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アガペー

 案外やられたな、というのがエリオットの個人的な感想だった。スティーブンスの牙城はさして切り崩せなかった訳だし、ヤンファンも後半ぐんぐんと伸びた。彼女にならば、安心してこの街の市長職を託すことができるだろう、あと4年修行を積んだ暁には。  既に選挙事務所はお祝いムード、しかもはしゃいでいるのはボランティア達だけではない。ヴェラスコなど、既に開票の始まる8時から、自腹で買ってきたグラン・コルドンで酔っ払っている。おかげで選挙速報で流れてくる数字を地区別予測票数一覧に書かれた数字はミミズの這ったような筆跡、何度も書き間違えられては斜線で消されるので、見かねたモーが途中で交代していた。  勿論エリオット自身、喜びに浸りたいのは山々だったし、シャンパンもグラスに1杯ご相伴に預かっている。だが学生の部活動じみた「よく頑張りました、お互いの健闘を讃え合いましょう」を物語の結末にしているこの状況へ、素直に身を投げ出すことはできないのも確かだ。  それに、くそっ、先程からスラックスのポケットで振動しているスマートフォンは何だ──分かっている。ヨルゲンセンからの着信は今日3回目。特に一週間前から、頻繁に掛かってきている。 「ちょっと話があって」  遂にはメッセージでの懇願、何て思わせぶりなことか。「ゆっくり語らいたいが、今が選挙の追い込みで」と言外に色々匂わせたきり放置しているが、どうせあの男のことだ。本当にまずい事態へ陥ったら、なりふり構わずこっちへ飛んでくる。  せっかくの祝賀ムードに水を差されたのは、あくまで自己都合。チェスターコートにマフラーをぐるぐると巻き、紙皿に仕出しのピザを1切れ乗せて、エリオットは事務所の外へ出た。  この寒さなので、幸いなことにお祭り騒ぎも屋外の非常階段にまで繰り出しては来ない。冬の夜風は火照った頬をさっと撫で切り、不要な興奮を冷まして、脳を明瞭にする。尻が凍りつくような踊り場に腰を下ろし、エリオットはこの4年ですっかり見慣れたものになったイーリング市の、中堅都市らしい疎らな夜景を眺め渡した。  戦略官としてのキャリアをここで、この市長の元で始められたことが心底幸運だと思う。ホーボーケンのクソガキが、遥けくも来つるものかな。思考実験とノウハウを組み立てる研究員から、官僚としてのキャリアも目前に迫り、野心を滾らせていたあの日。引き合わされたハリーが全てを変えた──なんて大袈裟なことではない。彼の真価を理解したのは、1度目の選挙を終えてからのことだ。  ハリーが進化したように、己も少しは賢くなった。次の4年が楽しみだ。勿論その先も……今や己の前にあるのは、ハリーと共に歩む未来のみだった。 「何だおい、そんなところで黄昏れて」  ドアが勢いよく錆びた軋みを上げ、耳慣れたがなり声が遠い喧騒を吹き飛ばす。ゴードンもまた、ダウンジャケットに手袋まで、完全装備だった。隣に座りたいのかと思って少し腰をずらしたが、彼は笑って手を振り、運んできた三切れのピザを積み上げた紙皿を渡す。 「俺は今夜の最終便に乗って娘達の財布になってくる。金曜日まで頼むわ」 「どうせなら週末まで残ればいいのに」 「放課後限定ならともかく、一週間近く付き合うのはな。あっちだって飽きるだろ」  あっけらかんと言ってのけられ、もう呆れることも出来ない。生温かい犬の糞を包んであるような触感を保つ皿を受け取り、エリオットは首を竦めた。 「何にせよ、お疲れ様。今度の選挙も、お前なしじゃどうにもならなかった」 「エル」  そう呼びかけられてから、己がポケットからジュールを取り出してスイッチを入れるまでに、ゴードンが何を考えていたかは分からない。ただ、エリオットが振り返った時、この戦友は既に、柔らかい、慈しみすら感じられる色へ、眼差しを切り替えている。 「いや。よく考えりゃ陰謀は、帰ってからだって幾らでも練れるな」 「その通り。せめてあっちへ行ってる間は、娘さん達に専念しろよ」  吸い口を咥えながら返せば、「全く、エル・エリオットは大した男だよ」と、白い息を爆発させる勢いで笑われた。  皆が思うほど大した男でもない気がする。だが周囲がそう言うならば、ふりをしていなければならない。ポーズを取るのには慣れていたし、そもそも嫌いではなかった。  これからの4年は、維持と助走の時間だ。