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第36話 宿名は?

 首都・藍結(あいゆい)。  仕事場から追い出されたフリーたちはスミの家で起床する。治安の悪さのせいか夜中に争う声や物音が聞こえ、何度か目を覚ました。その度にフリーと家の外に出て様子を見たが、スミは結局帰ってこなかった。 「仕事場で寝泊まりしているのかな?」  布団を畳んでいるフリーに、もっと引っ付いていたかったニケがふんと頬を膨らます。一晩中くっついていたのだが、足りないらしい。 「ま、夜中に下手にうろついても危険だしな。仕事場で一夜を明かす方がいいだろう」 「つっても、あそこほぼ外じゃん。危険度変わらなくない?」  外が見える方がランランは落ち着くのだろうが、防犯の面が気になる。  これみよがしにため息をつき、ニケが呆れた顔になる。 「んなぁ? お前さんは誰かを心配していないと死ぬのか?」 「え?」 「金護竜(きんごりゅう)を無駄に心配したせいで怒らせたこと、もう忘れたんか?」  フリーの前に腰を下ろすと、白い手が当たり前のように髪を梳き始める。 「……」 「僕らはお前さんが思っているほど弱くも儚くもないぞ? なぜそんなに? なにがそんなに心配なんだ?」  ディドールにもらった椿油を指に刷り込ませ、手櫛で黒髪を梳いていく。強いにおいは嫌がるから、椿油のつけすぎに注意する。 「むしろ僕らがお前さんの心配をする側だろう」 「う、うん……。ごめ」 「いちいち謝らなくていいが」  ぴしゃりと遮り、肩越しに振り返る。 「僕が言いたいのは。その、だな……。心配のし過ぎで、考え込んで鬱になるヒトがいる。……っと、つまり」  見つめてくる金緑の瞳から目を逸らす。 「フリーにそうなってほしくなくて、だな……」  もごもごと言葉を舌の上で転がし、艶が倍増した毛先を指でいじる。  フリーは口を開けたマヌケ面で固まっていたが、やがて困ったように微笑んだ。 「……ニケって、俺のこと好きだよね」 「調子に乗るな」  普段着へ着替える。干しておいたおかげで乾いていた。  帯もフリーが結んでくれる。リボンをわざと斜めにする、斜め蝶という結びをニケは気に入っていた。ディドールさんから教わったと聞くが、フリーのクセにシャレたことが出来るようになったものだ。  最後に穴から尻尾を出せば完了。 「ふふんっ。今日も僕は決まっているな」  埃でコーティングされた姿見の前で、ふんふんと上機嫌に尾ではなく尻を振る。 「……」  鏡に映った瞬きしない瞳に、身の危険を感じすぐやめた。  フリーはニケにしてみせた丁寧さの半分もない手つきで、ぱぱっと自分の身支度を済ます。  よく見えね~と愚痴りながら、鏡前で髪を結んでいるフリーをじっと見つめる。 「お前さんいつも袴だけど、ホクトさんみたいに着流しとか、スミさんみたいな洋服とか。服装を変えてみたくならないのか?」  フリーは怪訝そうに振り返る。 「俺は男物の着物以外、着ませんよ?」 「そのこだわりはよく分からんが、洋服姿は悪くなかったぞ?」 「ごぼうと言われた記憶があるんですが?」  ニケは首を傾げる。 「ごぼう嫌いだったか?」  キョトンとした顔が可愛い。ではなく、どうやらゴボウの件は悪口の類ではなかったようだ。  ニケは幻で見た花札市代を思い出す。彼女のように、洋装で肩から羽織をかけたスタイルが似合うのではないか。というか、憧れのヒトの服装をフリーにさせたい。 「洋服嫌いか? ん? ん?」  角度を変えて覗き込んでくるニケに身悶えする。限界までその頬を引っ張ってみたいと思うのは命知らずだろうか。  伸びてきた白い前髪を適当に耳にかけ、ニケの頬を両手で包み込む。頬か額か迷ったが、今日は額に口づけをした。  ちゅー。  朝起きたら必ずするんだぞ、と言われたのを守っている。唇を離すと、ニケの口角がUの字のように上がっていた。連続で可愛い攻撃はルールで禁止にすべきだ。もたない。心臓が。 「ぐあっ」 「おい。死ぬな」 「洋服は……あのシャツっていったけ? シャツはボタンが面倒くさそうなんだよねー。いまのこれでいいかな」  衣兎(ころもうさぎ)族の村でもらった着物。スミのシャツ並みに痛みが目立つようになってきた。 「借金払い終わったら着物を買ってやろうと思ってな。ボタンなら僕が……それはちょっと甘やかしすぎかな?」  