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第1話

 意識が向き、視線が動き、観客が息を呑む。  そんな瞬間が好きだ。  己の身じろぎ一つ、呼吸一つで全ての意識がこちらに向くその瞬間が、たまらなく好きだ。  最初はほかの俳優を目で追っていたのに、カーテンコールでこちらを目で追ってくると、なんとも言い難い達成感に浸れる。 一 「本日はご来場いただき、誠にありがとうございました」  閉場のアナウンスが流れる。先ほどまでの興奮が冷めぬまま劇場を後にする観客を、楽屋のモニターから見守る。その誰もが満足そうな笑顔で輝いており、この作品が無事、千穐楽を迎えられたことを教えてくれた。 「みなさん、お疲れ様でした」  座長が声を張り上げる。いつも明るく陽気に座組を温めてくれていた彼だが、今日この時ばかりは涙声だ。 「みなさんの協力があったから、ここまでやってこられました。ほんとうにありがとう!」  まるで引退式みたいだ。誰かがそうからかうと、どっと笑いが生まれる。  役も抜けて皆が素に帰る瞬間もまた、好きなのだ。  ラスティアス・ライジェルは今をときめくミュージカル俳優である。年齢は三十二歳。その日本人離れした甘いマスクと、人懐っこい笑顔は世の女性ファンを魅了している。  また、オレンジがかったセミロングの髪と、これまた青空を思わせる空色の瞳も天然もので、一度見たら忘れないという印象に残る顔立ちをしている。  天然尽くしの外見は、彼が生粋の日本人では無いことを表しているが、育ったのは間違いなく日本で、なめらかな西の訛りのギャップに驚かされる人も多い。ちなみに、彼の国籍通りの言語はそこまで得意ではない。これは両親が母国語ではなく、日本語を日常的に使っていたためである。 「お疲れ、ラスティ坊ちゃん」  劇場の楽屋口から出る途中、長身の男に声をかけられる。 「お前さぁ、今日もまた一本釣りしてただろ」 「人聞き悪いわ。ただちょっとファンサしただけや」  気安く絡んでくるその男は、高野久秀という。  年齢は四十二歳。百八十五センチという長身で、ややクセのある短い黒髪に茶色い瞳。顎にうっすらひげを生やしている。彼もラスティと同じくミュージカル俳優で、ブロードウェイで鍛えたその演技力は高く評価され、名作と称されるミュージカルに引っ張りだこだ。 「俺のファンが一人減っただろ」 「別にええやないの。減るもんじゃなし」 「減ったんだっつーの!」  などとじゃれ合いをしていると、パチパチと拍手の音が聞こえてきた。楽屋口の外では、出待ちのファンが行儀よく並んで待ちわびており、ラスティと久秀に手を振っている。  そんな様子に顔を見合わせると、久秀はラスティの腰を抱き、ラスティは久秀の肩に腕を回した。その様子を見たファンは声にならない悲鳴を上げる。声を出さないように耐えるファンたちに、二人はしてやったりの顔を見せる。 「みんな、出待ちせんと帰らなアカンよ」 「そうそう。坊ちゃんの仰せの通りにしないとな」  とどめとばかりに真面目な顔をしたラスティの手を取り、その甲に口付ける真似をする久秀。  それだけで、うら若き乙女たちのハートはみごとに撃ち抜かれた。『公式が最大手』というやつである。この数時間後にはネットが良くも悪くも大騒ぎであろう。  プライベートでも『仲良し』を公表している二人のファンサービスは、一部のオタク女子の間でたびたび話題に上がっている。  ファンサービスには手を抜かず、しかしやり過ぎない程度に留めているので、ファンもそれを分かっているのだ。  ところが、今回はいつもと違う。今回出演したミュージカルでは、二人は敵対関係の役だ。そのため、稽古中から一言も口も聞かず、食事にも行かず、それぞれのSNSでも話題にすら出さなかったのだ。不仲を疑われた程だ。  そして、千穐楽が終わった直後の仲良し復活である。ファンにとってはご褒美だ。  自分たちの言動で一喜一憂するファンたちを見て、気分いいな、とラスティは満足そうにして久秀とともに劇場を後にした。 「結局、俺のファンが一人減ったわけだが」 「まだ言うてんの?」  二人でささやかに行う打ち上げ。明日を気にせずゆっくり飲めるのは久々で、程よく酔った久秀がおかしそうに笑いながら文句をいう。 