今までのように、ただ前向きで走っているばかりだと、次の躍動で盛大に躓く。  冗談抜きで、しばらくは色恋に現を抜かしている暇はない。ハリーは許してくれないだろうし、自らも許せない。この4年間、あの陸軍の英雄と片手間のままごとを楽しんでいられたのは、己に余裕があった証だ。  まだいける。間違いなく進める。後ろを振り返る時は、しがみつく過去を確実に奈落へ蹴落とす時だけだ。  まるで屋内へ追い返されるのを恐れているように、ハリーはそっと、エリオットの傍らへやってきた。吐き出された紫煙が顔へぶつかってしまい、咳き込む余り、両手に携えてきた皿を落っことしそうになっている。 「ゴーディが?」 「彼はもう発ったよ」 「あ、そうか」  腰掛けざま、先客で溢れ返っている踊り場へ自らのものを並べながら、ハリーは愉快そうに喉を震わせた。 「彼も家族と仲良くやってるようで、本当に何よりだ」  エリオットは微笑みかけるだけで、答えなかった。今はこちらから、何か気を遣ってやるのが面倒だった。再び制した街を、満足げに眺める市長の横顔を眺めているだけで、穏やかな気分になれる。   この世の誰よりも素晴らしいハリー。皆が寄ってたかって手を伸ばしたが、磨き上げたのは己達ではない。ハリー本人が、恐れることなくぶつかることで、時に削り落とし、時に埋め立て、自らを形成した。  じっと見つめる視線に気付いたハリーは、エメラルドの瞳を本物の宝石よりも、無垢な罪深さで輝かせる。 「さて、頑張らなくちゃな。例え今夜はお祝いムードだろうと、市民は明日もまた仕事に向かうし、ホームレスは凍死しかけてる」 「明日は朝一番で、ヴェラとシェルターの慰問だったね」 「大丈夫かなあいつ、さっき泥酔してモーにトイレへ連れて行かれたけど」 「もうすぐ報道陣が来るし、それまでに少しはまともに戻ってればいいんだが」  たかが市長選で有頂天になれる軽薄さを笑う気持ちも、今日だけは封印しておこう。何せ今夜の主役はわざわざパーティー会場を抜け出し、己の隣にいる。寒がりなハリーはピレネックスの登山用ダウンで冬の雀のように膨らんでいた。だからこうして肩が触れ合うのだと分かっていても、ぼんやりとした邪さは拭えないし、何よりも、この温もりは捨て難い。 「あいつが駄目なら、君に頼むよ」 「ヴェラなら大丈夫さ」 「君に頼みたい。だってもう、あいつは広報官じゃないからな」  今度こそ、ハリーは自らエリオットに擦り寄り、ことんと肩に頭を預ける。凍死の瞬間、朦朧とする意識の中で極上の夢を見ているかのような口調が、甘く鼓膜へ絡みついた。 「寒い。1人じゃ凍えるぞ」 「そうだね」  腕は伸ばさない。憐れみもしない。でも、必ず共に戦い抜く。 「ほら、君は先に中へ戻ってて。私もすぐに行くよ。トイレでヴェラの様子を見てから」  ぽんと背中を叩いた時、そこそこ力を込めたつもりだが、包み込む柔らかい羽毛に受け止められる。促しに安堵し、そそくさと逃げ去る後ろ姿に思わず笑いを噛み殺した。が、予想に反し、足音はドアの前で止まる。 「エル。この世の誰よりも君を愛しているのは、僕なんだ」  ごうと頬を打つ風の音で喉を切り裂かれたかの如く、その声は死に物狂いで、今にも泣き出しそうに響いた。それとも彼は、笑っていたのだろうか。  こちらまで口元が綻びそうになる。抱えた膝に額を押し付け、エリオットは涙を流した。男へ逃げられても出なかった熱い滴が、凍った頬を伝う。  こんな間の悪い時に電話してくるなんて、あのクソッタレ。今度こそ怒鳴りつけてやろうとスマートフォンを取り出せば、表示されていた名前に嗚咽も引っ込んだ。 「ニック? ニック・デアンジェリス? 嘘だろ、久しぶりだな、嬉しいよ」  幼馴染の懐かしいニュージャージー訛りを聞いて思い出したのは、久しく故郷に帰っていないということ。ゴードンではあるまいが、過去だって別に悪いことばかりではない。 「施設から出られたのか。奥さんは元気にしてる?」  取り敢えず、あと5分だけ話をしてから仲間達の元へ帰ろう。そこから先は、新しい世界が待っている。  みっともなく鼻を擦りながら、エリオットは気遣う電話の主に向かって、見えもしない笑顔を作ってみせた。 「私は相変わらずだよ。最高に上手くやってるし……幸せなんだ!」

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