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第39話 同族
なんと説明したものか。迷惑をかけたなら謝らなくてはと思ってしまう生真面目なニケは、「逃げる」ということが思い浮かばない。
「遊ぶなら他所で遊びな」
大柄な赤犬族の男がニケをひょいと抱え上げると同時、眠っていた老婆の鼻がくんくんと動いた。
そして――若干白く濁った赤い瞳をカッと開く。
「ひっ? おばば様?」
驚いた白鳥族が落としそうになるが、赤犬族の老女は信じられないほど機敏な動作で飛び上がると、空中で三回転し仙人の如き軽やかさでニケの前に着地する。
ぜんざい色の着物が遅れてふわりと落ち、ほのかな線香の香りが鼻をくすぐった。
「お、おふくろ……?」
呆然とした声をもらす息子の声など聞こえていない様子で、老婆は振り返ると――ニケに縋りついた。
「う、うわあああっ。サクラ様ぁ!」
「!」
通行人含め一同がギョッとする中、老婆は少女のようにわんわんと泣く。
「申し訳ありません! 申し訳ございませんんん……! お許しを、お許しを」
起き上がったフリーがぶつけた鼻を摩りながら、なに? と首を傾げる。
老婆はニケの頬を両手でむにっと包み込み、顔を見ながらさらに大声を上げる。
「ああ、ああっ! サクラ様……。貴女様がおられるということは、わたくしはもう死んだのでしょう? 謝りたかったのです……ずっと、ずっと! ああああん。ごべんなざいいぃ……っ」
幼子を抱きしめ大粒の涙をこぼす母を、訳が分からないといった様子の息子がとりあえず支える。
「お、おい。落ち着いてくれよ……。おふくろ?」
「おばば様が、立った……? ここ数年、歩けてなかったのに」
ニケとしても落ち着いてほしいが、手足をバタつかせるしか出来ない。老婆なので気を遣って突き飛ばせないというのではなく、純粋にニケより腕力があるのだこのおばあちゃん。
困惑気味に顔を見合わせていた一同が引き剥がそうと、ついでにフリーも混ざるが、おばあちゃんの腕はビクともしない。
「おばば様? どうなさったのです?」
肩を揺すられ、老婆はようやく白鳥族の女性の方を向く。
「……なんだい? お前さんまで死んじまったのかい? 早いよ、お馬鹿!」
こつんと拳を頭に落とされ、女性は目を点にする。
「え? い、いえ? まだ死んでいませんよ? 死んで……ないですよね?」
念のため若旦那の方をちらっと見る。混乱の汗を流しながらも、赤犬族の男は「大丈夫だ。まだ死んでない」と力強い目線で返してくれた。
「何言ってるのさ。こうしてサクラ様がおられるってことは、死後の世界……」
「ニケを返して下さいオラァ!」
すぽーんと、腕から「サクラ様」がすっこ抜け老婆は目を見開く。
息子の肩に手を置いて身体を支えつつ、白い物体に向かってビシッと指を差す。とうの昔にこの目はほとんどぼやけて視えなくなったが、完全に光が失われたわけではない。なんかやけに背が高いが、白いってことは白鳥族のルベルフェザーだろう。
「これ! ベルっ。サクラ様を雑に扱うんじゃないよ」
「おばば様? ベルはこっちです!」
背後から聞き慣れた声がして「あ、あれ?」と振り返る。
「お、お前さん……。いつの間に背後に?」
「ずっと背後にいましたっ」
信じられんという顔をするおばばの肩を、白鳥族の女性は必死に揺する。
その手を払い、腕を伸ばしてよたよたとニケに近寄る。
「あ、ああ……サ、サクラ様」
ニケはフリーの腕から下りると、ぺこっと頭を下げ、少しだけ早口で自己紹介する。言っちゃあ悪いがこのおばあちゃん、歩く幽鬼族のようでちょっと怖いからだ。
「初めまして。サクラフレサは僕の祖母です」
老婆の動きがピタリと止まる。わなわな震える母親を息子がそっと支える。
「で、では、あなたは……? あなた様は?」
「僕はニドルケ。おばあちゃ、サクラフレサの孫、です」
赤犬族の男が顎を撫でる。
「サクラフレサ……? なんか聞いたことあるな。あっ、思い出した! 母ちゃんが夢中になってた初恋のゴッ」
枯れ枝めいた拳が、息子の顎を跳ね上げる。
べちょっと地面に落ちた息子に、母親は真っ赤になる。
「これ! あれほどその話は人前で言うなと……! それとわたくしのことは母上かおふくろとお呼び。母ちゃんなんて、エレガントじゃないわ」
「若旦那。しっかり」
