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第2話

2、  天気予報が連日のスコールを告げ、梅雨の湿度と夏目前の高気温に早くも疲れが見え始めた6月の半ば、中間考査もそこそこに、本格的に始まる受験スケジュールに目を通しながら生徒会室のドアを開ける。役員の入れ替えが9月に行われることもあり、もうほとんどの業務が役員選挙の準備で、任期ゴールを間近にしたここは通常よりもさらに静けさを保っていた。部屋には二人の後輩と志葉がいて、僕に気がつき後輩が会釈をしたのに「お疲れ様」と返し、志葉には手を挙げて挨拶をする。志葉も同じようにこちらに手を広げて見せた後で、にっこりと口角を挙げて目尻を下げる。後輩の視線が作業に向いた瞬間、その手をひらりと返ししなやかに中ゆびが立てられるのをため息と一緒にやり過ごし、空いているスペースに腰を下ろした。 あの日以来、志葉のあたりがきつい。目が合えば唇を尖らせ顔を歪め、至近距離に入ると漏れなく中指が立てられる。普段、優雅を絵に描いたような志葉の攻撃の威力も中々だけれど、それよりも更なるストレスが一つあるのが現状だ。  彼のSNSの更新が止まらない。  元々、彼の個人SNSは活動の報告が主で、プライベートなことは時折空の写真が上がる以外ほとんど公開されてこなかった。  それが、だ。  『待ってるだけじゃダメらしいから自分から行く』と彼が書き込んだ文章以来、志葉の言うところの爆死案件がアップされている。  日々、ずっと、だ。  彼はずっと、誰かに向けて言葉を紡いでいる。  時には雨雲と共に『傘、貸して』。  時には晴れ渡った空と共に『明日は会える?』。  時にはアスファルトのハート型の染みと共に『今日は何してた?』。  時には自分自身と共に『どうしたら伝わる?』。  通知音が聞こえるたびに、通知欄を開くたびに、淀んだゼリー膜に沈んだ心臓が息をしようともがく。極め付けは今日、ついさっき更新された写真だ。過ぎる電車と共に『俺に、興味もない?』ときたもんだ。途端周りの酸素が薄くなり、膜は更に淀む。ただ見ているだけでよかった彼と言う人に想われている人間がこの世にいるという事実が、息苦しさを生み続けている。 「会長、私たち失礼します」  遠慮がちな声にハッと我に返る。  いつの間にか後輩二人はドア付近にいて、そんな声掛けと共に軽く頭を下げていた。 「うん。ありがとう。お疲れ様」  絞り出した声が思ったよりも弱々しかったからだろうか、後輩二人を見送る志葉がこちらを向いた。  うっすらと眉根が下がっている志葉の表情に、自分の眉根も下がった。 「志葉」  両手を広げて、口角も下げる。 「たすけて」  言えば志葉は「もうっ!」と自身の髪をくしゃくしゃと掻いて大股でこちらにやってきた。 「そのふにゃ顔やめてって言ってるでしょ!」  小言と共に広げられた志葉の長い腕にギュッと頭を抱きしめられる。華やかに香る志葉のお気に入りのボディークリームの香りに包まれて、自分の腕を優しい友人の背に回し、ついでに腹部に額をつける。  静寂の中に聞こえる志葉の鼓動と、ゆっくりと撫でられる頭が心地よくて、それに委ねるように目を閉じると、幾分か酸素濃度が上がった気がした。 「志葉は、……彼に好きな人がいるって、知ってたの?」 「……年明けにね、聞いたんだよ」  一万粒に果報にも告白した子が「好きな人がいる」って理由で断られたって。今までダンスを理由にしてた一万粒の口からまさかのセリフが飛び出して一時ちょっと噂になってたらしいけど、すぐに箝口令が敷かれたみたいで、ほらあそこの親衛隊って統率力凄まじいでしょ、それでね、都市伝説みたいな扱いになったんだけど、好きな人発言は事実だって。  中低音のゆっくりとした言葉にこちらを見つめる瞳を見上げる。 「誰かが言ってた?」  うん、志葉が頷く。 「告白した子のお姉ちゃん、塾の友達なんだ。それ以来妹がすっかり元気なくしてるって。ただ聞いてから随分と時間が経ってたからまさか未だにあの棚中仁が片想いしてるなんて思ってもいなかったけど」 「片想い、なのかな」 「どう考えてもそうでしょ。しかも相手はかなりの鈍感か、もしくは、」 「もしくは?」  言葉を切った志葉はこちらをじっと見るだけで、先を促すように背を軽く押す。 