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第3話

3、  昨日、彼が残した体温が残っている。  2年間ただ遠くから盗み見ていた人が目の前に立ち、微笑んでいた。それどころか会話までして、極めつけは寝る前に来た一通のDMだ。『名前、伝え忘れてた』からはじまった彼のメッセージには名前と年齢が書かれていた。すでに知っている情報は、けれど彼から直接聞いた意味のある言葉として心臓を締め付けた。妙な浮遊間にゼリー膜が異常なほど揺れ、眠気と覚醒の狭間で夜を過ごし結局『飯、行こう』の誘いには返信出来ずにいるのが今だ。  嘘みたいな現実にせり上がってくる吐き気をやり過ごし、何度見ても『飯、行こう』は『飯、行こう』で『飯、行こう』以外の何物でもない事実に若干の目眩すら覚えている。その『飯、行こう』に対する最適解はいったいどこにあるんだと、探せど、探せど、悲しいかな自分の中には見つかりそうにない。はい、行きましょう。と返していいものか、そもそもその『飯、行こう』が社交辞令だった場合こちらが、はい、行きましょう。などと打ち返してしまったら彼を憂鬱にしてしまうのではないか。こいつ、本気にしてる。面倒くさい。なんて思われたら正直泣く。かといって社交辞令を加味して「どうかお気遣いなく」などと一線を引いて返信してしまった際に、そこに一切の社交辞令などなかった場合の彼に与える心象は最悪になるかもしれない。なんだか冷たい奴だな。なんて思われても泣く。いや、いや、待て。社交辞令が一切含まれていないなんて、ない。たった数駅肩を貸しただけの人間と、なんの接点もないただの人間と、いきなりふたりで出かけようとする人がどこにいるんだ。そんなのどこのハッピー野郎だ。いや、違う。ちがう。まて、彼はハッピーでいい。アンハッピーより数億倍いい。彼がハッピーならなんでもいい。そうだ、そう。彼はハッピーでいい。けれど、彼がどんなにハッピーでもいきなりふたりなんてありえるだろうか。限りなく低い可能性だと思わないか。ならば、それならば『飯、行こう』を前提とした枕詞として“友達も誘って”がつくはずだ。  そうだ。  なんだ、そうか。  そうだったんだ。 「だれかを誘って一緒に飯行こう。か」  言葉にしてパッと目の前が拓いた気がした。  友人を誘って、ということなら彼のメッセージに納得がいく。気楽にバイバイ出来る状況下で気楽にお茶でもして、多くて1時間位を共にするということなら、納得だ。  納得、は出来る。  けれど、そこにどんなメリットがあるというのだろう。メリットというのは、彼にとってのだ。僕自身にはメリットしかない。メリットというかもう神が与えた至高のご褒美以外の何物でもない。いや、ご褒美ってなんだ。彼は物じゃない。あまりにも失礼な思考じゃないのか、今のは。もちろん彼がご褒美、という意味じゃない。彼との時間が、ということだけどそれにしても失礼だ。うん。ご褒美はやめよう。それに神の存在だって信じていない。こんな時ばっかりあまりにも都合が良すぎる。ならば。なら、彼が僕に与えた最上位の恩恵とでも言うべきか。いや、まて。彼は別に与えたなんて思ってもいないだろう。無意識に僕に手を差し伸べたに過ぎない。言うならば気まぐれだ。気まぐれ……、まて、彼のそれを気まぐれなんて決めつけてそれこそ失礼極まりないじゃないか。そうだ、失礼だ。彼は、例えばすごく、ものすごく、義理堅い人なのかもしれない。受けた恩はどんなに小さいことだろうと倍にして返すような。そんな。 だとするなら、あれに対しての恩の返し方が大きすぎる。 「僕はミジンコでクジラを釣ったのか……」 「すごく忙しそうなところ申し訳ないんだけど、そろそろいいかな?」  思考の海に溺れかけていたところ突然に掛けられた声に、想定外にビクリと肩が揺れた。  顔をあげると前方に腕を組んだ志葉が立っていた。その顔には僅かに呆れが浮かんでいた。いつからいたのか、そんな動揺を隠して頷けばため息と共に志葉が窓を指さした。つられそちらに顔をやる。 「教務主任が動く前にどうにかした方がいいと思って」  大股に窓に近づいた志葉が勢いよくそこを開ける。部活動に勤しむ生徒の声をまるで掻き消すような歓声に近い声が響いていた。 「なに? 騒がしいね」  立ち上がり、窓に身を寄せ覗き込む。  正門に人だかりが見えた。 「主にダンス部と半分がミーハーに半分が野次馬。中心は」  志葉がひとりの人を指さした。  途端、息が止まる。 「棚中仁が月島新をご指名だよ」  止まった息を吐けばいいのか吸えばいいのか。志葉の言葉に掠れた声で「なんで……」と返すのが精一杯だった。 「知らない。ここに至る経緯があったはずだけどそれは後で聞くから、とりあえず今は事態収束が先決じゃない? 残ってる役員に人を散らすようにお願いはしたけど君が出ないと無理だろうね」  早く行って、棚中仁を速やかに回収してくれない?   さっさとしろ、とばかりにシッシと手を払う志葉が動かない僕の体に鞄を押しつける。