引いているニケに向き直ると、祈るように膝をつく。
「ああっ、ああっ。そうでしたか……。サクラ様の、お孫、さん……」
女神を前にしたかのように幸せそうに微笑む女性。
声もかすれ、その身体はゆっくりと――地面に倒れた。
「母ちゃ……おふくろの知り合いだったのか。怒鳴って悪かったな」
「いいえ。こちらが急に押し掛けたせいです」
頭を振るニケに、赤犬族の男はお茶を差し出す。ファイマほどの待遇ではないにしろ、宿の中に入れてもらえることとなった。というか、ニケがいればまた母が元気に目を覚ますかもしれない、と言われて断れなかったのだ。
招かれたのは従業員専用の休憩室。いや、物置のように葛籠(つづら)がいくつも置いてあるので、休憩室兼物置かもしれない。
――まあ、どのみち帰るつもりはなかったが。
同じ黒髪に、一面に「犬」と書かれた着物を着ている男が自身を指差す。従業員の制服姿ではないため、宿はお休みの予定だったようだ。
「俺はトマロートってんだ。トマでいいぜ?」
ロートは赤という意味があり、赤犬族ではよく使われる名だ。
ニケはお茶の礼も込めて頭を下げる。
「僕はニドルケです。ニケでお願いします」
「なんだよ固いな。もっと肩の力抜けよ」
犬歯を見せて笑う男にわしゃわしゃと頭を撫でられる。同族ということもあり、落ち着くにおいがするためニケは嫌がらなかった。
そういえばと、トマは室内でも笠を取らない青年に目をやる。
「ところで、あんたさっき話しかけてきてただろ? なんか用だったのか?」
出されたお茶が熱々だったことに項垂れていた青年がぱっと顔を上げる。
「ああ。えっと、あの~、お孫さんとかいらしたり――」
それ以上喋ると捻る、と目で黙らせ、ニケは咳払いする。
「ファイマさんからこの宿をお勧めされたので、つい声をかけてしまったのです。お忙しいなかすみませんでした」
「ファイマ、さん? おふくろの親友の……煙羅(えんら)族だよな?」
「はい」
と、そこで、大きな狐耳の男性が部屋に入ってきた。
トマは腰を浮かせる。
「おふくろは?」
狐耳の男は言いづらそうに頭部を掻く。
「ん。いやあ、お医者様が言うには、なんかすげー容体が」
「あ、悪化した……?」
「良くなってるって。紅葉街の薬師の薬でも飲んだのかってくらい。おばば様はいま、眠ってるよ」
トマはホッとして汗を拭う。
狐耳も安心したのか、「春夏秋冬」と書かれた湯呑を手に取り、ぐいーっと勢いよく飲んでいく。熱さ耐性がすごい。
「あーうまい」
「おい! それはお客様にお出ししたやつだぞ」
「おっと。失敬」
軽い態度だったが、フリーは良い笑顔で片手を挙げる。
「あ、お気になさらず」
熱いお茶を処理してもらえて喜んでるなと推理しつつ、ニケはぼさついた髪を撫でつける。
トマは怪訝そうに腕を組む。
「しっかし……。寝たきりだったおふくろが、あんなに急に回復するものか? 現役時代の動きだったぞ? うん。嬉しいけどな?」
足を投げ出して座る狐耳が、適当にほざく。
「初恋パワーってやつじゃないですか?」
「はあ? 何を馬鹿な」
「いやいや。馬鹿にできませんて。いまだにヒトを好きになったことのない若旦那にゃあ、理解できない話でしょうけど……。良くも悪くも、恋ほどヒトを動かせる燃料はありませんよ」
トマはぎろりと狐耳を睨む。
「若旦那は止せ! 何度言わせるんだ」
悪びれもせず、狐男は持っていた扇子でぺしっと自分の額を叩く。
「ありゃ。こら、失敬。若……いえ、旦那は俺の中ではまだまだ、寝る前に絵本を読んであげなきゃ寝なかった坊のままですから」
「いつまでアニキ面をしているんだ」
ぷんすか怒り、トマは顔を背ける。
上司になった男をどこか寂しそうに見つめ、狐男はまたけろっと笑みを浮かべた。
「それでちょっと聞こえたんですが、ファイマさまはなぜうちの宿をお勧めされたので?」
ちまちまお茶を飲んでいたニケが顔を上げる。
「えっと。僕も宿をやっているんですが、このたび、に、ににゅー……」
「……」
「に、にゅにゅーあゆ」
「え?」
狐男に真顔で聞き返され、ニケはもう駄目だと葛籠と葛籠(荷物を仕舞う箱のこと)の隙間で丸くなった。穴があったら入りたい、あったので入った状態である。
横文字が言いづらいんだなと、ニケのケツを眺めながら代わりに答える。
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