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第30話 びしょ濡れ

 案内が終わるころには、雨風の勢いは衰えていた。  「黄昏」と書かれた番傘を片手に、もう片方の腕でニケを抱いて、フリーはスミの家へ歩く。  礼を言って帰ろうとしたら、笠だけではびしょ濡れ不可避だろうと番傘を貸してくれたのだ。借金を終え、金が溜まれば泊りに来たいと思うほどファンになっていた。  濡れないようにニケを着物の中に入れようと考え、前を開いて「入る?」と言ってみた。  ニケはぱあっと嬉しそうな顔を見せたが、後ろで見ている女中さんの存在を思い出す。ハッとしたニケは「お前さんがそこまで言うなら。しょうがないから抱っこさせてやろう」と言って背中に乗っかる。  これはおんぶでは? と思ったがそのまま旅館を出た。一度だけ後ろを振り返ると、係のヒトと女中さんがお辞儀して見送ってくれていた。最後まで気分の良い空間だった。  風で斜めになる雨に、足元が容赦なく濡れていく。するとニケが壁を伝うように前に移動してきた。番傘を片手持ちに切り替え、ニケをしっかりと抱きしめる。  夕暮れの首都。雨でなければ明るい提灯やらがたくさん、首都の道を照らしていただろう。 「おんぶは? いいの?」 「ほらっ。足を止めるな。早く帰るぞ。お前さんに風邪を引かれたらかなわん」 「あ、はい」  大粒の雨が番傘を叩く。また勢いを増してきた。番傘をだいぶ斜めに傾けのろのろと進む。ニケが「走るなよ? 絶対に走るなよ?」と言ってくるので。  おかげで、何人ものヒトにどんどん抜かされていく。その度に泥が跳ねて白い着物を汚すが、ニケが濡れないようにしようということで頭が一杯だった。  気温がかなり下がったように思う。時折吹く強い風によろめきそうになるも、凍光山(とうこうざん)の吹雪に比べればなんてことはない、と強がる。 「う~。前が良く見えない。道、合ってるかな?」 「僕がナビをしてやる。真っすぐ進め」  ニケが帰る方角を指差してくれるので、それを頼りに進む。 「こんなに雨が強のに、前見えるの? それともにおいを頼りに?」 「……逆に、この程度の雨で方角が分からなくなるお前さんの雑魚視力が気になる。一回視界を共有して、お前さんの目を通して世界を見てみたいわ」 「俺も~。ニケの優れた嗅覚聴覚を体験してみたい」  ふっと笑い合い、ようやくついたスミの仕事場の戸を叩く。 「スミさぁ~ん。ただいま帰りました」  数回叩いてみるも、返事は無し。 「雨音で聞こえないのかな?」 「衣兎(聴力抜群種)族だぞ? それはないな」  フリーの声は聞こえなくとも、ノック音は聞こえるはずだ。  早く屋根の下に避難したい。仕方ないので回り込んで檻状になっているところから中を覗いてみる。  中にはランランと「うわ。もう帰ってきやがった」みたいな表情のスミがいた。  ニケが「ただいま帰りました」と可愛い笑みで手を振ると、スミは戸を開けてくれる。 「おかえり、ニケ。すごい雨だな」 「はいっ」  ちらっと、おまけのごとくフリーも見る。 「…………フリーくんも、おかえり~。何帰ってきてんだくそが」  最後、めっちゃ小声で何か言われた気がする。うっすら青筋を浮かべ、フリーは番傘ごと室内に押し入った。 「ただいまー。いやあ、ずぶ濡れだわ」 「こらぁ! びしょ濡れで入るな」  番傘をその辺に置き、家主の抗議を聞き流して室内を見回す。 「スミさん。何か拭くものをくれませんか? ニケが濡れてないか心配なんです」 「僕はいいから。お前さんは早く着替えてこい」  着替えの入った荷物はスミの家の方に置いてある。  外の雨を見てうんざりした声を出す。 「はぁー。ちょっと着替えてきますね? スミさん。勝手にお家に入りますよ?」  スミは呆れたように腰に手を当てる。 「すでに勝手に仕事場に入ってきてる件については?」  フリーは番傘をもう一度握る。 「すぐ戻るけど。ニケは、何かあったら……」 「あまり僕を舐めるなよ? 『操縦士』か何か知らんが、何かあってもお前さんのところまで逃げ切る力はある」  雨のため、火の魔九来来(能力)は全く役に立たないだろうが。