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お前のカップを持っていけ

「今度、元部下の結婚式があるんだ」  ダイニングテーブルに乗せられた朝のコーヒーは、もうかなりの湯気を失っている。それでもマグカップの中身は殊更ゆっくり啜られ、縁越しの上目遣いは笑みで細められる。顔面神経痛を発症する一歩手前の緊張で、目尻が引き攣っていたのを、エリオットは見逃さなかった。ヴァレンタイン・ヨルゲンセン元少佐は、世間の評判と過去の戦功が示すよりも遥かに、繊細な性格を持っているのだ。 「それって、だらしない芸能関係者に惚れて3回も脱走未遂を起こしたって言う?」 「ああ、この度晴れてその男と結婚するんだと」  なんて気軽に言ってのける口調の、作られたわざとらしさを、無視するのにはもう慣れた。以前本人が告白した通り、その青年が引き起こした「NBCとフォート・リバティとジャック・ダニエルと抗鬱剤、それと婚外交渉が絡み合った大騒動の余波」がヨルゲンセンの退役と離婚の一因になっていると、一々論う必要もない。(軍隊なんて組織であんなハンサムが男性経験を持たなかったはずがないというハリーの予言が当たったことを、エリオットは心底苦々しく思っていた) 「招待状が送られてきてな」 「随分と厚かましい子なんだね」  ルームメイトが作ったハムエッグを口へ押し込み、肩を竦めたエリオットに、ははは、とこれまた張り詰めた笑い声がぶつけられる。  ここまでヒントを与えられたのだ。何らかの心積りをしておくべきだった。なのに自らが考えていたことと言えば「このハム、マトンだなんて変わってるな」だったのだから。 「一緒に来ないか」 「いつ?」 「あー、来月の十六日、日曜日。ニューヨークのシェラトンで」 「張り込んだな……いや、どこのシェラトンかによるのか」  食事の時は出来るだけスマートフォンを触らないようにしている。だが今、ポップアップされたメッセージの内容は流石に見過ごせない。突き刺さる凝視を浴びながら、エリオットはまだ覚醒しきっていなかった舌が急激に生臭さを感知し、それから干上がっていくのを感じていた。 「エリオット?」 「すまない、多分無理だ。ここのところ、仕事が立て込んでて。選挙の準備がね」 「ああ……」  朝の穏やかな静謐に満たされたダイニングに、深々とした吐息が吐き出される。 「なら、ディオーナを誘うかな」 「最近彼女と連絡を取り合ってるのかい。良いことだ」 「そうかな」 「そう思うよ。きっと彼女も喜ぶ」  ヨルゲンセンが元妻に未練たらたらであることは、例えルームメイトとしてでなくても、会話の節々から読み取ることができるだろう。だからこそ、二人は決定的な一線を踏み越えないままここまで来た。 「行かなきゃ」  食器を食洗機に突っ込み、どこかぼんやりしたヨルゲンセンの肩を叩く。 「その部下の子に見せてやれよ。君が立派に社会復帰した姿を」  己がとんでもない間違いを犯したのではないかと疑惑が頭を擡げたのは、26番通りで通勤ラッシュに捕まった車の中でのことだった。ラジオDJにどこかの能天気がリクエストした、バングルスの歌う「冬の散歩道」。救世軍を街角で見かけるようになるにはまだ早いが、窓の外は既に寒々しい。通りの誰もが外套の襟元へ顎を埋め込み、暖かい場所を目指して足早に行き交っている。    カーエアコンから吹き出す熱風を浴びながら、エリオットが覚えたのは衝撃ではなく、怒りだった。あんな遠回しな告白、分かるもんか。まさか中東の英雄、ホームセンターの王子様が、あそこまで奥手だなんて、思いもよらなかった。例え同性相手に想いを告げるのが初めてだとしても、もう少しまともな方法があるだろう。  そう考える己はロマンチックなのか? と言うより、侮辱させれたような気分だ。躊躇は罪悪感に起因する。決心がついていないからと言って、こっちに決定権を委ねてくるなんて。これまで唯々諾々と甘やかしてやり、親友以上恋人未満ごっこを許容して来た己が馬鹿みたいではないか。  生憎、感傷と甘えに構ってやるほど、こちらも暇ではない。何とか渋滞を抜け、市長付け職員オフィスに足を踏み入れた時、己は余程険しい表情を浮かべていたのだろう。待ち構えていたゴードンは「取り敢えずコーヒー飲ませてくれよな」とまず軽口で宥めようとしてきた。 「ごゆっくり。