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第10話
見慣れたプラスチックのドアを開けると正面に羽場の後ろ姿がある。 羽場が下を向くと頸椎が隆起していて、その凹凸をなぞったらなんて書いてあるのだろうか。 羽場の名前かそれとも好きな食べものだろ うか。
そんなことを考えながら浬は西藤たちに頭を下げながら奥へと進み、羽場の手元を覗き込んだ。
羽場は慎重に一文字ずつ打っている。紙に穴が空いてしまわないかと危惧する浬をあざ笑うようなスピードで、目が追いつかない。
羽場が点字に集中しているときは敵意を向けられ ないし、隣に座ってもなにも平気だ。 自分に関心を向けられていないから落ち着くというのも変な話だ。
しばらく眺めていると用紙に向かっていた羽場の瞳がふとこちらに向く。目が合うだけでなぜだが涙を拭ってもらったときの指先の熱を思い出して、勝手に頬が熱くなる。
「来てたのか」
「邪魔しちゃった?」
「いや、ちょうど区切りがよかった」
羽場は打ち終わった紙を緑のファイルに入れた。
「なにを点訳してたの?」
「これだ」
羽場は隣に広げられていたハードカバーの小説を指す。最近ドラマ化して話題になっている恋愛小説だ。
「図書館でリクエストされたやつ?」
「姉さんに頼まれたものだ」
「お姉さん?」
「姉は全盲なんだ」
室温が一気に氷点下まで下がったような気がした。
夏に近づいてきた日差しが冷たく浬の肩を刺す。 羽場のお姉さんの目が見えないとは知らなかった。 だから点字を読めるし、点訳もできるのだといまさら納得する。
「姉さんは読書が好きなんだ。点訳されている本はそんなに多くないから、代わりに俺がやっている」
「やさしいんだね」
できるだけ憐みを含ませないように言ったつもりだったが、羽場は感情の読めない表情に変わる。
きっとお姉さんのことが大好きなのだろう。独学で点字を勉強し、点訳できるようになるまで生半可な気持ちではできない。
友だちと遊んだり映画を観たり他の趣味に費やす時間すべてを点字に捧げてきたという迫力が羽場から感じた。
「どこまで覚えてきた?」
「一応読む方はだいたい」
浬は鞄から点字関連の本を取りだし、書き写したノートを隣に置いた。書かないと覚えられ ないのでたくさんの点がノートに綴っている。羽場は大きく二度瞬きをした。
「書いた方が覚えやすいと思ったんだけど、なかなか難しくて。羽場くんはどうやって覚えたの?」
「毎日眺めてたら自然と覚えた」
「それは僕にはできない芸当だ」
「短い単語から覚えたほうがいいかもしれない」
羽場は紙にさっと点字を打ち、浬に渡した。
「読んでみろ」
打たれた点字を指の腹でなぞる。まだ読めない浬を気遣ってくれたのか二、三文字の単語だった。だが見るのと触読では勝手が違う。
やはり何度触っても同じように感じてしまうが、意識を指に集中して何度も往復すると段々頭の中に 文字が浮かんできた。
「おかゆ」
「うめ」
「あつい」
「正解」
看病したことを根に持っているのだろうか。
「これだけわからない」
「これは「なべ」だ」
「濁点か!」
「濁点は一マス目の五の点に入るんだ。点字は左から読むから最初に濁点を知らせる役目がある」
羽場の低音の声は耳に心地よく、すっと身体に溶け込んでくれる。説明もわかりやすい。
忘れないようにノートに書いた。 その様子を眺めていた羽場は浬の手元を指して首を傾げる。
「シャープペンを握って持っているのか」
「この方が書きやすいんだよね」
「点筆は握って持つと余計な力が入って紙に穴が空きやすくなる。ちゃんとした持ち方を覚えた方がいい」
「こう?」
記憶を頼りにペンを持ち直したが羽場は首を振った。
「こうだ」
羽場はシャープペンを傾け指の置き方を見せてく れたが、左利きの浬とは鏡のように逆になる。 見よう見まねで握ってみたが、羽場は首を振った。
「こうした方がわかりやすいな」
浬の後ろに回った羽場は手を重ねられる。背中に羽場の体温が伝わってくる。薄いシャツ超しのせいか直に熱の高さを教えてくれ、心臓がざわざわし始めた。
「耳赤いが大丈夫か? もしかして風邪移しただろうか」
「……平気」
「そうか? こうやって点筆も同じように持つんだ」
「ありがとう」
すっと羽場の身体は離れていった。体温も手の感触も泡沫のように消えていくのに、記憶に深く刻まれた温度や質感はいつでも想起できるように一番上の引き出し勝手に居座った。
「真面目にやってるな」
「さ、西藤さん!」
「顔が赤いけど熱でもあるのか?」
「……大丈夫です」
そんなに赤くなってるいのか。恥ずかしくて余計に熱くなってしまう。
「あまり無理するなよ。てか、藍谷こんなに勉強したのか?」
「まだ全然覚えられてないですけど」
「いや、十分すごいよ!」
ノートの書き込みを西藤に誉められると嬉しい。
「じゃあ頑張ってる藍谷にプレゼント」
渡された紙袋の中に未開封の点字盤と点筆のセットが入っていた。
「いいんですか?」
「もちろん。てかOBからの寄贈だけどな」
「ありがとうございます!」
「ほどほどに頑張れよ」と残し、西藤はサ ークル室を出て行った。 袋から点字盤を出した。プラスチック製の白色バインダーと点筆と穴があいた定規のようなものが入っている。
「これで羽場くんの手伝いができるね」
「……どういうことだ?」
「小説の点訳ができるようになる」
虚を突かれたように羽場は目を丸くした。
「いまは羽場くんが一人で図書館に寄付するやつとお姉さんに渡すやつの二冊やってる でしょ? 図書館の方を僕ができるようにな れたらなって」
羽場の目元にはうっすらとくまがあり、風邪治ってから睡眠時間を削って点訳して いるのだろう。
講義も毎日詰まっているのに、サークル活動も精力的に参加していて、ほとんど休めていないのは明白だ。
少しでも羽場の負担を減らしてあげたい。
「 おまえがそれを言うのか」
「え?」
「いや、なんでもない」
それきり羽場はなにも答えてくれず、気まずいままの時間を過ごした。
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