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キス・オブ・ザ・ドラゴン

「ハリーがヤンファンにキスしてた!」  息急ききって市長付職員オフィスに駆け込んで来ざま、開口一番がこれなのだ。「ああ?」と思わず声音を低め、睨みつけたとしても許されるだろう。何せこちらは、週明けの本投票に向けて、期日前投票の動向を血眼で分析しているのだ。  著しく不機嫌を発散させるゴードンと違い、タブレットをスクロールしていたエリオットは、ただ苦笑いだけを返す。 「今更お互い、政略結婚って事もないだろう」 「そんな小学生のガキみたいな事ではしゃいでる暇があるなら、最後のキャンバシングをボランティアにせっついて来いよ。1回行ったところには2回目を回れ、投票は来週の火曜日だぞ。ついでにあの趣味の悪いステッカーも消費してこい」 「そんな何回も顔を出したらウザがられて得票率が落ちるのが関の山だろ」  この寒さにも関わらず冷蔵庫からダイエット・コークを取り出し、ヴェラスコは唇を尖らせた。 「それに、あのステッカーは洒落てる。最近インスタグラムでバズってるイラストレーターに発注掛けたんだぞ」  選挙を除いても、ここのところピリつく事が多過ぎる。長女は中古で良いから車が欲しいと言うし(練習に付き合ってやりたかったが、タイミングが余りにも悪過ぎる)あの馬鹿げた雪合戦以来引きずる鼻風邪は綺麗に治らず、毎晩マスクをして寝るせいで耳が痛い。 「見間違いじゃない?」 「確かにこの目で見た。唇じゃなくて頬だったけど」  確認するエリオットに、自信満々で頷いて見せるヴェラスコの大きな瞳が時々節穴になる事を、ゴードンはよく知っていた。この有能だが取り返しのつかないほど勝気な広報官がもし犬を飼う機会に恵まれたなら、間違いない。周囲に見せびらかすため散歩へ連れ回しつつも、歩くコースは絶対ペットの思う通りにさせず、ぐいぐいリードを引っ張り回すタイプだろう。  幸いハリーは、相手を引き摺るだけのパワーを持ち合わせている。 「頬へのキスは……」 「親愛の証。あの2人は仲が悪い訳じゃないんだから、したっておかしくないだろ」 「ならあんたはエルにするってのか、ゴーディ」 「今回の選挙でハリーの得票率が65パーセントを超えたら、ディープキスしてやってもいいよ」  胸を張るゴードンに、エリオットは「私は良くないな」と笑い声を立てる。  彼がちらと視線を走らせた先、つい先ほどまで形だけは暖かなオレンジ色へ染まっていた空は、幕を落とされたかの如く闇へと急転している。こんな時期に選挙だなんて、馬鹿げたルールを決めたのは一体どこのボケナスだろう。週明けからまた雪が降ると聞いているから、得票率は暖冬だった前回よりも下がるに違いない。  そう言えば、ホームセンターの王子様は街の山間部マッキール・ヒル出身で雪に強いから、この季節になると時折ルームメイトを市庁舎まで迎えに来ていたよう記憶している。  エリオットがあの男について話題を持ち出す機会は、近頃皆目ない。本人の望む通り乗り越えたのだろう。彼が強く薄情な男でとても嬉しいと、ゴードンは思う。  戦友がタフであるのと同じくらい、ハリーが肝心なところで優しさを発揮してしまうことを望む己がいる。  美徳は弱点どころか過失にすらなり得るものの、それがどうした。十字架を担いで信者を刈り取るのが己の役割だった。例えどれだけあの男の求心力に幻惑されていても、まず職務を全うしなければならない、何に代えてもだ。 「なあ、ヴェラ」  まとめられた資料と、ついでに数日前ハリーが家に忘れていったと言う下着を携え市長室に向かうエリオットへ「真相を聞いてくれよ」と叫ぶヴェラスコに、ゴードンは向き直った。 「お前、この選挙が終わったら、ハリーのことどうするよ」 「どうするって」  浮かんだ戸惑は、けれどすぐさま溶け消え、将来を期待されている弁護士らしきちょっと皮肉げな笑みにすり替わる。表情筋の使い方は全く違うのに、それはこの男の上司を思い起こさせることが、ここのところよくあった。 「まだ当選も決まってないんだぜ。この街の保守派の根深さを侮るなよ」 「いや、ハリーは間違いなく当選する」  こちらは冗談の欠片すらも匂わせることなく、ゴードンは言った。 「スティーブンスはこちらの想像以上に準備不足だったし、ヤンファンは良い線行ってたが、この街はまだアジア系住民を市長へ仰ぐに未熟過ぎる。