな」
落ち込むフリーを無視して、さっきまで座っていた椅子を指差す。
「僕一人ならともかく、お前さんが風邪を引いても困る。雨が止むのを待とう」
「う、うん」
椅子に戻るも、座ろうとはしない。椅子の周りをうろうろ歩いている。しかも鼻歌を歌っているので、眠らない我が子をあやしているヒトのように見える。
(そういや退屈が嫌いなんだったな)
ゴロゴロと雷は鳴り続けるも、フリーの腕の中にいると不思議と安心できた。
「急な雨で女中さんたちが慌ただしくなっているし、どさくさに紛れて旅館内を探索するってのは、駄目かな?」
「気持ちは分からんでもない。しかし、自分の立場になって考えてみろ。立ち入り禁止だっつってんのに、僕の宿にヒトが入ってきたらお前さん、どう思う?」
フリーは目が覚めたと言わんばかりに、硬直する。
「た、確かにそれは……嫌だし困るね」
「うむ。善意で休憩させてもらっているのだ、ここは大人しくしておこ……う。いや。待て」
「ん?」
腕の中から飛び降り、椅子上に着地する。
「こういう事情で館内を見学したいんですと、一度も頼んでいなかったな。十中八九断られるだろうが、行動する前に諦めるのはよくないな」
ひとりうんうんと頷く。
しかし声をかけようにも、急な雨に対処すべく、どこを見ても慌ただしく動きまわっておられる。どれだけ急いでいても競歩くらいの速さで、走っている女中さんは皆無だ。
ちょっと今は声をかけられない。
「女中さんの仕草、対応。館内を見れないのは残念だが、これだけでも十分価値があるな」
「ん? 女中さんに尋ねに行かないの?」
座り込むニケに、「自分が行ってくるよ」と歩いていく。
「うん」と頷きかけ、思わず目を丸くした。
「ええっ? ちょっと待て! こんな忙しそうにしているヒトたちに? よく突撃できるな、お前さん」
「だから、でしょ? 全体的に水準の高いここの女中さんがどんな対応をしてくれるのか気になる」
忙しい中で神対応をしてくれたら、それを自分たちも取り入れればいいし、もし邪見にされても「高級旅館でもこういう対応するんだ」と、どこか安心できる。
と、笑顔で言ってのけるフリーに、「クソ迷惑な客だな」とニケは思った。しかし、恐ろしいことに、どこにいてもどこで働いていても、迷惑で理不尽なクソ客は現れるものだ。接客業をしていると嫌でもそれが思い知らされる。
店員の方が立場弱いと勘違いし、あれこれ難癖をつけてくるお客さまには、本当に塩をまいて岩塩をぶつけたくなる。
(僕の宿はレナさんを含め修羅場をくぐってきた猛者が多かったから、困ったお客さんはあまりいなかったな)
それは一見良いことだが言い換えると、迷惑客に対しての経験値が少ない、ということになる。
――いや、だからってわざわざ迷惑になると分かっていることを実行するってどうなの?
止めた方が良いかと思うも、フリーはすでに女中さんをひとりつかまえていた。
「忙しいなかすみませ~ん」
忙しいと分かっているなら話しかけるなよと言いたいが、ニケは見守ることにする。
「はい」
ぴたっと足を止め、笑顔を浮かべる女中さん。苛立ちを微塵も表に出さない。苛立っているヒト特有の空気も感じない。流石である。
「記念に館内を見て回りたいんですが、いいですかー?」
フリーらしくない軽薄な口調。へらへらした笑みも、まるで誰かを真似ているかのようだ。
(……ミナミちゃんかな?)
なぜそんな喋り方をする。もしかして怒らせようとしているのだろうか。ケツ蹴って止めに行った方がいいか?
「はい。館内を見て回りたい、ということですね? 上の者に確認してまいりますので、少々お待ちくださいませ」
愛嬌たっぷりな笑顔で一礼し、その場を去って行く。
ニケはフリーの足元に移動する。
「すごいな。あの女中さん。僕だったら舌打ちして二発くらい殴ってるぞ」
「いやいや。ニケはお客様にそんなことしないでしょ」
苦笑するフリーの足にしがみつき、よじよじと登っていく。
「当然だ。お前さん限定だ」
フリーが頬を染める。
「え? 俺が特別……ってこと?」
よし。殴ろう。
少女のようにときめく十八歳男性に無性に怒りが込み上げる。
拳を作ろうとして、二度目の轟音と振動が来た。あちこちから悲鳴が上がる。
「ぴぃっ」
尻尾の毛が逆立ったニケは、フリーの顔面に飛びつく。
「ぬ? 幸せで前が見えない」
ニケが落ちないように、尻を支えてやる。
耳がやられたのか一瞬すべての音が消えるも、すぐに雨音が耳に入ってきた。弱まらない雨。地面の上を溜まった水が波打っている。
池の水が溢れ、鯉たちが流れ出ないよう、どんな対策をしているのかも気になる。
「他の、見学に来ていたヒトたちは、どうしたのかな?」
ふごふごとフリーの声がくぐもっている。
「お前さんと違って天気読み出来るからな。引き上げたんだろう」
「こんな急な雨も読めるものなの?」
「いや、単純に鳴りだしたから帰ったんだろ……」
ふぅっと息を吐き、頭部に顎を乗せる。
「お待たせいたしました」
先ほどの女中さんが戻ってきた。
ズレた笠を戻し、幸せを顔から剥がして胸に抱く。
女中さんは胸元に手を添える。
「私の案内でのみ、許可が下りました」
「え? いいの?」
「すいません。無茶を言って」
ぺこりと犬耳を下げる幼子に、「客間の方には案内できませんけれど」と付け加える。
「はい。まったく構いません」
女中さんは右手をご覧くださいと、手のひらを上に向ける。
「では、まず案内させていただくのは――」
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