「一本釣りのラスティ、推し泥棒のラスティ。ククッ、なぁんか男冥利に尽きるねぇ」 「……なぁアンタ、実はめっちゃ酔っとるやろ」  ビールの入ったジョッキを片手に、グダグダと管をまく久秀。ラスティは店員に水を頼み、ついにテーブルに突っ伏してしまった先輩俳優の背中をさすった。  提供された水を飲ませて、そろそろお開きにするため伝票を確認すると、やんわりと久秀の手がそれを抑えた。 「俺が出すよ。今日はちょっと気分がいいんだ」 「ええよ。こういう時は後輩が出すもんやろ」 「こういう時だからこそ先輩が出すんだよ」  体を起こして久秀は煙草を口に咥える。ジッポライターで火を付け、ふっと肺まで吸い込んだ煙を吐き出した。  様になるなぁと思う。  己が久秀と同い年になった時、ここまでの渋さを果たして出すことができるのか。  きっと久秀だからできるのであって、自分には無理だろうと思ったので、ラスティは素直に、この煙草が似合う渋い先輩の言葉に甘えることにした。  高野久秀とはラスティが今の事務所に所属してまもない頃、とある劇団の杮落し公演の際に共演したことがきっかけで仲良くなった。 「ラスティアス・ライジェルです。こんなナリしてますが、英語は苦手です。よろしくお願いします」 「高野久秀です。こんなナリしてますが、英語は得意です。よろしくお願いします」  示し合わせたように全く同じ挨拶から始まった。  顔合わせの挨拶で久秀がラスティの挨拶にかぶせてきたのだ。顔合わせの前の挨拶では、そんなジョークをかましてくるような人には見えなかった。  どちらかというと、ラスティも久秀も見た目から、どことなく話しかけにくい雰囲気を醸し出していたため、それまでは同じ事務所の先輩やマネージャーと話をするぐらいだったのだが、この挨拶がきっかけで二人は話をするようになった。 「高野さんはブロードウェイ出たことあるんですよね」 「ああ、あるよ。ライジェル君は演技経験あるの?」 「今回がはじめてです」 「そうか。大したことは言えないけど、何かあったら遠慮なく声かけてよ」 「ありがとうございます」  なにもかも初めての事に、ラスティも戸惑いの連続だ。  もともと物覚えはいい方なので、セリフに関してはすぐに覚えられたが、演技に関しては全くの素人。  あまり感情を見せない役柄とはいえ、セリフは棒読みになるし、動作もぎこちなくなってしまう。  そんな時に助け舟を出したのが久秀だ。稽古の合間やその後に練習に時間の許す限り付き合った。 「セリフは全部入ってるんだよね。なんで棒読みになっちゃうんだろ」 「たぶん、普段の喋りと違うから、かもしれん」 「……それなら、別に訛っててもいいんじゃない? せっかくセリフ少ないし、感情の振れ幅もそんなにないんだから、多少は訛ってても大丈夫だよ」 「ええんですか?」 「キミがこの人物を訛りのある人物だと捉えたなら、それでいいと思うよ」  久秀のアドバイス通り、普段の自分に近付けてセリフを言うと、それまでの棒読みが嘘のように違って聞こえた。  これには演出家も他の役者も拍手を送った。それに伴い動きも自然なものになり、本番直前には他の役者と肩を並べても不自然がないぐらいに成長したのだ。  そして、その舞台の千穐楽。ラスティは持てる全てをぶつけた。セリフにも動きにも役にも熱が入り、カーテンコールの挨拶ではボロボロと涙を零しながら、言葉を述べる程だ。  ロビーに出ると舞台を見に来た、おそらくリピーターであろう女性客から、初日と千穐楽では見違えたとお褒めの言葉をもらい、またボロボロと涙を零したのだった。 「ほんま久秀さんには感謝しとる。おおきに」 「おいおい。急にかしこまるなって、気色悪いなぁ」  高野さんから久秀さんに、ライジェルくんからラスティにそれぞれ呼び名が変わった頃、もはや何度目か分からない共演の打ち上げの際、ラスティは久秀に頭を下げた。  感謝してもしきれないとそう付け加えると、久秀は煙草の煙を吐き出し困ったように笑う。 「久秀さんがおらかったら、今のオレはないと思うねん」 「大げさだよ。ひとえに坊ちゃんの頑張りじゃないか」  ときたま、久秀はラスティを『坊ちゃん』と呼ぶ。これはラスティが貴族の御曹司、久秀がその傍使えの役をしたことに由来する。 