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7-7.

 ロキの足元に見えるのは真っ黒な海水面だ。それもかなり下の方。叩きつけられたら大きな衝撃があるはずだ。 「ロキ!」  背後でフェンの声がしたが、振り返ることなどできるわけもない。  ロキは咄嗟に思考を巡らせ、水面に着地する前にどうにか頭を下にして、銀の鱗を纏ってその姿を鮭にかえた。体全体で打ち付けられることは避けられたが、それでも入水した衝撃で、体が深く水中に沈む。尾ビレを揺らして必死に体勢を整えると、直後またドボンと大きな入水音がした。 『フェン⁈』  ロキは心でその名を呼んだ。  人の姿をしたままのフェンがロキを追って船から海に飛び込んだようだ。  船から溢れる灯りでかろうじてその姿を確認できるが、おそらく水面に当たった衝撃で気を失ったのか、フェンの体は動かないまま、どんどん沈んでいく。   『あのバカ犬!』  尾ビレを左右に振り乱しながら、ロキは水中を進んだ。船上ではヴァクと大蛇が衝突しているのか、バラバラと船の残骸が落ちてくる。  その間をジグザグに縫いながら、ロキはやっとのことでフェンの元に泳ぎ着いた。  やはりフェンは瞳を閉じたまま意識を失っているようだ。しっかりと着込んだ衣服が水を吸って、ゆっくりとフェンの体を暗い海の底へと引き込んでゆく。 『くそっ!』  ロキは頼りない顎でフェンの襟や袖、髪の毛を咥えてみるが、うまく引っ張ることができない。  やむなく一度フェンの体から離れて垂直に浮上し、鮭から人へと姿を変えた。ロキは海面に顔を出して大きく息を吸い込むと、またとぷりと頭を水につける。体を上下逆にして、水をかき分けフェンの元へと泳ぎ着いた。  ロキはフェンの腕を引き寄せ、どうにか頬を掴むとその唇に酸素を送る。しかし、気泡は二人の唇の間からぶくぶくと溢れて上方へと消えて行った。  ダメだと思ったロキはフェンの脇に片手を入れて、バタバタと足で水を蹴った。鮭の姿の時よりはマシだが、このままでは水面にたどりつくまで息が持たないかもしれない。  しかし他に方法も思いつかず、ロキは必死に体を揺らした。耳の奥がキンとなり、少しずつ視界を押し潰されるように意識が薄らいでいく。まだ、海面は遠い。遥か上にすら思えた。  ロキはフェンの腕を引っ張り、体を引き寄せぎゅうと胸に抱いた。この手を放して自分は鮭になればいい。そうすればいとも容易く泳げるはずだ。そう思うのに、ロキは胸に抱いたその体を手放すことができなかった。  鼻の奥が痛み始め、ロキは耐えきれずに最後の気泡を吐き出した。ゆっくりと暗い海の底に体が沈んでいく。  その時、手放しそうな意識の中で、ロキは金色の光に気がついた。  それは水中に揺らめく長い髪のようだった。最初は微かにチラつくだけだったものが、やがて道を指し示すかのようにゆらゆらと伸びていく。  ロキは手を伸ばしてその末端を掴むと、金色の光はぐるりとロキの腕に絡みついた。  瞬間、同じく金色に光る気泡がロキとフェンを包み込む。くすぐったいほど優しく皮膚を撫でるその泡が口元に触れると、不思議なことに呼吸ができるようになった。  ロキは驚きながらも、その揺らめく長い髪の伸びる先を見つめた。  暗い水の中で、水面と平行に伸びるその行き先は見えないが、どうやらそちらにロキの体を引っ張ろうとしているようだ。  ロキは片手でフェンの体を強く抱きしめ、その髪の導きに従った。  もしかしたら、これがお迎えってやつかもしれないなどと頭をよぎる。自分が連れていかれるのは天国なのか、はたまた暗い海の底のさらに奥にある冥界なのか。  やがて視界が白み、あまりの眩しさにロキはその瞳を強く閉じた。  はっきりとした記憶はない。しかしどうやらそこで、ロキは意識を手放したようだ。

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