同性愛者だってことを除けば、ハリーは安牌だと思われるよ」 「良いことじゃないか」 「4年後、スティーブンスなり他の共和党側候補なりと、多分再挑戦を掛けてくるヤンファン。今回よりも状況は厳しくなるだろう」 「でも、ハリーは次期以降、州知事戦に移行する。ヤンファンを擁護して、地元を磐石にすれば」 「俺は、更にあと1期、ハリーに市長を務めさせてもいいと思う」  こんな頬を引っ叩かれたみたいな表情を法廷で浮かべようものなら、その瞬間に陪審員は不安を覚えて、相手側弁護士へ傾くだろう。やっぱりな、と内心頭を振りつつ、ゴードンはヴェラスコの見開かれた目をじっと見据えた。 「エルはあれで上昇志向が強いから、反対するかもしれん。だが、この街の任期上限は3期までだな。その間に、ハリーの資質をじっくり見極めるのも悪くない。彼の持つ全てをな。そこには周囲の人間関係だって含まれる」 「つまり、僕は役不足だって?」  今度ヴェラスコの目元が歪ませる感情は、虚勢の皮を被った……一々論って何になる? 少なくとも泣き虫ヴェラシータは、もう眦一杯に涙を盛り上げたりしない。 「あんた、めちゃくちゃ傲慢だな。自分はいつでもジャッジする側だってか」 「俺も所詮は駒だよ。お前もモーも、エルだって……人材は財産だ。彼の持っているもので、戦えるか。少なくとも、タイムリミットまでにそこへ到達出来るか」  この街へ来たのはエリオットの誘いだったが、初めてハリーに会った時、思ったことは嘘じゃない。彼は賭けるに値する馬だと。  それからは、夢を語るのが楽しかった。多少のアクシデントには見舞われたもの、その度平然と、少なくとも平然としたふりでハリーは立ち上がり、そつなく実績を積み上げてきた。  だが夢は、現実が目前に迫っていないからこそ甘美でいてくれる。州知事、その先へ駆け上がるに及んで、今よりも遥かに狡猾で容赦ない障壁が目の前に立ち塞がるだろう。 「ヴェラ、お前、この街を捨てて、泥沼に飛び込む度胸が本当にあるのかよ。その暁に、何者でもなくなったハリーがいるかもしれなくても」  心底真摯になったつもりだった。けれどそれが、ゴードンの限界だった。死ぬとは言えないくせに死ねとは軽々しく言葉に出来、かと言って殺すなんて口が裂けても言えない。誰だって命は惜しいのだから。それが執着してしまった相手ならば尚更だ。  くそっ、俺は思ったよりも、あの男にイカれているらしい。惨めな気分だが、同時に活力も覚える。  しばらくの間、ヴェラスコは泣き出す寸前の赤ん坊の形で唇を引き結んでいた。大きく肩で息をつき、再び相手を見つめ返した時、その瞳からは、黄昏を飛び越して闇に染まった外の世界と同じく、光を見出すことは難しい。 「あんたの不安を僕へ投影しようとしないでくれ。選挙に落ちれば、ハリーは弁護士に戻るさ。僕も再び、彼の可愛い後輩に戻る。でもあんたは、後がない。意地でもハリーを、押し上げるつもりなんだろう」  可愛い後輩か。今更戻れる訳もないだろう、一度栄光を知ってしまった傲慢な男が、再び影の中へなんて。  いや、その経験ですら生かして、彼はこの街で利権を貪るのだろう。不意にゴードンは、デイヴ・マレイが自らの命を危険に晒してまで、この男で勃起しようとした理由が分かった気がした。それはハリーが彼に目をかけている根拠に直結する。 「あの……」  その大柄な体躯からは想像できない、モーの丁寧なノックに、まず振り返ったのはヴェラスコだった。 「何か重要な話の途中なら」 「別に」  素っ気ない物言いは、剥き出しになった柔軟で姑息な野心を誤魔化す為ではない。 「重要な話なら、君が同じ建物の中へいないときにするよ」  詳細は聞いていないが、総括すると、このジャーヘッドは案外口が軽いらしい。 「そう言えばさっき小耳に挟んだんだが、ヤンファン議員が結婚するとか」  こんなデリケートな情報を、軽々しく舌に乗せてしまう程度には。 「あー、なるほど。それのキス」 「式は選挙後だろ。うちの陣営からって、何か送っとけよ」  くたびれたように首を回すヴェラスコに、ようやくいつもの調子を取り戻したゴードン。彼らの安堵など露知らず。この不調法な秘書は「団体から送るって、金以外だと何が相応しいんですか」とまごつきながら尋ねた。

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