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お金を貰って言葉責め

 母も祖母も有権者登録をしていなかったし(勿論今回を期に、モー自ら車を出して二人を市役所まで連れて行った)軍にいた時は薄らと言え存在する同調圧力へ逆らうのも面倒だったし。そんな人間がいきなり選挙戦なるもののど真ん中へ放り込まれたのだから、少しは右往左往しても許されるはずだ。  けれどモーが「マッチング・ファンドって何だ」と尋ねた時、ヴェラスコが向けてきた氷のような眼差しと、一言一言区切るような口調と言えば。 「Google is your friend」  まさかインターネット上ではなく、現実でそんな言葉を聞く日が来るなんて思いも寄らなかった。  仕方がないのだろう。近頃この選挙対策委員長は、ハーディングにある事務所へ詰めていることが増えた。ハリー・ハーロウが収める市の中に、自分だけの城ができたのが嬉しいと言わんばかりだった。そういう意地の悪い物言いをするのは勿論ゴードン。「つまり小さな王子様って訳さ」笑いながら更に付け足された皮肉へ納得している余裕は、モーにない。 「マッチング・ファンドって言うのは、つまり選挙資金の一部を市が負担してくれる制度さ。この市の場合は、集めた資金に対して最大3割分までを申請したら、同額の補助金が支給される」  幸いな事に、続々と集まってくるボランティアの募集メールを集計し、面接の段取りを付けたり、名簿を作らされることで、少しは疎外感から逃れられる。  蝸牛の歩みよりものろいブラインドタッチで埋められていくエクセルの名簿と、自らが手にしたタブレットを交互に眺めながら、エリオットはモーの質問に答えてくれた。とにかく姿を現さないことで忙しさを表明しているヴェラスコと違い、彼は同じくいつでも何か用事を抱えているようだが、そこへ新たな仕事を差し込む事を厭わない。 「ただ、この制度を利用すると、選挙に使用できる資金の上限が8万ドルまでになる」 「市の財政負担が大変ですね」 「ちなみに、前回ハリーを当選させる為に集めた資金は114万ドルだ。まあ、この規模の市町村で、初立候補するにしては、頑張った方じゃないかな」  「そこの生年月日、一桁ずれてる」と指摘され、モーは黙ってディレートキーを押した。 「金銭面については心配しなくていいよ。地方都市で重要なのは、地道なドブ板戦法だ。戸別訪問でハリー本人か、無理ならボランティアが一軒ずつドアをノックして、投票を念押ししたり、意見を翻させたりする」 「祖母が前回、ハリーのボランティアを箒で追い返そうとした記憶があります」 「君のお婆さんは同性愛者嫌いだったね」  苦笑しながら、エリオットは丸められたモーの背中を叩いた。触れられて初めて思い至るが、酷く体の筋肉が硬直している。ここのところ朝早くから深夜までのデスクワークが続き、趣味のランニングもこなせないでいた。  体を動かさねばフラストレーションも溜まる。まるでその鬱屈を見透かしたように、エリオットは笑みを益々深める。 「そのうち君にも、訪問を手伝って貰う事になるかも。何せ市長の秘書として、一番彼に近い位置で、彼の人柄や魅力を知っている訳だしね」 「うーん、どうだろう。君には無理じゃないかな」  今日三つ目のスノーボールを齧りながら、ハリーは首を傾げる。ようやく完成した名簿について聞きたいことがある、との名目で執務室で呼び出されたのだが、要するに一人きりでつまらないのだろう。3時のコーヒータイムには打ってつけの時間。味蕾が全て麻痺しそうな甘さの菓子を味わいながら放たれる上目遣いは、衝撃から立ち直る気配のない秘書の顔を前にし、慌てて見開かれる。 「いや、君の能力が不足してるって言いたい訳じゃない。君は立派な秘書だ」 「お世辞は結構ですよ」 「お世辞じゃない、本当にそう思ってる。ただ、君は……」  マグカップを包み込む両手の指先は、しばらく滑らかな陶器の表面をとんとんと叩いていた。やがて開かれた時、その唇の動きが余りにも辛そうだから、流石に身構えてしまう。 「君は……僕のこととなると、いつでも手放しで絶賛して、褒めちぎってくれるだろう。そりゃ僕はメロメロになるけれど、聞かされる人は胡散臭く思うだろうな」  褒めて困られることがあるなんて──いや、ハリー自身は喜んでいる。それなら何も問題は──  この考えこそが、指摘された問題点なのだろう。  