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黒いカラス達
「ゴーディの奴、売店へ行って紙の新聞まで買ってきたんだぜ。冗談抜きで市役所内での取り扱いを停止させようかと」
「それ、冗談でも他の議員に話してないだろうね」
「してない。僕は検閲には断固反対派してる、アダルト動画だって無修正じゃないと嫌だ」
化粧も済ませ、カメラが回り出すまで後20分。トイレに向かったのは別に催したせいではないのだが、ハリーは小便器に向かってチャックを下す。低い仕切り板越しに並び、鏡を見つめながら、エリオットはここへ来る車の中で飲んでいたモカ・コーヒーと、強烈な芳香剤の香りが鼻腔で混ざり合うのを為す術なく受け入れていた。
「それに、偏向報道には慣れてる」
「このテレビ局は大分マシさ。どちらにせよ、スティーブンスは絶対に突っ込んでくるだろうから、取っ組み合いだけは止してくれよ」
「分かってるって。全く、僕を何だと思ってる」
これまでの統計だと、この街に本部を置くENDT (イーリング・ネクスタ・ディスカバリー・テレビジョン)の受信世帯数は約61万、市全体を辛うじてカバーしている。この4年に一回のお祭り騒ぎにおいて、候補者討論会の視聴率は平均48パーセント。
だが同じく資料に頼るならば、基本的に討論会で支持率はそこまで大きく上下しない。つまりは浮動票をどれだけ取り込めるか、と言う点が肝だ。
共和党側が送り込んできたスティーブンスは端からお呼びでない。ヤンファンとの舌戦をどれだけ上手くこなせるかが課題になる。今期は議員でもない市民が立候補宣言しなくて本当に良かったと、エリオットは内心胸を撫で下ろしていた。かつての職業柄、弁舌爽やかなハリーが、在野の主婦を生放送でこてんぱんにしている図は、どう考えてもイメージの悪化に繋がる。
見かけのイメージと言えば、今のハリーは全く最高だった。カナーリのダーク・グレーをしたウールスーツはシングル二つボタン、洒落たピンドットだが色味が地味なので、露骨さは感じさせない。清潔な白いワイシャツを縦断する太い臙脂色の絹ネクタイは4年前よりも若干太めにし、年齢とこれまで培ってきた実績の重みを強調する。
「何だよ、じろじろと」
「いや、君はハンサムだと思ってね」
そう素直に褒めても、ハリーはふふんと鼻を鳴らすだけで照れた素振りすら見せない。
「テレビの向こうの淑女達とゲイを虜にすれば、それでもう、統計上は過半数に達するって事だよな?」
「そうだね。頑張って」
「エル」
洗面台で丁寧に手を洗い、それからヘアスタイルを確認している熱心さを尻目にドアへ向かおうとしたら、不意に腕を掴まれる。
「今ので激励のつもりか」
「ハリー?」
「これでも僕は、緊張してるんだぜ」
弁護士時代から、テレビカメラの前に立つことなんて慣れきっていただろう。そもそも、目立つのが好きな性分のこの男に、緊張なんて言葉は全く似つかわしくない。思わず瞠目して振り返ったエリオットの前で、ハリーから不安そうな様子は窺えないが、同時ににこりとする気配もなかった。
「この前みたいに、僕のことを引っぱたけとは言わないけど」
「悪かったよ」
「いいんだ。君の余裕のない姿を見て、正直ちょっと興奮した」
呆れの余り口を噤んだのだが、どうやら後ろめたさと捉えられてしまったらしい。
「本当に、そう思ってる。君のおかげで、僕はここまで来ることが出来た」
エメラルド・グリーンの瞳が、じっと顔を覗き込んだ。エメラルドの宝石言葉は「愛の成就」だったか。ハリー・ハーロウの一番優れた才能であり、本人も何より望み、それでいながら最も縁遠い言葉だ。
「この先も、市民は僕を望んでくれるかな」
「勿論さ」
化粧が崩れるから、掬い取った手の甲に唇を押し付けた。自分でも恥ずかしくなるほど気障な仕草は、けれどハリーをこの上なく喜ばせる。
「この街どころじゃない。君が登場したら、世界はきっと君を好きになる。私達は、君が舞台に立つきっかけを作っているだけなんだ」
「でも、時々思う。僕が望むのは」
そこから先をハリーが飲み込んだのは、結局のところ単純明快な優越感の方が先に、心の中でゴールテープを切ったからだろう。
「駄目だな。同じ街で育った人間を打ち負かすのは、やっぱり後味が悪い」
「打ち負かす、か。それ位の自信で丁度いいよ」