自慢の足がある。 「うん。じゃあ、行ってくるね」 「あー! わかったもう。分かったから」  出て行こうとすると、スミに首根っこを掴まれる。 「ぐええっ? なんですか?」 「自分の服、貸してやるから。百歩譲って仕事場は良いが、頼むからそんなびしょ濡れで家の中に入るな……」  フリーを引きずり、仕事場の餌を仕舞っている扉を開ける。中には「千鶴白菜」と、よく見ると予備の服やら救急箱やらが置いてあった。  白菜を見た花子が「飯だ!」と言わんばかりに飛び掛かるが、手に持っていた人を盾にして突進を防ぐ。 「ぐほっ?」 「こら。花子。ご飯食べただろ。おすわり!」  レンタル主に叱られ、落ち込んだ様子で花子はすとんと伏せ(っぽい姿勢)を取る。隣でニケも正座したので吹き出しそうだった。 「いや、ニケには言ってない……」 「はっ! つい」  赤面して立ち上がったニケに和みつつ、まだ花子にしがみついているフリーの尻を叩く。 「気安く花子に触れるな! 怪我させたらレンタル料の三倍を請求されるんだぞ! 払えるかそんな額」 「盾にしておいて何て言い草」  予備の服を引っ張り出し、白い胸板に押し付ける。 「それに着替えろ。ちょっと小さいかもしれんが、ずぶ濡れ状態よりはマシだろ?」 「ちょっと? 俺よりかなり背ぇ低いと思うんですが?」  何気なく言ったのだが普通にビンタされた。  泣きながら頬を押さえる。 「暴力は良くないですよっ?」 「久々に腹の底からイライラする。ミートセンサーに入れて花子の餌にしてやろうか」 「草食のはずではっ?」  わあわあと揉める青年ふたりにため息をつき、ニケは隣のもふもふを触ってみる。  触っている感覚がほぼしないほどやわらかい。こりゃフリー好みだな。  花子も小さい生き物が珍しいのか、鼻(と思われる)部位を近づけくんくんと嗅ぐ。  近づいたために、ニケが毛に埋まる。  長い毛が鼻をくすぐり、ニケは盛大にくしゃみした。 「――っくちゅん! ……こら。近いぞ。ずずっ。くしゅぐったい」  押し返そうとするも、なかなか毛の中の本体に届かない。  両腕を伸ばして毛に上半身を突っ込んでいるニケ。彫像のように動きを止めたフリーがつぅーっと涙をこぼす。 「尊い……」  両手を合わせて拝んでいる青年に、スミは「うわぁ」という表情で数歩離れる。  勝手に着替えるだろうし、しばらく放置しておこうと思い、毛に埋まっている幼子の帯を掴んで引っ張り出す。 「どうだった? 黄昏旅館は? 立ち入り自由になっていたはずだけど」 「あーえっと。中庭には自由に入れるようになっていたんですが、建物の中は立ち入り禁止となってました」  ニケを下ろして頭部を掻く。 「そ……うだったのか。勘違いしてたみたいだな。すまん」 「いえいえ。とんでもない。結果、建物の中に入れてもらえましたし」  スミは目を丸くする。 「え? どうやって? もしかして大女将がこの白髪野郎みたいな性癖の持ち主だったとか?」  それなら入れたことに納得がいく。瞳を潤ませて「入りたいな~」というだけで建物内すべてを開放してくれそう。  「すべて理解した」と頷いているスミに、「ちょっと待ってください」と足に引っ付く。遊んでいると思った花子も引っ付いてくる。 「実はかくかくしかじかでして」 「なるほど。まるまるうまうまだったというわけだな」  特大のふわふわとニケに挟まれているスミ。その後ろからギリギリギリと不穏な歯軋り音が聞こえる。 「参考になったのか?」 「はい。高価な調度品などは、揃えるのは大変なのでそこは真似できないです。それよりも女中としての振る舞いや心構えなどの方が、収穫としては大きかったですね」  元々の立ち振る舞いなどは家族の動きを見て覚えただけ。多少は教えてもらったが、まだまだ未熟。もっといろいろ教えてほしかった。  ニケはふふんと上機嫌に胸を張る。 「ま。細かいところは、姉ちゃんが帰ってきたら教えてもらいますよ」 「「……」」  なんか仕事場の空気が一気に重たくなった。

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