ハリー・ハーロウが市長であり、ある意味公共の財産なのだと言うことを、まざまざと思い知らされる。お気に入りの側近からセックスの相手を選ぶのとは違う。彼こそが他人から選ばれ、その暁には有無を言わさず身を差し出さなければならない。  彼の役に立ちたい。今のままでも役に立っている、寧ろお前はずっとそのままでいてくれと、仲間の誰もが口を揃えて言う。けれど今後、ハリーは何度も何度も、同じような機会に遭遇する。その時己に出来ることは何だろうか。もしも課題をこなすことが出来れば、例えハリーがこの街を離れることになったとしても、隣にいることは許されるだろうか。 「メロメロですか」 「うん。君はロマンチストで、情熱的だ」  柔らかいマシュマロごともぐもぐと言葉を噛みながら、ハリーは頷いた。 「おとぎ話の王子様でも、ファックの最中に相手をここまでちやほやしてくれないだろうな」 「でも、あなたは意外とロマンチストじゃない」  一つ、大きく息を吸い込んでから、モーは言い放った。 「終わった後に、すぐ冷蔵庫の中身を漁ろうとするでしょう。空腹なのは分かりますが」 「え、ああ、うん」  当惑で目をぱちぱちさせながら、ハリーは唇をつけようとしてたマグカップから顔を離した。 「確かに、色気がないかな」 「それに、せっかくの日々のトレーニングの結果を悪用しています。胴回りの筋肉が発達したせいでしょうが、座ってやると締め付けが痛いくらいです。その分あなたが覚えている快感も強いようですね」 「知らないよ。大体、その辺りの筋肉は、腰痛予防だって君が付けるのを推奨したんだし。それに、君のは、大きいから、余計……」 「あと、俺が下半身の準備を手伝うと言ってもやらせてくれませんし。どうしてそんなに頑なになるんですか」 「恥ずかしいからに決まってるだろう!」  遂に両手で顔を覆ってしまったハリーは、そのまま30秒ほど俯いていた。そんな可愛い真似をされたら、心の中で滾り荒れ狂うものを抑えきれなくなってしまう。自らにとってたった一人の上司と同じく、肩で息を吐きながら、モーは真っ赤に染まったハリーの耳たぶを見下ろしていた。あそこにキスしたい。それも今すぐ。  いや、駄目だ。まるで自分で自分を痛めつけているような煩悶を必死に抑え込む。 「何なんだ、一体!」 「ですが、ハリー。俺は貴方のそんな、切り替えが早いリアリストで、力強く粘り強い、意志の固さとカトリック教徒的な慎み深さを、市民に理解して欲しいと思っています」  もうしばらく、ハリーは赤面を隠し続けていた。これまでの自らならば、すいません、と殊勝に謝罪の言葉を投げかけ、いかった肩に触れていただろう。けれどモーはその瞬間、かつて経験したことのない、ぞくぞくするような愉悦が背筋を突き抜けるのに身を任せた。それは、誰かを圧倒するという感覚だった。 「くそっ、一体誰だ」  やがてそろそろと、力ない手のひらが外される。普段の弁護士らしい闊達さなど見る影もない。吐き捨てられる子供のような悪態は、じっとりと熱の籠った執務室の空気を辛うじて揺るがせた。 「エルか、ゴーディか、それともヴェラの奴か……僕の可愛い秘書をぐれさせたのは」  あなたでしょうね、それしかあり得ない。何せ俺の上に立つのは、あなた以外あり得ないんですから。  そんな減らず口を叩く真似は勿論せず、モーはとっときの澄まし顔を浮かべた──つもりだったが、どうしても誇らしげな笑みになってしまう。 「そんな文句じゃ、市民どころか僕も口説けないぞ」 「では、俺の口から市長の素晴らしいところを、広め立てるのは止めます」  丸めて投げつけられたものの、ゴミ箱を外したスノーボールの包みを拾いながら、モーは答えた。 「これ以上、あなたの魅力に気付く人間が現れたら大変です」 「そんなところが、君はロマンチストだと言うんだ」  首を振り振り伸ばされた手はネクタイを掴む。普段よりも弱々しげな力で引かれるから、モーは自らの意思でハリーへと身を寄せた。 「もしも君が戸別訪問へ駆り出されることになったら、ヴェラに台本を書かせるよ」  またあの張り切り屋が鼻を鳴らす姿なら、ありありと想像出来る。けれど拗ねたように唇へ噛み付かれる心地良い痛みに、全ての憂鬱は一瞬で上書きされた。

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