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 胡南(こなみ)(いく)は動揺していた。  うららかな春の午後である。  窓の外は上天気で、淡い水色の空の遠くに刷毛でひいたような薄い雲がぺったりと広がっている。  ――だから俺、そういうのよく、わかんねえんだよ。  胡南の頭の中で、さっきの会話が自動音声みたいに何度も繰り返されていた。  でも、動揺を誘発したセリフはそのもうちょっと前だ。  始業のチャイムはとっくに鳴っているというのに、教室の中は熱に浮かされたようにざわついている。昼休み明け、急に五時限目が自習になったと通達があったからだ。  あまり騒ぐと隣のクラスから教師が注意をしにやってくる、ということくらいは高校生にもなると重々承知のようで、早々に課題のプリントを終えた生徒たちは好き勝手に集まり適度に声を押さえて談笑していた。 「どしたー? 胡南。ぼんやりして」  いつのまにか、前の席に瀬尾(せお)が座っていた。  ついさっきまでその席には本来の持ち主がいたように思うけれど、すでにどこかへ移動しているらしい。窓ぎわの一番後ろの胡南の席は、陽がさんさんと射していて暖かい。 「……え? あ、瀬尾 」 「あ、瀬尾。じゃねえって」  胡南の机に片肘をつき、瀬尾は朗らかに笑った。  二年に上がるさいのクラス替えで、瀬尾と一緒だったことは唯一の幸運だった。  一年のときに同じクラスでつるんでいた六人のうち、誰か一人でも一緒になれればいいと思っていたのだったが、それが瀬尾だったのは本当にありがたかった。  何しろ胡南は、小学校の卒業とともに訪れた思春期という名の大波に押し流されて、友人を作るすべをすっかり見失っていた。謎の人見知りが発動し、友だちっていったいどうやってなるんだっけ、などと焦れば焦るほどそうおいそれと人に話しかけることができなくなり、中学のときはほとほと苦労したのだった。  明朗闊達で何かにつけ積極的な瀬尾は、誰のふところにもすいと入りこんでゆく人あたりの良さがある。胡南にとっても、数少ない話しやすい友人の一人であることは間違いなかった。 「永嶋(ながしま)となんかあった?」  なにげなく瀬尾の出した名前に、胡南は咽の奥がひ、っとそっくり返りそうになる。 「べべべ、別に何も」 「……いや、絶対何かあったでしょ」 「ほ、んとに、何も……」  わかりやすすぎる胡南のそらとぼけかたに、黒崎(くろさき)あたりならとことん追いつめてきそうだし、羽柴(はしば)あたりは爽やかな笑顔でねちねちと問いつめそうだったが、優しい瀬尾はふうんと言っただけでそれ以上は聞いてこなかった。 「でも、小泉さんのことは言ったんだろ?」  と、瀬尾は一年のときに同じクラスだった女子の名を出した。それで、胡南はそもそも、昼休みに永嶋を呼び出した理由を思い出した。 「あ、……うん。言ったよ」 「永嶋、なんて?」  ――悪いんだけど。  確かそう、言った。伏し目がちに。  ――ごめんな。  そうも言った。あまり感情の入っていない言い方で。でも、そのもっと前に。 「なんかアドバイスみたいなのあった?」 「いや、そういうのは、あんまし」  ――俺、ゲイなんだよな。  一瞬、頭のなかが真っ白になる。再生された記憶のその場面になるといつも、一時停止を押したみたいに思考が止まってしまう。 「おーい、またぼんやりしてるよー。胡南?」 「あ、えと、よくわかんないって言ってた、かな?」 「そっかー。まああいつ、すっげーモテるのに全然カノジョ作んないもんなー。理想高いのかもしんないな」 「……そうだね」  教室の反対側で瀬尾を呼ぶ声がした。それに(こた)えて、立ち上がりかけた瀬尾が思い出したように振り返る。 「あ、今度さ、またみんなで集まろうって話になってんだよ。松本は部活あるから難しいかもしんないけど、残りのやつで日にち合わせてさ。永嶋に都合訊いといてよ」 「え、俺が?」 「うん。なんで?」 「なんでって。別に、瀬尾が直接言えば」  えー? と瀬尾は、さもあたりまえのように胡南を見た。 「だって、胡南がいちばん、永嶋と仲いいじゃん」  え、と胡南はたじろいだ。瀬尾はじゃあよろしくー、と去ってゆく。  永嶋と、いちばん仲いいのは自分、なのだろうか。  確かに一年のとき、胡南はたいてい永嶋と一緒にいた。  でもそれは、胡南が一方的に永嶋を頼っていたというか、永嶋が胡南をかまってくれていたというか、胡南が瀬尾や黒崎や羽柴や松本と一緒に行動できていたのも永嶋がいたおかげであって、つまり永嶋には感謝しかないわけで、それって仲いいって言うのだろうか、とか。  ――俺、ゲイなんだよな。  胡南はそっと息をのむ。そういうのとか。  俺なんかが知っちゃって、よかったんだろうか。  教室のなかの騒々しさに惑わされて、胡南はちっとも思考がまとまらないでいる。

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