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第1話
それは、ありきたりで身勝手で一方的な出会いだった。
高校入学の翌日、着慣れない制服にわずかな息苦しさを感じて、首元を絞めるグレーのネクタイを緩めた瞬間にその人は現われた。座れないけれどそう混雑しているわけでもない各駅停車3両目の後ろ側。開いた右側のドアから吹いた風に目をやって、息を飲んだ。
そこだけが、あまりにも輝いていた。
突然に世界から色が消え、ただその人だけが存在していた。
彼は、ドア付近の手すりに寄りかかり、一度小さく瞬いてから息を吐いた。
妙にゆっくりとした世界で一度止まった心臓が、その人に合わせて動き出す。突然の律動は自分自身を混乱させ、慌てて彼から視線を逸らした。無理矢理に窓の外に目をやる。
暗かった。
ただ暗かった。
もう一度だけ、彼に視線だけをやると、それは明確な光りとなって視覚視野を刺激した。
あぁ。
僕は胸を押さえた。
目を閉じて、息を吸う。
暗闇でそこだけが煌めいた。
高鳴る鼓動が手の平を伝って、そして悟った。。
今、恋をした。
出会って数秒の、名前すら知り得ない人間に。
どうしようもないほどの、
恋、をした。
「で?」
程よく効いた冷房の恩恵を無視して、生徒会室東側の窓を開けた副会長の福元 志葉(ふくもと しば)が丁度吹いた風になびいた髪を押さえ、さも興味なさげにこちらにあごをしゃくる 「で、って?」
ゴールデンウィーク終わりの5月。先に来た夏に春の抗議が混ざって吹く風には若干の冷たさがあった。
冷房切る? そんなジェスチャーと共に首を傾げれば志葉の眉間に皺が寄るのが見えた。
「我が校期待の星の生徒会長様が身もだえるほどの恋とやら、進展のないまま2年が走り去っていってますけどね、一応、聞いて差し上げてるわけ。1万粒の1の可能性は実りそうなのかって。僕って優しいから」
志葉が、大袈裟に自分の胸元に手をあててから慈悲深そうに指先のはらを上にしてこちらに向ける。そうしたかと思えば「ま、なーんにも無いことを承知で聞いてるわけだけど」と大きなため息を吐いてクルリと手首柔らかにその指先をヒラヒラと蝶が舞うように動かした。その一連はもう既に見慣れた光景で、返事の代わりに眉と肩を上げて答えれば、志葉の興味はその瞬間に消えて無くなることを知っている。
校庭で部活に精を出す声が聞こえた。
ふいと、窓に目をやった志葉が熱気を含むその場所に一瞥をやってからゆったりと歩き出し出入り口ドア付近の空調のスイッチを押した。電力を切られた機械は徐々に勢いを無くし、静かに冷気の供給をストップする。
手元の書類が窓からの風にふわりと浮いた。
「あと、1年ないよ」
ドッと、外の声が湧いた。ナイスプレー! そんな声に志葉の言葉が紛れてこちらに突き刺さるのを口角を上げて耐える。大ぶりに肩を竦めると、呆れた表情の志葉も大袈裟にため息を吐く。
常ならば早々に興味をなくすはずの志葉の言葉の意図が読める。昨日、日付が変わるギリギリに“彼”の所属するダンスチームが更新した内容に『来年2月から拠点をニューヨークに移す。』とあったからだろう。
「卒業は出来るけど卒業式には出られないって、個人SNSにも上がってた。1年どころか10ヶ月切ってる」
いいの? 妙にまっすぐとこちらを見据えた志葉が近くにやって来て、書類とパソコンの乗った長机に腰を下ろす。真剣な顔を横目に見上げると、もう一度「いいの?」と問われる。
「……くわしいね、さすが」
あまりにも真っ直ぐに僕を見る隣の友人に戯けてみるも、志葉はただただ眉根に皺を寄せて顎をクイッと上に向けてから「棚中 仁の情報に行き着くのに30秒もいらないでしょ」と呆れ声を出した。
たしかに。
小さな呟きは更に志葉の眉間の皺を深くさせた。机上のいくつかの紙を手にして僕の鼻先でまるで扇子を振るように抗議の意を上げているそれをやんわりと止める。
一万粒の君と志葉が表した彼、棚中 仁(たななか じん)は事実とても有名だった。彼に出会ったその日に名前はおろかMBTIから趣味、特技、好きな食べもの、好きな飲み物、果ては体重身長までも知り得てしまう程に。5歳から始めたダンスがきっかけで中学卒業後に海外のアーティストのバックダンサーとしてツアーをいくつか回っていたこと。日本に戻るつもりはなかったけれど日本で学生生活を送ってみたくなったこと。それで高校入学が1年遅れたこと。ネットの世界を少し辿れば、英語は苦手だから英語圏に行くと常にジェスチャーでやり取りしていることまでも詳細に記されているその状況に、当初はかなり困惑したのを覚えている。
