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4-5.
そこまで聞いて、ロキは席を離れることにした。ひとつの方法が頭に浮かんだのだ。
ロキが上層にいる爺の元に辿り着くには、大蛇に阻まれているという海峡を渡り、ミッドガルドの外に出なければならないが、航海の技術もないまま海に出れば、外側に辿り着くなど到底無理だ。それに、そもそも船がない。
一方、ヨトの巨人族はこれまで何度もこのミッドガルドへの渡航を繰り返しているし、毎回デケェ船に乗ってくると言う話。だから彼らが外に帰るタイミングで、うまくその船に潜り込めれば安全に海峡を渡れるはずだ。自分で船を出すよりも、よっぽど可能性がある。
ロキは顔を上げ、またするすると狭い席の間を抜けた。
元の位置に戻ろうとしたのだが、ロキが顔を上げてそちらを向くと、いつの間にやらフェンが人に囲まれている。
まさか人らしからぬ行動をして変な騒ぎになったのかと、ロキは驚いて歩み寄ったが、どうやら揉めているわけではなく、むしろなにやら盛り上がっているようだ。
「白髪のにいちゃん、なかなか強えな!」
「よし、次は俺が相手だ!」
いったい何だと見ていると、席に座ったまま得意げにブンブン肩を回したフェンの前に、ヨトの巨人族にも負けず劣らずの巨大な男が腰を下ろした。男はスキンヘッドを光らせながら、威嚇するかのようにフェンを睨みつけている。
ロキは慌ててテーブルの間を抜け、フェンの背後にしがみつくと「何やってんだ!」とその肩を揺らした。
「うでずもーだって!」
そう言ってロキを見上げたフェンの顔は興奮したように頬が赤らみ、まるで新しい遊びを見つけた子供のように瞳を輝かせていた。
「おっしゃ、じゃあ、俺はハゲの男に銅貨三枚賭けるぜ!」
「俺は七だ!」
「なんの! おれは十!」
「腕相撲……?」とロキが戸惑っているうちに、テーブルの上にみるみる硬貨が積み上がっていく。
それを見てロキは目を見開いた。そして乱暴にフェンの肩を掴んでいた力を緩め、今度は媚び売るようにその肩をスリスリと撫で回した。
腕相撲、積み上がる硬貨。そうか、これは賭け事だ。
ロキは村の酒場で男たちがカードを手にして、一喜一憂する姿を窓の外から何度も目にしていた。これは酒と同じく、大人の嗜みなのだ。それに気づいた時、ロキの胸は興奮で騒めいた。
「フェン、勝てるのか……?」
ロキが問うと、フェンはフンスと息を鳴らし、握った拳を肩まで上げた。
その仕草を見たロキは頷くように唾を飲み込み、「よし、勝てよ」とフェンの耳元で囁いてから、鞄の中の僅かな路銀を握りしめた。
「俺は、こっちに!」
そう言って、ロキが有り金をテーブルに叩きつけると、周囲が一層盛り上がった。フェンに賭けたのは、ロキただ一人だ。
スキンヘッドの男は得意げな様子でテーブルに丸太のような腕を乗せた。それに応えて差し出されたフェンの腕は、比べてしまうとやたらと細く感じられて、その時点でロキは早くも後悔し始めていた。
しかしそんな思いを掻き消すように、ロキはすぐに首を振った。
こいつはフェンリルだ。フェンリルは神の器。つまりきっと神同然だ。だから強いに違いない。人間が神に敵うはずない。たぶん。
ロキは内心で呪文のようにそう呟いた。
やがて、審判役の男が二人の組んだ腕に手を乗せる。そして「よーい、はじめっ!」と掛け声をかけてテーブルをバシっと叩いた瞬間、フェンとスキンヘッドの男の体にグッと力が入るのがわかった。
「いけいけ!」「やっちまえ!」と荒っぽい声が飛び交っている。
始まってすぐ、スキンヘッドの男に腕を押されてフェンの体が傾いた。それを見て、ロキは青ざめ、思わず「ひぇっ」と声を上げた。
「フェン、何やってんだ! 気合い入れろ!」
組み合う二人の腕には血管が浮かび上がっている。その戦いは少しの間、スキンヘッド優勢のまま膠着状態となった。
「フェン、頑張れ! 勝ったら腹いっぱい肉食わせてやるから!」
ロキが他の男らに混ざり、興奮してバンバンとテーブルを叩きながら声を荒げると、フェンがピクリと鼻をひくつかせた。
「うし?」
グッと奥歯を噛みながら、フェンが言う。視線は正面を向いたままだが、それがロキに向けて放たれた言葉であることは確かだ。
「あ? えっ、う、うし? 牛肉がよかったのか? もちろん! 勝ったら牛でもなんでも食わせてやるぜ!」
そう言ってロキはフェンの背中を叩いた。
「ロキ、約束、ね」
言葉の語尾でフェンがグッと息を飲んだ。
ロキは自分の目を疑った。フェンの体が一回り膨れ上がったように見えたからだ。ロキが目を擦ってぱちぱちまばたきしているうちに、ギリギリ腕を通していたフェンのシャツがブチブチと音を鳴らし、縫い目がビリッと裂けていく。そして、綺麗な白髪がぶわりと逆立った次の瞬間、スキンヘッドの男が悲鳴を上げてドサリと床に崩れ落ちた。一拍置いて、店内中の視線と歓声が一斉にフェンに向けられた。
「すっげぇ! あんなでっかい男倒しちまうなんて!」
「やべぇな白髪のにいちゃん!」
「俺も、そっちに賭けりゃよかった!」
男たちは頭を抱えたり、フェンに賞賛の声を送っている。
ロキはフェン首に飛びついた。
生まれて初めての賭け事に、生まれて初めて勝ったのだ。さらにはこんな盛り上がりの中心にいることも、ロキにとっては生まれて初めてのことだ。だからロキは興奮のあまり、フェンの綺麗な白髪に唇を押し付けキスをした。続いてワシワシ頭を撫でてやると、フェンは少し照れたように、しかしどこか得意げに、その表情に笑顔を浮かべて顔を上げた。
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