「もしくは、出会ってすらいない、か」  後頭部に置かれた手のひらがゆっくりと上下する。志葉の腹部に顎先をつけて「どう言う意味?」と聞けば名探偵の如し友人は僕の後頭部を撫でていた手の置き場所をこちらの頬に変えた。 「はじまってない、ってことだよ」 「ありえる?」 「どうだろう。でも毎日更新されるのがあれってことは、可能性はある。一万粒が超のつく奥手ならの話だけど」 「彼の好意に気がつかない人間なんている?」 「いるでしょ。そもそも棚中仁に興味のない人間だっているんだし」 「どこにそんな人間がいるのさ」 「例の塾の友達は一切興味がないって言ってたよ。どこがいいのかわからないって。僕もかっこいいなとは思うけどそれ以上の感情は湧かない。ましてや盲目的な一目惚れなんて、正直理解出来ない」 「……仕方ないだろ。好きになっちゃったんだから」 「うん、その感情を否定はしないけどね」  ムニムニと志葉の両手が僕の頬を撫でては挟むを繰り返している中で、小さく出たため息に志葉の眉根が寄った。 「憂いが多いね」  頭がいいくせに感情の使い方が下手なんだよ、生徒会長様は。  そういう志葉の手が止まった。優しい微笑みにギュッとその体を抱き寄せると再び後頭部に回された手がゆっくりと上下した。 「……志葉」 「なーに」 「ここだけの話、してもいい?」 「どうぞ」 「何を言っても驚かない?」 「うん」 「軽蔑もしない?」 「軽蔑は他でしてる」 「……彼の好きな人って誰だろう」  志葉の腰に抱きついたまま、ギュッと奥歯を噛む。自分が死ぬほど嫌いなセリフがずっと喉奥に挟まっていた。  後頭部を撫でていた志葉の手が止まった。  部屋の中にエアコンの音だけが響く。  うん、と志葉が頷いた。 「至極真っ当な疑問だと、僕は思うけどね」  小さな子を宥めるような柔らかさで、志葉が僕の髪をすいている。大丈夫だよ、小さな慰めにそっと友人の顔を見る。 「当たり前の感情だよ。好きな人の想い人を知りたいって。それを本人にしつこく聞くかどうかは、まぁその人によるけど」  友人同士でする恋バナとしては許されるんじゃない? 悪戯げに片眉を上げる志葉を見てほんの少し心が軽くなる。ありがとう、言って志葉の腰から腕を離すと、志葉も一歩後に下がった。  わずかなつかえが取れた気がした。 「とりあえず」  志葉が机の上に目をやった。その視線の先を追うと通知音を切ったスマホの画面にメッセージが届いているのがわかった。 「この間は関係維持の努力をしろって言ったけど、自分の感情がはっきりとしてるなら中途半端に続けるのはお互いのためにならないよ」  諦めたくない程度には棚中仁のことが好きでしょ? 志葉が困ったように笑う。それに頷く。 「ケジメはつけないとね」  志葉が言った。  メッセージは今付き合っている彼女からで『一緒に帰らない?』という短いものだった。普段なら、本当に気がつかないか気がつかないふりでやり過ごすそれに『わかった』と返信する。すぐに既読がつき、下駄箱で待ってるという文と共に小さなハートが送られてきた。それ には何も返さずに志葉を見る。  行って来な、志葉がシッシと追い払うような仕草を見せた。 「一発くらい殴られておいで」  部屋のドアを閉める直前に聞こえたそれにただ頷いた。 「今日だけ、一緒に帰っちゃだめかな? そしたらもう諦めるから」  嬉しそうにこちら向けて笑った彼女に開口一番ごめんと頭を下げて、殴ってくれて構わないと言えば、俯いた彼女は小さく頭を横に振ってから、消え入るような声でそう言った。好きな人は誰なのかとしつこいくらいに聞かれるそれに辟易して諦める形で付き合い始め、付き合う最中もかなり強引な彼女に苛立ちだけが募っていたのに。最後のささやかな願いに急に罪悪感が押し寄せる。  帰るだけなら、言えば彼女はまた嬉しそうに笑った。  何を喋るわけでもなく最寄駅に着いて、彼女の電車のホームはどちらかを訪ねたら悲しそうに「同じ電車だよ」と笑われて、これが初めての彼女との帰宅だと気がつく。それにまた、申し訳なく思う。  ちょうど空いた隅の座席に肩を並べて座り「降りる駅はどこ?」と静かな車内に合わせ声のトーンを落とし彼女を見ると、彼女はまっすぐと窓の外を見たまま「三つ目」とだけ言った。その声が震えていた。  