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第1話
周りの喧騒が大きくなるにつれ、藍谷浬(あいたに かいり) は焦燥感に煽られ握っている拳にじわりと汗が滲んだ。
「名前は?」「どこ出身?」と後ろの声に耳をそばたてる。男二人は互いの共通点を見つけると枝葉のように話が広げ、緊張して固まっていた空気がグミのように柔らかくなっていく過程を聞いて奥歯を噛んだ。
(また乗り遅れた)
入学後の通例の儀式に浬は入れないでいる。でもこのままではいられない。浬は意を決して隣人の様子を窺った。
隣の男は浬が来る前から熱心にレジュメを読んでいて、声がかけづらい。
それでもめげずに横目でじっくり観察していると男の読んでいるシラバスに「福祉科」と書かれていることに気付いた。ここは心理学科の教室だ。福祉科は確か隣 だったはず。
浬は緊張を解そうと黒く染めたばかりの髪を撫でた。 黒いジャケットにダークグレーのパンツを合わせ、インナーには薄手の白いニットを着ている。
雑誌で 載っていた服をそのまま買ったので変ではないはずだ。 肌のケアもしてきたし、ホワイトニングもした。
声をかけても驚かれるほど不潔な容姿ではないと自分を鼓舞し、男の方に身体を向ける。
「あの……」
浬が声をかけると男はこちらを見た。くっきりと線を引いたような二重と顔のパーツすべてが一流品で揃えられ、配置する場所まで計算されたかのような美しい顔立ちに息を呑む。
「……はい?」
「こっ、ここ心理学科なので、福祉は隣だと思い ます」
浬の持っているシラバスを見せると男は目を大きく見開いた。
「本当だ。教えてくれてありがとうごいます」
男は浬にお辞儀をして、荷物を片付け始めた。その腕が浬の肩にぶつかってしまい、机に置いたままの学生証を落としてしまった。
「すいません」
「こちらこそ。拾います」
男が屈んで学生証を手に取ろうとした体勢で固まる。どうしたのだろうと下を覗くと男は浬の学生証を手にしたまま微動だにしない。
「……おまえ、藍谷浬か」
泥沼から這い出てきたような低い声で名前を呼ばれ顔が青ざめた。
(彼は僕を知っている)
浬は悄然としていると男はそのまま教室を出てい ってしまった。
男の姿がなくなり、金縛りが解けたように酸素を求めるように喘ぐ。
「大丈夫?」
肩を叩かれて振り向くと斜め後ろの男が眉をへの字にしている。一部始終を見ていたのかもしれない。
「大丈夫です。すいません」
「よかった。じゃあガム食べる?」
「え、あの」
「もしかして嫌い?」
「ううん。ありがとう」
気を使われたのだろうかと男を見上げたが、そういう雰囲気は感じられない。
男の髪はブラウンに染め、所々に金色のメッシュがはいった個性的なヘアスタイルだ。淡いブルーのパーカーが白い肌と合っていて、自分の似合うものをわかっているように見えた。
紙に包まれたガムを受け取ると包装紙の隙間から葡萄の甘い香りが漂ってくる。
「おれ、辻春樹。よかったら仲良くしてよ」
「藍谷浬です」
「さっき隣だった奴は知り合い?」
「いえ……知らないです」
少なくともいまの僕は、と内心で付け加えた。 会話が途切れるタイミングで教授が教室に入ってきた。
全員の視線がそちらに向かい、 示し合わせたように静かになる。マイクを手にした教授は教室全体を見回した。
「ご入学おめでとうございます。これからオリエンテーションを始めます。まずレジュメを開いてください」
教授は挨拶もそこそこに、履修の組み方や講義の内容についての説明を始めた。聞き漏らさないように耳を傾け、大事なところにはペンを走らせた。
男の顔を思い出す。
あんな美形な人はいままで一度も会ったことがないよなと自分に問いかけたが記憶の瓶はなにも答えてくれない。
鋭い眼光と冷たい声であの男が浬を恨んでいるのは一目瞭然だった。
(『浬』は彼になにをしてしまったのだろうか)
記憶をなくした脳はなにも答えてはくれなかった。
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