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甘えん坊将軍

 執務室の床へ寝転がっているハリーの姿は、幼い頃の子供達を思い出させる。太腿を軽く爪先でつつき、ゴードンは手にしていた冊子を足元へと投げ落とした。 「だらしない真似はよしなさい」  ゴードンの注意に、ハリーは「気分転換にストレッチしてる」とか「誰かさんのせいで腰が痛いんだ」とか、お決まりの言い訳を用いる真似すらしなかった。ただ、かつての娘達と同じく、突如現れた父の存在にびっくりしたかのような顔で、目を見開いてみせる。 「帰りは夜になるかと」 「それはヴェラじゃないですかね。最近あいつ、選挙事務所へ泊まり込んでるみたいですよ」 「止めさせないとな」  打ち合わせ自体は、時間の大半を費やし繰り広げられた世間話と情報交換を含めて2時間。残りの日程は車での移動、朝飯と昼飯すら、片手にハンドルを握りながら腹に収めた。そうでなくても、近頃は長距離の移動が多いのだ。これ以上、固い床で可哀想な尻を痛めつけたくない。  数ヶ月前に買い替えられた、市長専用の事務椅子へ踏ん反り返り、真新しいPUレザーを撫で回せば、気分も晴れるだろう。そう思っていたのに、ハリーは海へ船乗りを引き摺り込む人魚さながら、ゴードンの手を掴んで、有無を言わさず導く。渋々その場へ座り込んだ部下へ挑む仕草は子供そのもの。胡座を掻いた男の膝へ腹を乗せて、取り上げた冊子を捲り始める。 「前も思ったが、こんな一介の街の市長が、シンクタンクに公約綱領を作らせるなんて、大袈裟過ぎるように思うけどな」 「せっかくコネがあるんですから、使えるものは全部使った方がいいんですよ」  同じ目線になって初めて気付く。いつもハリーが陣取っているこの場所は、この季節でも日当たりが良く仄かに暖かい。それに、流石市長室と言うべきか、絨毯は分厚く、タイルの冷たさも硬質さも随分緩和してくれる──これはずっと前から知っていたことではないか。一体何度、この床で目の前の男を裸に剥いて、散々貪った?  今だって、視界の端でもぞもぞ蠢かされる巨大な尻は目の毒でしかない。体温の高い体から立ち上るカルヴァン・クラインのシトラス・ウッディな芳香に鼻をくすぐられたら、今すぐワイシャツを引き裂きたい、ぶち込んでやりたい、と考えるのも、許されて然るべきだろう。  じりつく性欲はだが、頭の片隅から侵食する柔らかな眠気に、ゆっくりと凌駕される。日々の遅寝と早起きは疲労へ拍車を掛け、確実に体へ蓄積されていた。 「そんな欠伸ばっかりするなら、向こうのソファで少し横になったらいいのに。僕がこれを読み終わるまで」 「いや……」  言われた側からまた大口を開き、深々と息を吐き出したところで、どっと肩に気怠さがのしかかってくる。 「こんな時間に寝ると、体内時計が狂いそうですよ」 「30分の昼寝は、脳から老廃物を流してリフレッシュさせるのにうってつけなんだぞ」 「それはそうなんでしょうが」  真っ直ぐな背骨と、整えられた筋肉によって、綺麗な湾曲を描く背中を撫でながら、ゴードンは答えた。 「そうでなくても、近頃睡眠の質が悪くてね。寝た気になれないんですよ」  ここのところ、特に明け方頃、よく夢を見る。  悪夢ばかりとは限らない。心を動かされない時もあるし、勃起しない程度のエロティックな妄想が具現化したものも。そもそも後味が悪いような物語に襲われたところで、朝起きて暫くすれば、すっかり忘れていることも多かった。 「忘れる前に、日記でも書いたら面白そうなのに」 「生憎俺は夢判断を一切信用していないんでね」 「最近見た中で、覚えてるものは?」  取り敢えず10ページ程は目を通したのだから、頑張っていると褒めてやるべきなのだろうか。頬杖の上から苦労して振り仰ぎ、ハリーは小首を傾げてみせた。 「僕は昔、長椅子で横になるタイプのカウンセラーに行ったことがある。2回くらいで通うのを止めたけど……確かに頓珍漢だよな、フロイト派って言うのは」 「薬も処方してくれませんし」  もしかしたら、脳の妙な興奮は最近よく飲んでいるマイダイスの副作用かも。脇腹へ指を這わせた時に太腿の上で捩られる、ジューシーな肉体の躍動を味わいながら、ゴードンは天井を見上げた。 「そうですね、面白い夢だと……アル・パチーノが出てきました」 「へえ、それはちょっと怖そう」 「怖い夢でしたよ。