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マイ・ジェネレーション・ギャップ

 その壁は、かつてのベルリンとか、現在メキシコの国境にあるものを思わせた。厳然と、あるヒエラルキーを隔てている。人道主義の観点で言えば、圧倒的に差別的だと断罪される考えだが。  少々卑怯な手段を用いて市内を通過させるよう取り計らった最新の高速鉄道と、30年前に荒廃が進み始めた公営住宅の垣根。前者は轟音と衝撃波を放ちながら猛然と突き進み、後者を過去へ置き去りにする。 「一見頼りなく見えますが、壁面と柱共に耐候性へ優れたメッキ鋼板を使用しています。ハマーが全速力で突っ込んできても、まあ一度位は耐えられる計算ですね」  吹き抜ける秋風に乱れる髪が額を叩くことなどお構いなしに、ヴェラスコは10フィート近い、まだスプレーの落書きとも無縁な防音壁を仰ぎ見た。粉塵を巻き上げそうな白土の地面と、季節の最後に精一杯己を誇示しようとしている秋晴れのおかげで、銀色の合板は殊更輝いて見える。  今日見学に来ている人間は、選挙登録の際、民主党にチェックを入れて提出している人間ばかり。なので今日全面的に押し出すのは、市長付広報官としての気安さではなく、ハリー・ハーロウの選挙対策委員長としての澄まし顔だった。  ハリーは最後まで躊躇していた。だが結局、3年半前に自らが任じられていたこの地位を譲り渡すとエリオットが宣言して以来、物事は呆気ないほどとんとん拍子に進んだ。要するに、今回は裏で暗躍させて頂きますよ、という事なのだろう。  傀儡にされたことを恨めしく思いはしない。表の仕事だけでも十分忙しい訳だし、結局のところ、表と裏はいつでも引っ付き合って、決して離れられることなどないのだから。 「これ以上ヴェラに仕事を押し付けたら、過食が進んで顔の輪郭が無くなっちゃうぞ」と懸念していた市長も、今やすっかり働きぶりへ満足しているようだった。ヴェラスコが一通りの説明を終えると、あの人好きがする笑みを顔一杯に広げて、己の支援者達に歩み寄る。 「私もこの事業へ取り組む前までは、まさか鉄道車両の発する音自体が、人体や建造物に対する課題となるなんて知りもしなかったのですが。施工前にボストンでアセラ・エクスプレスの見学に行った際、揺さぶられてみて思い知りましたよ、あの突き上げられるような振動と言ったら」  午前中、執務机へ仰向けに押し倒され、文字通り揺さぶられ、突き上げられていた市長の姿を思い出すタイミングとして、今は相応しくない。まだあの時の汗が乾いていない気がして、ヴェラスコはワイシャツの襟元をぐっと握りしめた。  市長選へ出馬表明の季節になり、ハリーと、その周囲に放散される緊張は否応なしに増す。だが彼にとって一番堪えたのは、友人だと思っていたトーニャ・ヤンファンの出馬に他ならない。  ここ数回の情事の最中、ハリーはよく涙を流した。めそめそと言った可愛らしい物ではなく、まるで癇癪を起こしたように、わっと泣き声を上げる。  お陰で執務室の扉の向こうで仕事をしているモーが「余り市長をいじめない方がいい」と余計なお節介を焼いてくる始末。或いは、のんびり屋に見えて誰よりも熱い忠誠心を市長に捧げているあの男のことだ。他人に善がらせられているハリーの嬌声に、ちょっと妬いているのかも知れない。  弁護士時代から愛用している、オーソドックスなバーバリーのトレンチコートは、まだ裏地を付けていないのだろう。数時間前思う存分撫で回した尻が、妄想の中で透けて見える。市民と交流するときにその格好は軽薄に見えませんかね、とゴードンですら提言していたのを思い出した──薄手、軽薄、尻軽。いや、ハリーの肉付きが良い尻は、跨られて跳ね回られると、時に青痣を作るほどのボリュームがある。 「……ロス君、ヴィラロボス君」 「ええ。壁面には耐震ゴムの塗装を」  翻る外套の裾から持ち上げた目線は、まず先程柔らかさを散々堪能した唇から零れ落ちる白い歯へ吸い込まれた。すぐさま咳払いは、一切笑っていない瞳と向き合うよう促してくる。幾分ぼんやりしたまま、ヴェラスコはこちらを注視する、真面目な民主党員達へと向き直った。 「耐震ゴムです、最新の……それとカーボン素材……」 「そう。最新の設備です。住宅街は、最短でもここから5マイルだったか、何にせよ、十分基準値を満たします」  今度こそ完璧な笑顔を浮かべて見せるハリーの横顔を眺めていれば、簡単に思い出すことができる。