どれだけカフェインを摂っても、トーニャ・ヤンファンが市長選へ立候補した事実は変わらないからね」 「えらくピリついてるな。ホームセンターの王子様と喧嘩したか」  無表情で見つめ返せば、ゴードンは芝居っ気なく煽るタンブラーの中に咽せてみせた。 「マジかよ」 「喧嘩なんて大袈裟なものじゃない。少し意見の相違があったんだ」 「どっちにしろ、今はそんなものに拘ってる場合じゃないだろ」 「ああ」  だからこの話はこれまで。そう切り替えることが出来たから、モーが部屋へ入ってくるまでに、平静を取り戻すことができる。 「本当ですか。ヤンファン議員が……」 「残念ながらね。出馬表明はいつだい、ゴーディ」 「情報筋だと今日の午後。ハリーの反応は」 「それはもう」  いつでも市長ファーストの秘書は、大柄な体躯ごと丸めるようにして顔を伏せる。 「ショックを隠しきれていない様子です。まさか同志に裏切られるとは思っていなかったと」 「そう言うところが」  それ以上の文句を、結局ゴードンは嘆息で自ら封じた。  本音を言えば、この可能性は市長付職員オフィスにおいて、とうに予想の付いていた事態だった。  目の上のたんこぶ、哀れな多数当院内総務のデイヴ・マレイが失踪するという前代未聞の大スキャンダルが発生して一年と少し。硬直したイーリング市の政情も少しは動き出し始めた。現副市長のディーンは、自らの地位を奪われさえしなければ文句を言わない。不出馬の確約は早々に取り付けてある。  マレイを嫌っていたディーンの問題が片付けば、ディーンを嫌っているヤンファンの問題だ。彼女がディーンへどう働きかけるか、これから注意深く見張らなければ。 「市議会はお友達クラブじゃないからね。ヴェラはもう市長の執務室に?」 「ええ、ですが……」  奥歯へ物の挟まったような口調を作るモーへ聞くよりも、この目で見た方が早い。さっさと部屋を出ていくエリオットの後ろへ続くゴードンの囁きは、間違いなく誰にでも聞こえるような声量で口にされた。 「今日のエル・エリオットはお冠だ。あんまりドジるなよ」  乗り込んできたエリオットを目にしたヴェラスコは、普段のプレッピー気取りな身だしなみなど見る影もない。 「もうお手上げだよ。何とかしてヤンファンの出馬を取り下げさせるって聞かないんだ。『僕なら説得できる』って。取り敢えず全員揃うまで待ってくれって言ってるけど」 「全く、彼は甘ちゃんだな」  残り少ない理性を掻き集めて、出来る限り優しく目の前の肩を叩いてやったつもりだった。が、ヴェラスコの瞳は間違いなく、ぎょっとした色に染まり変わる。 「エル……」  引き毟る勢いでドアを開けたエリオットに、デスクで不貞腐れていた顔が持ち上がる。 「言いたいことは分かるが、エル、僕に任せてくれ。僕の頼みなら、きっとトーニャは」  彼を打ったのは手の甲で、しかも全力からは程遠い力加減だ。それだけでも、このイーリング市の市長、ハリー・ハーロウが固定電話へ伸ばそうとした手を止めるに、十分事足りる。 「いいかい、ハリー。今後君から彼女に電話を掛けることがあるとすれば、それは君が次回の選挙で敗北して、新市長の誕生を祝福する時だけだ」  呆然と顔を見上げるのはエメラルド色の瞳だけではない。追いかけてきた誰もが、完全に竦み上がっている。背中へ突き刺さる意識はまるで質量を持ち、痛みすら感じるほどだった。  それでも、口にしなければならない。何せ自らは、戦略官という肩書きで雇われている。市政についてと言うよりは、市長の利益に対しての。 「今の時点で下手に出たら、これから先、片っ端から彼女に恩に着せられることになる」 「彼女はそんなこと」 「君はこの前の選挙でも、マレイについて『懐柔してみせる』と豪語していたね」  この立場にいて、言ってはならないことなどない。忖度は例え善意から来る物であったとしても、最後は相手にとって毒になる。それがこの40年と少し生きて、エリオットが学んだ中、唯一と言って良い揺るがない事実だった。  忖度は不要だが、飴は必要だ。凍り付いたハリーへ「心配しなくても、君が選挙で勝てば問題ないんだ」と頬を撫でた時、ちゃんと笑みを浮かべている自信が、けれどエリオットにはちっともなかった。 こんなにも、胃が捻じ切れそうな程の愛しさを、相手へ感じようとしているにも関わらず。

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