こちらがそう軽口を叩いてやれば、ふっと、まるで子供が親へ甘えるような笑みが、口元へ広がった。今度こそキスして宥めてやりたいという強い欲求が胸を満たす。この現市長の呑気さを笑っている場合ではない。
討論会の開始まで後5分。いい加減、撮影スタッフが探しにくる。さっと踵を返し、エリオットは出来る限り平常心を保っている風に見えるよう、わざとらしく軽い口調を作った。
「あのカラスをやっつけた気概で、行っておいで」
こんな地方のテレビ局で大統領選並の厳粛さは求めていない。だが撮影スタジオのセットは、ゴールデンタイムに放映されるクイズショーよりも安っぽい。薄い合板に派手派手しいブルーのペンキを塗りたくった小さな演壇が3つ設置されている。司会者のテーブルを挟み、向かって右側に現職市長、左には対抗馬二人。逆にしてくれとぎりぎりまで頼んでいたのだが。
眉根を寄せるエリオットを、同じく渋い表情を浮かべた舞台袖のヴェラスコが手招く。
「やっぱりあの位置じゃ、新人に追いかけられているみたいに見える」
「実際そうなんだから仕方ないさ」
「でも、ハリーは保守派じゃないのに」
唇を尖らせるヴェラスコから新聞を取り上げ、目を通す。昨日付のイーリング・クロニクル、第一面は市長のちょっとしたスキャンダル。害獣駆除業者が仕掛けた罠を持ち上げ、怯えた鳥を掲げる勝ち誇った様子を隠し撮りしたものだ。
『イーリングの屠殺者、マイノリティを優遇し、絶滅危惧種の権利は無視』
堂々と取材に来れば、メディア・リテラシーの観点からも申し分のない、正確な情報をスクープさせてやったのに。
「このクソ忙しい時に、あれはゴマフヒメドリじゃなくてカラスだって訂正の記者会見をする羽目になったこっちの気持ちも察してくれよ」
「察してるよ。ここを乗り越えれば、君は来期から広報官じゃなくて主任補佐官へ出世だ」
紙媒体でまじまじ眺めたのは初めてだが、案外悪くないな、と言うのがエリオットの、完璧に個人的な主観だった。
荒い画素で印刷された写真の中、ハリーはまるで敵の首を刎ねたグラディエーターみたいに、若さと強さに溢れている。右斜からの映る角度も悪くない。ハンサムな顔立ちが、朝の日差しで陰影を際立たせ、一層美しく見えた。屈託ない笑みは、ここのところ部下の立場ではなかなかお目にかかれないものだ。
まあとにかく、この席次なら、余計事を言ったスティーブンスにハリーが掴みかかったところで、パンチが顔へ飛ぶ前にカメラは別画面へ切り替わるだろう。既にスタジオへ入っていたヤンファンとスティーブンスに、ハリーは何食わぬ顔で歩み寄る。どれだけゴネても、本番になれば胆が据わる。街一番の弁護士という看板は伊達ではない。
「動物愛護団体の反応は?」
「連絡が来たところにはメールを送った。くそっ、カラスは死んでないってあれだけ言ったのに……」
そして誰かを頭一つ抜きん出た存在にする為には、水面下で彼を押し上げる人間がいなければならない。選挙対策委員会が結成されてから、すっかり険しい表情が板についた同僚が、流石に可哀想になってくる。
スタジオの扉に取り付けられた「オンエア中」のランプが灯る。早くも下唇を噛みながらハリーへ食い入っているヴェラスコの横顔は、暗がりの中で一層青白く見えた。うっすらと浮いた隈も元来の童顔へ全く似つかわしくない。
「最近は少しマシになってきたと思っていたけれど、編集長のノヴァロは、やっぱり共和党に肩入れし過ぎだね」
夕方のニュースキャスターを務めるアナウンサーが述べ始めた口上はウケ狙いの寒いもの、聞くに耐えない。ますますバラエティショーじみている、期間中にこれが後3回繰り返されるのかと思えば、心底うんざりした。
「私のやり方で良いなら、編集部に顔を出してみるが」
「頼むよ」
らしくもないしおらしさで、ヴェラスコは目をしょぼつかせた。
「せめてモーがもう少し役に立ってくれたらなあ」
「余り彼に当たるなよ。最初から戦力には入れてないんだから」
「それにしたって……」
「優秀過ぎるのも損だと、君を見ていたらつくづく思うな」
それに、鋭敏過ぎるのも。早速カラスについて当て擦り始めたスティーブンスに、ハリーは平然とした態度を貫いている。にも関わらず、びくりと肩を強張らせたヴェラスコに、エリオットは同情の視線を投げかけた。
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