「それに才能があったんだよ。ズブの素人がたった一ヶ月で成長するなんて、すごい事なんだぜ。俺はそれのお手伝いをしたにすぎないの」  まるでなんでもない事のように、久秀は笑いながら言った。それでもラスティは嬉しかったのだ。  結局、その日はべろんべろんに酔っ払い、自分で帰ることもままならず、タクシーに押し込まれた挙句、そのタクシー代まで久秀に出してもらったのだ。  それから、ラスティは久秀に頭が上がらない。いい兄貴分として彼を尊敬するようになったのだ。  そんなある時である。ラスティに大きな仕事が舞い込んできた。 『ロミオとジュリエット』のティボルト役の抜擢である。  許されざる恋と愛に悩み、嫉妬に狂う難しい役どころだ。しかもそれは原作にはない設定とあって、シェイクスピアの本を読んだところで、どうにかなるものでもない。  有名な戯曲のミュージカル、有名な演出家、有名なキャストたち。  それなりにミュージカル経験を積んできたラスティからすれば、そんな彼・彼女らは雲の上の存在だ。  当然、ラスティのティボルト抜擢を受け入れる声と、受け入れない声の両方がそこかしこで見受けられ、とんでもないプレッシャーとなって押し寄せた。 「大丈夫、お前ならできるよ」  稽古の中盤。プレッシャーから夜も眠れず食事もとれず、体重が五キロも減ってしまったそんなとき、珍しく久秀から電話がかかってきた。  他愛ない雑談と近況報告、久しぶりに声が聞けて嬉しいはずなのに、上の空になってしまったラスティに、久秀はそう声をかけた。 「ティボルトも同じ不安やプレッシャーの中にいるんだよ。跡継ぎだから周囲の期待もやばいだろうし、ジュリエットはロミオにお熱だし、なんかもう訳わかんねぇんじゃないかな。いい声もあるだろうし、悪い声もずっと聴いてきたんだと思うよ、ティボルトは。それにそこまで悩むってことは、ティボルトとして生きてみたいってことだろ。初めて舞台に立った時を思い出せばいい。あの時だって、なんだかんだ上手く出来たじゃないか。だから大丈夫だよ」  どんなアドバイスよりも、久秀の『大丈夫』の一言で、これまでの不安が嘘のように晴れるのを感じる。ラスティは泣きそうになりながら、久秀の『大丈夫』という言葉を噛みしめた。  そのかいあってか、後半の稽古では肩の力が抜けたように、リラックスした演技が出来たし、初日から千穐楽までティボルトとして生きることが出来た。  批判していた者たちも、ティボルトはラスティアス・ライジェルの当たり役であると、評価するようになり、そのことがきっかけで、様々なミュージカルのオファーが殺到したのだ。  ラスティは、主演を張りたいと思うような男ではなかった。どちらかというと、主役を支える二番手ポジションで、物語に彩りを与える存在であった。  しかし、それでもきっちり爪痕を残すタイプで、アドリブは当たり前、客と目が合おうものならウインクのひとつも飛ばしたり、客席降りではハイタッチや握手をしたり、ファンサービスも行うようにしている。  本命の俳優を応援に来た客が、ラスティのファンサービスによってコロッと推し変してしまうことは、もはや当たり前であった。  いつのまにか、『推し泥棒』や『一本釣り』と揶揄されるようになっていたのだ。  そして、そのようなファンサービスの影響もあり、たびたび暴走したファンも出現する。だが、それらに取り繕うことなく毅然とした態度で窘める姿勢は、ほかの若手俳優には出来ない芸当である。  嫌いになりたくないからやめてほしい、とラスティは素直に迷惑行為を働くファンに、直接伝えるのだ。  時には他の若手俳優たちの相談に乗り、注意喚起を込めた動画やメッセージをSNSや、動画配信サービスで発信している。  ラスティがそこまでするようになったのも、全て敬愛する高野久秀の影響。  ティボルトの件以来、困ったり悩んだりしたときは、迷わず久秀に連絡を取るようにしている。久秀はラスティの困りごとや悩みごとにきちんと応えてくれる。間違ったことに対してはきちんと叱ってくれる。支えてくれる。  ラスティはそんな久秀に親愛以上の感情を抱くようになったのは、ごく自然なことだった。

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