二人でどこかの、西部劇に出てきそうな安酒場のバーカウンターへ寄りかかって酒を飲んでたんですけどね。そうしたら、お決まりの乱闘が始まって、勿論俺もパチーノも加わった。で、良く見たら、暴れてる連中の中に、昔の上司がいたんです」  手は腹から上へと向かって脇へ。こんな季節に薄着をして、と呆れていたが、指を潜り込ませたそこは、微かに蒸れていた。 「ん……」  湿ったシャツが敏感な急所へ擦り付けられ、体が一瞬強張る。その肉体反応によって反射的に鼻から息が抜けたのか、それとも己の甘ったるい呻きに、体が煽り立てられたのだろうか。膝の上の熱は、本来の性質だけではないと、勿論ゴードンも気付いている。 「最後まで、どうしても反りの合わなかった男でね。勿論同じ職場にいた時は、それなりにやってましたが」 「それでっ、その上司を?」  今や腕枕へ頬を擦り付ける格好のハリーは、明確に息を弾ませている。 「夢の中なら……なんでも好き勝手やって許されるだろう」 「そう、まさしくその通り」  くい、と肉を指の腹で抉るようにしながら、殊更しれっとした顔で頷いてやる。 「だから、パチーノと二人がかりで、奴をボコボコにしてやりましたよ。殴り飛ばして、ひっくり返ったところを蹴りまくって。最後は顔が陥没してた」 「凶暴だな」 「まるで埋められる直前のマレイみたいにね」  わざわざ精神分析屋に掛からなくても、ましてや疲労や薬を釈明に使わずとも分かっている。ここまで乱暴な夢を見るようになったのは、あの夜更けのニボ山での出来事を、胸へ秘めて以来のことだった。  エリオットやヴェラスコに、それとなくかまを掛けて見たことはある。けれど皆、この選挙戦に関するストレスについて語るばかりで、事件など全く覚えていないような物腰。虚勢を張っている訳ではなく、本気で忘れているらしい。スクラップ置き場の車のように圧縮された記憶は、日々という濁流に押しやられ、頭のどこかに捨て置かれている。  大体、ゴードン自身も、あの出来事をトラウマとして捉えているいる訳では全く無いのだ。もしもこれがPTSDならば、覚える訳がない。普通ならげんなりする暴力的な夢を見た後で、全身の疲労がさっぱり拭い去られたような爽快感を。  悪夢も良いものだなどと言おうものなら、同僚達は心配の余り早退と通院を促すだろう。けれどハリーは違う。苦しげで、もどかしげな唸り声をあげながら、心地の良い愛撫から逃れる。 「君は本当に酷い男だ。まるで蛇みたいに」 「誰も彼もがあんたを甘やかしてくれると思ったら、大間違いですよ」  戯れで噛み付くように奥歯を鳴らしてやれば、ハリーは「全く!」と殆ど叫ばんばかりの悲鳴をあげ、ゴードンの頭へ両腕を伸ばした。みっちりと胸へ抱き竦める腕の力と裏腹、仰向けに倒れる時、その脚は娼婦のようにはしたなく開かれていた。 「最近は、誰も僕のことを甘やかしてくれない。モーですら反抗期で」 「あのイエスマンのボンクラが?」 「だから、イエスマンじゃない」  まるで天秤の片方へ錘を乗せたかの如く、突然皿が眠気から欲望へ傾く。豊満な肉へ顔を押し付けながら、ゴードンは絨毯と身体の間へ手を滑り込ませ、先ほど悪戯し損ねた尻を鷲掴んでやった。ぐにぐに揉みしだいていれば、頭上でひゅう、と太い喉がか細い息を通し、挟み込む膝がトラバサミほども胴を締め上げる。 「ゴ、ディ、あ、もう……くそっ、今日は僕が、君を甘やかしたいんだから……」  それこそヴェラスコ辺りを連れてくるべきではとの揶揄は、は、は、と荒げられた息で悶え弾む胸の奥で声にならない声が渦を巻き、肌越しに伝わってくる事で有耶無耶になる。 「あ、もっと……っ」  鼻先で胸の谷間を突き上げるように擦ってやるだけで、爛れた声を上げる敏感な身体。一体いつから発情していたのだろう。  セックスの時、ハリーは5歳児も驚く甘ったれになる。どうせ彼に手を伸ばす人間は、一度彼に触れたが最後、散々その肉体を可愛がっているのだろう。  それにしても、甘やかしたいか。そういうプレイもたまには悪くないのだろうか?   だらだら逡巡しながら、予定よりも早く戻ってきたヴェラスコが扉を開き「何やってるんだよこのクソ忙しい時に」と金切り声を上げるまで、ゴードンは天からの授かりものとすら言える肉体を堪能し続けた。

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