あー。そんなことどうでもいいわ。  とにかく花札市代スタイルのフリーを見てみたい。 「よし。そういうわけでシャツを買おう。決定な」 「どういうわけでっ? いや……いいけどね? ニケが選んでくれたものならなんでも」  ニケが不思議そうな顔をする。 「え? 女物でも?」 「おあっ? い、いえあの。もちろんそれは男物で……って、ニケ。わざと言ってるでしょ?」 「ばれたか」  我慢できず口元がにやけてしまった。「こいつぅ~」と追いかけっこを始める二人。仕事場で仮眠を取っていたスミは、謎のセンサーでいちゃつきを感じ取り、湧きあがる憎悪で目が覚めた。  胸を押さえる。 「……なんだろう。このいらつきは」  目を据わらせたスミの隣で、「散歩散歩」と花子がはしゃいでいた。  花札市代で『操縦士』のことも思い出したわけだが、どういうわけか、ニケはもう彼がいないような気がしてならなかった。 「それって、藍結(首都)にいないってこと?」  漠然とした話をするもフリーは「気のせいでしょ?」とは流さず、真面目に聞いてくれた。『操縦士』の捜索と朝の散歩も兼ねて、ニケたちは十二区をぶらついている。早朝は危険といわれているためか人通りはまばらだ。  ニケは腕を組んで眉間にしわを寄せる。 「ううん。何とも言えんが。首都というか、この世にいると思えなくてな。……いかんな。考えたくなくて、都合の良い方に思考が寄っているのかもしれん」  ごつごつと拳で頭を叩くと、速攻で手首を掴まれる。  見上げると、「何してるの?」と言いたげな瞳と目が合う。 「……ちょっと喝をいれただけだ」 「そう」  そのままフリーと手を繋ぐ。  気温は落ち着いているが、昼頃になればまた暑くなりそうだ。 「この世にいないか~。心の中で殺した覚えある?」 「無いな。回火(かいひ)でも燃えなかったし」  ニケは『操縦士』との対面で第二の火を使えるようになった。本人は喜んでいたが、魔九来来(あの力)の代償のことを思うとフリーは素直におめでとうと言えなかった。  なぜなら赤犬族の支払う代償が……実はよく分かっていないという。そんなことある? と言いたいが、フリー自身も最近判明したばかりだ。判明したというが、それが正しいという確証もない。 『ニケさん。もう二度と魔九来来(まくらら)使わないでね? 代償が寿命だったらどうするの? 死ぬよ? 俺が』 『いや別にお前さんの寿命を吸い取ってるわけじゃ……』  代償が判明していないケースもあるとか、恐ろしすぎないか? 判断したばかりな自分のことは棚に上げ、真剣に震える。  寝る前の会話が不穏過ぎて寝つきは良くなかった。  こうして不用心に十二区をうろついているのも、「回火」を使えるようになり、気が大きくなっているのかもしれない。いつものニケらしくないが、心配しすぎと叱られたフリーは頭を振って切り替える。 「まあ、俺の前に現れたら峰で思いっきり首を叩いておくよ」 「……」  不殺の精神はどこへ行ったのだ。  峰なら大丈夫と思ってないか? 鉄の塊で首を殴ったら、下手をすると死ぬぞ。 「ふん。僕の用心棒ぶりたいなら、その心配性となよなよした性格を治すんだな」 「……ニケは、俺の性格嫌い?」 「そんなこと言っとらんだろう」 「お、おう……?」  ニケのこういうところが難しいなと思いつつ、スミの仕事場の扉を叩く。  返事はない。 「留守かな?」  ニケは黒耳を震わせる。 「ううん。どうにも中は空だな。お花もいない」 「誘拐っ?」 「ランランを誘拐しようと考えるのは地上でお前さんだけだ。……散歩かもな」  ニケは五区の方に歩き出す。  手を繋いでいるフリーは引っ張られる。 「おっと。どこ行くの?」 「スミさんに朝の挨拶をしたかったが……いないようだし、僕らは五区にある宿を見に行こう」  五区に近づくと活気が出てくる。もう道を覚えたんだなと感心しつつ、笠を深く被る。日差しが眩しい。 「二区でなくていいの?」 「高級旅館ばかり見ていると、高級志向になって金銭感覚とかが狂ってくる」 「黄昏旅館、良かったよねー」  しみじみと頷いているフリーに、僕の宿も褒めろと言いたげに頬を膨らませる。 「そういえば、ニケの宿の名前って、あるの?」 「……」  なんかすごいことを言われた気がする。

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