けれどその困惑も束の間で、すぐに彼の個人SNSを覗くのが日課になった。志葉に自分の気持ちがバレた時だって彼がアップした写真を志葉曰くニヤついて見ていたからで―――彼を知って丁度半年経った頃で、生徒会に入って志葉と話すようになって一ヶ月が過ぎていた―――「それ推し? 案外ミーハー?」と明け透けに話しかけてきた志葉に首を横に振ってしまったのがきっかけだった。本気っぽいやつ? なんて切れ長の目を細めた志葉はあれ以来気まぐれに、彼との進展はあったのかとだけ聞いてきて、一歩どころか半歩だって踏み出せずにいることを察しては決して深入りすることなく一線よりも更に外側に立って傍観しているだけだった。のに。
今日は一線から内側に入り、出て行くつもりはないらしい。足を組み腕まで組んで不満に尖らせた唇を異議申し立てをするようにフニフニと動かしている。
そんな顔をされても・・・・・・。
作業の手を止めて、志葉の方に真っ直ぐと体を向ける。
「いいも、悪いも、そもそも彼は僕のことなんか認識すらしてないよ」
「そんなのわからない」
「ううん、わかる。彼は僕の事なんて眼中に無い。この2年間ただ同じ電車に乗り合わせているだけの人間なんて彼に取ったら置き忘れられた誰かの傘位の存在だよ。そんなただの忘れ物が突然自分に好意を寄せてきたなんて、それってもう只の恐怖だよ。彼の日常にはきっとそんなものが多く存在する。僕は、彼の害になり得ることをしたくないんだ。だから」
ただ、見てるだけでいい。
「僕だって、」と一旦言葉を切った志葉が深いため息の後に眉間を揉んだ。
「生徒会長様が一途に一万粒だけを想ってるならこんなこと言いやしないよ」
志葉の眉間にあった指先がこちらに向いた。嫌そうに歪められた顔の鼻筋にため息と同じだけ深い皺が寄る。
「僕が知る限り性別関係なく来る物拒まず去る者に釘を刺しまくってクソみたいな高校生活送ってる拗らせエセ爽やか野郎がヤケになって暴走してまたいらない傷を増やすかもって心配してるから言ってるんだよ。この心配って別にクソ野郎への気遣いじゃないよ可哀想にエセ爽やか野郎に恋しちゃって想いだけでも伝えたいって勇気振り絞って告白して思いがけず受け入れてもらえて付き合えたって喜んだのに一切自分には興味を持ってくれなくてやることやるクセに感情が見えなくて最後の手段に別れ話を持ち出して引き止めてもらえることを期待してたのに笑顔で「じゃぁこの先二度と僕に関わらないで」って言ってくるような奴に傷つけられる全てのオトメへの憂いだから」
一度の浅い息継ぎで捲し立てた志葉の顔にはもう深い皺はなかった。怒りも見えないし、志葉の言うような憂いも見えない。ただじっとこちらを見据える目に反論できるの? と問いかけられているようで、思わず両口の端だけが上がってしまう。
反論できるのかと問われれば、全くもって反論はできない。
「それについて言い訳が許されるなら……、」
「僕だって最初はちゃんと断ってた。とか言おうもんならその口縫ってやるから」
「……あと、生徒会役員とは付き合ってない」
「役員にはこの僕が目を光らせてるからでしょ。去年来た実習生までは気が回らなかったけど」
その口と言わずその奔放な自我ごと釘で刺してやろうか。
志葉の目についに呆れと怒りが現れて言い訳の口を閉じる。それから逃れるように机に向きを変えると横でそれはそれは冷たく深い息を吐いた志葉も、机から降りて隣の椅子に腰掛けいくつかの書類に目を通し始めた気配がした。
僕をよく知る友人が語ったそれはほとんどが事実で、初めこそ好きな人がいると断っていた申し出は、恋人がいないなら付き合って欲しいという切望に根負けして以降受け入れるようになった。それは来るものを拒むよりも去るものを追わない方が気が楽だと気がついてしまったからで、性行為もそれに似た感情で受け入れた。“ただ断ること ”は意外に骨が折れる。付き合えない理由もキスをしない理由も性的な接触を拒む理由も『好きな人がいる』では中々に受け入れてもらえない現状と、付随して必ず聞かれる「好きな人って誰?」と言う質問に答える気がない状態で、僕なりに取った最善が今の状況だった。