かつて法廷で最終弁論を滔々と捲し立て、依頼人の元へと戻ってくる自信に満ち溢れた面立ち。勝利を確信していても、そうでなくても構わない。4年前のハリー・ハーロウはイーリング市で最も優れた弁護士の一人で、大した食わせ物だった。  こんな表情を久しぶりに見たなと思った。おかしな話だ。本来、政界とは法廷よりも遥かに権謀術数の渦巻く場所であり、ハリーの精神は年々陰気な疑り深さを増していなければならないのに。  市長になったハリーは水を得た魚のように生き生きと、理想を語る。水面下で部下達がどれだけ泥にまみれていても本人は無垢なまま。それどころか、汚れた男達をその腕に抱きしめたところで、さながら処女の子宮の如く清らかなままだった。今の瞬間までは。  この前エル・エリオットに叱責されて、少しは腹を括ったのかも知れない。ならば良かった。  そう考えたのは、まだ性欲が収まっていないからだろうか。もう彼と体を繋げるようになって4年近く。これまでのヴェラスコの恋愛遍歴からして、いい加減飽きが来たところで全くおかしくなかった。それなのに、「万が一破損しても、すぐさま補修できるんですよ」と、巧妙な嘘を紡ぐ唇に(材質と予算は全く別物の観点なのだ)欲情する。何なら、かつて陪審員の前で彼の体をまさぐらなかった己に驚いてしまう程だった。  腕のロレックスを確認し、チャーターされたバスに見物人達を押し込もうとしていれば、最後尾に付いていた両親に声をかけられた。街一番の人権派弁護士、近隣で暮らす貧困層の為、この壁を建造するよう毎月陳情書を送り続けた彼らが来ていることは知っていた。話しかけてくるとは想定外、と言うか、止めてくれと心から願っていた。 「本当に修復されるんだろうな。この近辺の廃屋は、家出した未成年が屯していることも多いんだ」 「ああ……今でも父さん達、声掛けに来てるんだね」  昨年ステージ2の癌が見つかり胃を半分切除した父は、吐き癖のあるスーパーモデルみたいに痩せていた。一人息子をスイスの寄宿学校へ放り込んでまで市の福祉問題に取り組んでいた男が、自分の体を大事にするとは思えない。  夫の頑固さは自分が一番知っていると言わんばかり。母が竦めた肩の軽やかさに向け、ヴェラスコが放とうとしたのは尖った声だ。幸か不幸か、ハリーが大仰な身振りで割って入る。 「シーロ、まだ本調子じゃないんでしょう?! 無理なさらず、もう少し静養なさった方が」 「お陰様でね」  恐らくは本気で労りの言葉を投げかける、社会通念上の敵に対して、父は注意深く口を開いた。 「十分休めた。まだまだやる事は多い」 「大丈夫ですよ、ハーロウさん。この人の頑丈さと言ったら、昔マレイ・コーポレートの脅しで」  そう自ら口にして一瞬表情を曇らせた後、母は取り繕いのつもりで言ってのけるのだ。 「それに、孫の顔を見るまでは絶対に死なないって、もう頑なで」 「それは難しいんじゃないかな」  セックス後の倦怠が纏わり付いた体は、背後から迫る突風を受け止めきれない。ふらりとかったるげに身を揺すりながら、ヴェラスコは眇めた目で、両親と真っ直ぐ向き合った。 「僕はハリーとヤるのに満足しきってるから、しばらく他の相手を作る予定がないんだ。もしかしたら彼と結婚するかも知れないよ」  ごう、と吹き荒ぶ轟音が耳を聾し、コートをはためかせるのは、列車の通過するほんの30秒ほど。とは言うものの、これがラッシュ時には1時間に3回繰り返されるのだから、赤ん坊は泣き叫ぶ、老人は具合を悪くする。  病人のように顔を青ざめさせているハリーは、アウディの助手席へ乗り込むなり「何てことを」と憤慨頻り。「聞こえてませんでしたよ」と嘯き、ヴェラスコはハンドルへ寄りかかるようにして、フロントガラス越しに外を窺った。 「両親はカトリックですが、同性愛者に偏見は一切持っていません。それに口も固い」 「そう言う問題じゃなくて……」  赤面していると言うことはつまり、ハリーは一字一句逃さず聞き届けてしまったのだろう。今更ながら己の子供っぽさに嫌気を催し、ヴェラスコはわざとらしいぶっきらぼうさで呟いた。 「列車が来るまでに、ここから立ち去らなかったのが悪いんです」

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