ひとつ、ふたつ、と電車が駅に止まる。  みっつめの駅は彼が乗り合わせてくる駅だった。  現在進行形で隣の彼女を傷つけていることはわかっているのに、場違いにも心臓が鼓動した。朝は必ずと言っていいほど同じ電車に乗るのに対して帰りの電車で彼を見かけることは当たり前に稀で、なのに毎回、その駅に近づくと勝手に緊張している自分がいる。ゆっくりと電車がスピードを落とす。それに合わせて彼女が立ち上がった。ありがとう、こちらを見ずにそう言って背を向ける彼女に声をかけようとして、扉に視線をやって息を止める。ゼリーに覆われた心臓がコポリと息をした。  彼女が降りようとしているドアの前に彼が立っていた。  最低だ、と自分でも思う。  散々に傷つけてしまった彼女を見送るよりも、電車に乗らんとしている彼に目がいった。  最低だと、わかっているのに。  大きな歩幅でこちらに近づいてくる彼が、ちょうど空いた僕の隣の席にゆっくりと腰掛けた。ドクンとありえないほどに心臓が高鳴る。ギュッと自分の手を握る。一瞬で湧き出た汗でわかりやすく濡れていた。  今、突然に、息の吸い方を忘れてしまったみたいだ。  右肩が異様に熱いのは、わずかに彼に触れているからだろう。  彼の最寄り駅まであと10個。この状態が続けば死んでしまうかもしれない。真剣にそんなことを考えながら一層の事次の駅で降りてしまうかと背筋を伸ばす。伸ばしたまま触れている肩を離すように最小限の動きで座席の前側に腰を移動する。抱えた荷物をギュッと抱いて、降車の決心を固めれば、息の吸い方を思いだせるような気がした。  一瞬だけ彼を盗み見る。  ガタンゴトンと独特のリズムを刻み進む電車に、彼は目を閉じていた。深く二度息を吸い込んだ気配のあとに彼の頭が左側の手すりについた。どうやら眠りの姿勢をとったらしい。その無防備さに、内心冷や汗が出た。  降りてしまおう、と思った駅をひとつ過ぎた。苦しいくらいに跳ねる鼓動と、妙な緊張で鞄を抱く腕に力が入る。次こそは降りよう。次こそは。思う内にまた駅に着きドアが閉まる。固まった体が思うように動かない。  立ってしまえばいい。  新たな決意に両脚に力をいれた瞬間だった。  左側にあったはずの彼の頭が僕の肩の後ろ側に触れて、重みがのったのは。  膜の中でギッと心臓が鳴いた。  あり得ない現象に悲鳴を上げそうなのを奥歯を噛んでグッと堪える。  冷房が効きすぎた車内で、吹き出した汗が背を伝った。  動けないまま、二つの駅が過ぎた。  浅い息を繰り返し、もう吸えばいいのか吐けばいいのかわからない状態で、はたと気がついたのは、背もたれに寄りかかっていない自分に寄りかかる彼の体勢だった。  すごく、寝づらそうだ。  そんなバカみたいな気遣いに、ほんの少しだけ肩を下げゆっくりと体勢を後に傾ける。一瞬、起きてしまうかもしれないと憂慮したそれは杞憂に終わった。 いい位置をみつけたらしい彼の頭が僕の肩をスリスリと撫でた。  ひっ! と出かかった声をやっとの思いで飲み込む。  あまりにもあまりな状況に、もう、パニックだった。  不透明なゼリーの中で、心臓どころか自分自身も藻搔く。脳裏に志葉の顔が浮かんで「チャンスじゃない?」と片眉を上げた。  チャンス、じゃない。  心臓が言うことを聞かない。  息の仕方すら忘れた。  尋常じゃない汗が背を流れている。  微かに、清涼な石けんの香りがする。  それは彼のものだと脳が認識して、焼き切れそうだった。  多分、死ぬ。  駅を過ぎる度に吐き気すら覚えて、一度、彼に気がつかれないように軽くえずいた。止せば良いのに彼を盗み見て、高い鼻梁と長い睫にまたえずきそうになったところで彼がいつも降りる駅に着くアナウンスが聞こえてきた。  なのに。  彼は一向に起きる素振りを見せなかった。  比較的区間の短い駅で、電車が減速して停車する直前だった。  思い切って彼の肩を揺する。  触れた手が、焼けそうだった。 「あの、」  僕の肩の上で、彼がゆっくりと目を開き、すっきりとした一重が、まっすぐと僕を見た。至近距離でみた彼の虹彩は写真で見るよりもグレーがかっていて、迂闊にも引き込まれそうになる。 「お、りるえき、ですよ」  よく考えればかなり気持ちの悪い発言だったと思う。知り合ってすらいない人間が自分の降車駅を知っているなんて。