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終幕

 開演前の空気というものは、いつだっていいものだ。  自分という殻から解き放たれて、違う自分になる瞬間というものは、なにものにも耐えがたい。  楽屋のモニターから客席の様子が見える。あと十五分後には、あの舞台の上に自分だけど自分ではない者が立っているのだ。  ゾクッと鳥肌が立ち、思わず口元に笑みが浮かんだ。 「久秀さ」 「ラスティ!」  声をかけようとする前に、逆に声をかけられる。長身の男がどこかからかうような表情を浮かべて、傍に寄ってきた。 「どうしよう、ラスティ。セリフ飛んだり出トチるかもしれなくて不安なんだ」  わざとらしいその言葉に、ラスティはふはっと笑う。 「不安なんて感じてへんやろ」 「いや、マジマジ。不安なんだって。だって久しぶりだからな。俺だって緊張ぐらいするよ」  馴れ馴れしく肩を組んできて、久秀はこれまたわざとらしく泣きまねをしてみせる。彼の口調から、どうやらいつかの自分のまねをしているのだと理解したラスティは、呆れたようにため息をつく。 「久秀さんなら大丈夫やって。ちゅーか、そこまで不安は感じてへんやろ」 「まあな。お前がいるし、そこは別に不安には思ってないよ」  そう言って久秀は体を離す。少し緩んだネクタイを直して、左腕と左脚を撫でてみせた。 「うん。ま、大丈夫だろ」 「適当やな」 「だって、いざとなったらお前が俺を助けてくれるんだろ? 頼りにしてるぜ、ハニー」 「やめんか、あほ」  どこまでもからかってくる久秀に、ラスティは堪えきれず声をたてて笑った。 「久秀さんもオレのこと助けてくれるんやろ?」 「おおっと、ここにきて腕と足が……あいたた」 「さすがにつまらんわ」  スンとなったラスティに久秀は苦笑いして、じっとモニターを見る。それに倣ってラスティもモニターを見た。 「まさか、帰ってこられるとは思わなかったな」  ぽつりと呟いたその言葉に、ラスティは頷く。  下手をすればもう二度と、板の上を踏むことはなかっただろう。  治療に尽力を尽くしてくれた医師と、久秀本人がリハビリを頑張ったから、当初の見立てより早く快復したのだ。  まださすがに激しい殺陣はできないが、それもおいおいできるようになってくることだろう。  今回のミュージカルは二人の男の物語。  事故で舞台に立てなくなっ男と、そんな男の舞台を見て俳優を志した青年のお話。  久秀は前者をラスティは後者を演じることになっている。  脚本家はかの有名な鹿山乃吏子。当て書きを得意としており、久秀が俳優業を再開するという報を受けて、急きょ書き下ろしたのだという。  そして鹿山は、久秀がけがを負うきっかけとなった作品の脚本も担当していたのだ。あの作品も全て当て書きだったので、あのような形になってしまったことをひどく残念がり、また責任を感じていたのだ。  そして、久秀の復帰作を手がけることを、何より喜んでくれたそうだ。  ほか、演出家やスタッフもあの時と同じ。アクションを担当してくれていた高倉惣三郎も激励に来てくれた。  彼らは「全力で支えるから」と言ってくれた。その言葉に嘘がないことはラスティが一番よく知っている。  だから大丈夫、もうあんな事故にあうことはない。そう信じて、今日という日を迎えたのだ。  そしてこの舞台も成功させなければならないし、できるだけ長く続けていきたいと思っているから、そのためにも自分は全力を尽くさなければならない。 「ま、気楽に行こうよ」  そう言って笑う久秀につられ、ラスティも笑みを浮かべた。 「そやな」  久秀がラスティの背中をポンポンと二回叩く。お返しにラスティも同じようにすると、久秀はひどくくすぐったそうな顔をした。  上手と下手、それぞれ分かれる通路で改めて二人は向き合い、どちらともなくハグをした。 「俺のスイートオレンジ。これが全部終わったらウチにおいで。いっぱい愛し合おう」 「うん、ええよ」  二人にしか聞こえない声で、そう秘密のやりとりをする。  そして、互いに背中を強く叩くと体を離した。 「じゃあ、ラスティ」 「久秀さん、ほな」 ――舞台で逢いましょう。  完

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