その結果今、隣で友人の気配が氷点下を記録しているうえに、パソコンのキーボードがあまりの打撃に悲鳴をあげ、椅子だって忙しなく動かされている右足の律動にギッギと悲痛な泣き声をあげているわけだけど。
しんと静まりかえった空間に志葉の苛立ちと外の声が響く。
「志葉」
書類に目を通したまま友人を呼ぶと、ぶっきらぼうに「何」とだけ返って来る。
「今の子と終わったら自重するよ」
「呆れる」
バンッ! 志葉が大きくキーを打った音に視線を向ける。
「一度受け入れた関係ならせめて長く続ける努力をするべきだ。きっかけが断るのが面倒っていう最低な理由だったとしてもね。でも、そんな努力すらする気はないんだよね。だって、クソ野郎の心には一万粒がいて、一万粒を遠くから眺める日常が一番大切だから。一万粒にはただのひとつの害を与えない代わりに、他の人間をたくさん傷つけてるってわかってる? この自己中野郎」
「僕に土足で踏み込んで掻き荒そうとしてる人たちのことも僕は気遣わないといけないの? ただ気持ちを知って欲しいと言ってくる相手に対してヒドイ態度を取った覚えはないよ」
事実、気持ちだけを知って欲しいという複数の子達には自分なりに一線を引いている。そんな可愛い自己満足は笑顔でお礼だけを伝えればそれで終わると知っているからだ。
「……拗らせ野郎」
「自覚はある。今日の志葉の助言は“僕への心配 ”として受け取るね」
志葉のじとりとした睨みに微笑んで見せる。
「……付き合える可能性のない本気の相手に想いだけ伝えてお礼で返されて終わりにされるより、じっとずっと、とーーーーくから見ているだけの方がいいってことだね。よくわかった」
怒りと呆れを大いに滲ませていた友人は僕に呼応するようにニッコリと美しく微笑んでから僕に向い中指を突き立てる。
「一万粒の匂わせに爆死しな」
「そ、んなの今まで出てない」
「今まで誰に聞いても棚中仁に恋人はいないって言ってた。いるのは番犬と親衛隊だけで特定の人間との噂ひとつ出てない、からって安心しすぎじゃない?」
クルクルと中指を回す志葉が目を細め、パッと手をひらく。
「断言していい。一万粒は必ず出してくる。恋人なり想い人なりの情報を必ず。それもわかりやすく」
だってね、志葉は指先を付けたり開いたりしながら片頬を上げた。
「時間がないから。距離で生まれる不安を解消するためにわかりやすく示すはずだよ。促されてか自発的にかは判断できないけど」
それを、とーーーーーーーーーーくからじーーーーーーーーっと指咥えて待ってな。
言った志葉の視線がパソコンと書類に向く。
根拠のない志葉の言い分に僅かに胸の内が騒いだ。
この2年彼の噂は数多く、けれどその中に恋愛事だけは含まれていなかった。周到に隠しているのかと思えばそういうわけでもなく、ダンスが恋人だとまで言ってのける彼には本当に付き合っている相手はいない、らしい。
それに安心していた部分がなかったかと言えば答えは否だ。
「青春に矛盾は付きものだねぇ」
流行の失恋ソングを鼻歌まじりに口ずさんだ志葉が、ニヤニヤとそんなことを口にした。それを一睨みして作業の手を動かす。
心臓が不透明なゼリーに包まれて、若干の息苦しさを感じ、一度深呼吸をする。
と、同時に机に置いてあったスマホが鈍く振動音を立てた。 ブッブと短い二度の振動はSNSの通知だ。それに素早く手を伸ばしたのはクセのようなものだった。
よく見もせずに通知欄をタップして、チラリと目をやって、そうして全ての動きを止めざるを得なくなった。無意識に吸い込んだ息を吐き出すことすら出来ない。
隣で志葉も同じようにスマホを開いたのがわかった。
「ね?」
わずかに上がった声にそちらを向けば、無機質な画面をこちらにむけ振った志葉が得意げに整えられた眉を上げて笑っていた。
揺れる画面と自分のスマホを交互に見比べて、そこでやっと息を吐く。
ドクリドクリとゼリーの中の心臓がひどく脈打って、息苦しさは次第に惨痛に変わった。
「『待ってるだけじゃダメらしいから自分から行く』って、どこに、だろうね」
まぁ、玉砕の覚悟もない人間はせいぜい遠くから見守ってな。
ふんと、志葉が鼻息を吐いたのに、手の中のスマホをギュッと握りしめる。
暗くなった視界で、心臓だけが藻搔いているみたいだった。
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