言った後でしまったと思っても後の祭りで、焦りから微かに震えが走った。  彼はただじっとこちらを見て、一度、瞬いた。印象的な美しい涙袋にまつげが影を落とした。  そうしてる間に、ドアは役目をまっとうするかのように開いて、閉じた。  電車が加速をはじめる。 「どこで降りる?」  30㎝の距離でかすれた低音が耳を刺激した。 「ぼく、」  は、4つめ、です。追いつかない脳は仕事を放棄したらしい。たどたどしくやっと答えれば彼は、僕の肩に今度は頬を乗せて「そこで起こして」と再び目を閉じてしまった。  首筋を彼の髪がなでる。  距離が近くなった分、彼の体温に近くなり、直に触れている感覚に目眩まで起きる。出口のない心臓が狂喜乱舞している。脳が、放棄したはずの仕事をこなそうと無意識に深く息を吸う。 石けんの香りにまじり、日向のにおいがした。 まるで作り込まれた彫刻のような彼から、あたりまえに香る彼自身の体臭を感じて、血流が体を駆け巡った。 危険だ。と思った。 彼の、あまりの無防備さに。 頭の中の志葉が呆れた顔をして「君が一番危険だよ」と顔を歪めた気がした。 「んーーーーーーっ!」  太陽の名残を残した夕日を前に、改札を抜けた彼が大きく伸びをした。同じくらいの背丈の人間に寄りかかるのに身を縮めていたのだろう。高く向けた腕を存分に伸ばしている。  無意識に彼に集中していると、白いシャツが肩甲骨をうっすらと透かしていて、慌てて目を反らす。  後の人間がそんな不埒なやつだと思いもしなのだろう、彼はキョロキョロと周りを見渡してから、こちらに振り向いた。  薄紅がさす空に、まるで天使の羽のような雲が浮かぶ。  沈むことのない太陽が目の前の人を照らした。 「SNS、何かやってる?」  突然の台詞に逸らしていた目を向ける。ただまっすぐとこちらを見る人が自分のスマホを振った。 「今日のお礼したいから、連絡先おしえて」 「え、」  答えに詰まった、というよりも何を言われているのか理解が出来なかった。彼はそれを拒否と受け取ったのか、「なに? やだ?」とこちらを覗き込む。 「じゃぁ、俺のアカウント教えるから連絡くれる? それもだめ?」  言葉の度に彼がこちらに近づいて、だめ? と問われたときには拳三つ分をあけただけの距離に近づいていた。彼の首筋がしっとり汗ばんでいるのすら見えてしまう距離だった。 「あ、んまり使ってないアカウントなら」  あります、尻すぼんだ声に彼がにっこりと笑う。薄い唇がきれいに弧を描き「教えてくれる?」と弾んだ声を出した。全く理解の追いつかない現状を把握する前に、まるで誰かに操られているかのようにスマホを取り出し、可動させていないアカウントを彼に伝える。彼はそれを嬉しそうに眺めたあとで器用に画面をタップして「俺のもフォローして」と上目遣いにこちらを伺ってきた。「とっくにしてる」とは言えなかった。瞬発的彼に教えたアカウントは彼をフォローしている鍵アカウントとは別の物で、装いきれない平静をやっと引きずり出して「はい」とだけ答える。  そう長い時間ではなかった。 空も雲も装いを変えるには短すぎる時間、彼と向かいあいお互いにお互いを知り合いの内側に入れる作業をする。 風が吹く度に、彼の体温に撫でられているような錯覚を起こし、沸騰しそうだった。  ニコニコと微笑む彼を見る。  至近距離で見るきめ細やかな肌が、名護る陽光に輝いて見えた。 「なまえ、」  彼がそう口にした瞬間、うしろで「おいっ!」と怒鳴る声がきこえ驚いてそちらを見る。彼は「案外はやかったな」と呟いて、「連絡する」とだけ言った次の瞬間にはその声の方に向かい歩き出していた。  バイクに跨がる男が彼に向ってフルフェイスのメットを投げた。放物線にそったそれを彼は上手くキャッチして、その流れのまま被り慣れた仕草で顔を隠す。 「またな!」 指先だけで手を振った彼がバイクに跨がる。 はい、答えるより前にハンドルを握った男が声を張り上げた。 「月島 新(つきしま あらた)! 気をつけろよ!」  言って走り去ったバイクの後で、彼が、今度は大きく腕を振った。  呆気にとられ、その場に立ち尽くす。  何故、僕の名前を。そんな疑問すら浮かばなかった。

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