なんでを繰り返す脳みそは役目を放棄しているし、足は床に張り付いたまま。怪訝に眉をしかめた志葉の「これ以上騒ぎになれば一万粒の君に傷がつくかも」という言葉にやっと地を蹴った。  なぜ、どうして、がグルグルと巡る。その後をクエスチョンマークが追い立てている状況の中で、焦ってもつれる両脚を何とか立て直し、向った正門の人だかりの中心に、間違いなく彼はいた。  彼のいる場所だけが陽光を集め、屈折したそれがキラキラと輝きを放つ。あまりのまぶしさに忘れた息が戻るほどだった。  走るために動かしていた足に意識を集中させて、走行をゆっくりとした歩みに変える。どんな表情を作るべきか悩み、生徒会長のお面をつけた。  人の集まる中にいた何人かの役員と目が合った。彼らに頷いて見せると、少しの安堵が漂う。 「ごめんね、通してくれるかな」  その言葉に人の波が少しだけ引いた。  ゆっくりと彼に近づく。  彼が僕だけを見て、微笑んだ。細められた両目に涙袋が更にぷっくりと影を作って、上がった口角に光りが差す。心底嬉しそうなその表情にゼリーがタプリと音立てて波打つ。間を置かず世界が彼だけになった。  一歩彼に近づく度に、空気が薄くなる。  心臓が膜の中でこれでもかと藻搔く。  ぎゅっと拳を作り、忘れた息を取り戻すように一度深く息を吸うと周りの音が聞こえてきた。ざわめきに若干我を取り戻して、彼を隠すように立ち、群がる人間に目をやった。 「みんな、早くこの場から離れた方がいいよ。もうすぐ“鬼 ”が来るから」  人差し指を唇に当てて、悪戯顔にそういえばざわめきは一瞬の静寂の後どよめきに変わり、名残惜しそうな声を残して人混みが消えていく。背中に彼の気配だけが熱く残った。 「鬼が、出るのか?」  笑みを含んだ声に、握った拳を更に強く握る。食い込んだ爪に痛みは感じなかった。 「きょ、うむ、主任のことを、みんなそう呼ぶんです」  ふっと彼が息を吐いた。うちの学校にもいる。と愉快そうに言う声に、ゼリーがまた音を立てて揺れる。 「一旦、ここを離れていいですか?」  彼と視線が合った。  昨日見たグレーに、今日は少しのセピアが掛かっている。飲み込まれそうな程の目の内に煌めきが一層と増す。  彼の頭だけが上下に揺れた。それを確認して、彼の半歩前を歩く。肩を並べて歩くなんて大層なことをやってのける自信がなかったからだ。  左半身だけが焼かれているように熱かった。斜め後ろから光りがチラチラと舞う。理解しがたい状況に、言葉はただのひとつも出なかった。  彼も、特に何かを言うわけでもなかった。  一定距離が保たれたまま5分程を歩いたとき、ふいに「ごめん」と聞こえ、声の方を振り向いた。 「ごめん」  彼の瞳が一度揺れた。 「え……?」 「迷惑だったよな」  彼の虹彩に陰りが見えて、妙に生ぬるい風が吹く。言われた言葉の意味を瞬時に判断できずおかしな間が開いた。 「出直すわ」  口角だけを綺麗に上げた彼が大股に一歩こちらに近づいて、お互いの肩スレスレに去って行く。彼の背を目で追う。焦りで瞬間にゼリーが凍った。  咄嗟、だった。  咄嗟に彼の後ろ手を掴んだ。 「迷惑なんてありえない!」  想定よりも大きな声が出て、道行く人が訝しげにこちらを見ているのがわかったけれど、そんなことを気にしている余裕なんてなかった。自分の態度が彼に何かしらの誤解を与えたらしい。何としてでもその誤解を早急に解く必要があった。  僕の勢いに振り返った彼も少し驚いたようで、形の良い両眉が上がっていた。 「まさか、来てもらえるなんて思ってもいなかったので驚いて……変な態度だったなら謝ります。迷惑だなんて思うわけない。その、とても、」  嬉しい、です。勢いのまま告げた本音に自分の顔が赤くなったのがわかった。上がった体温が頬に集中して燃えるように熱かった。  下げた視線が、彼の手首を掴んでいる自分の手を認識して更なる熱を生む。その熱が凍ったゼリーを急速に溶かし、ついでに正常な思考を連れ戻したようで、直下猛烈な緊張が自分を襲った。  何て恐れ多いことを。  手を離さないと死ぬ。  今、この瞬間に。  駆け巡った圧迫に自己防衛が働いて握った手を緩めようとした。  そのタイミングで彼の手がスルリとこちらの手の平を撫で、そのまま彼の指と自分の指が絡んだ。  ギュッと握られた場所からあり得ないほどの熱が体中を駆け巡り、心臓が踊りはねゼリーの膜が荒波を立てる。  息が止まった。  死ぬ。  今。  僕は。 「創吾が縁は作りに行くもんだって言うから」  手を握ったまま柔くこちらの指の背を撫でて彼が言う。言葉はただ通り過ぎていった。手を振り解こうにも全ての動きを止めた体は一切の言うことを聞かない。 「迷惑じゃないなら、よかった」  伏せたままでいた視線に、彼の視線が交じった。うっすらと笑んだ彼がこちらをのぞきこむようにした姿勢でまっすぐと僕をみている。  意図せず間近で直視してしまった彼の瞳に、止まっていた息が戻ってきて若干咽せた。 「大丈夫?」  もう片方の彼の手が背を撫でる。  戻った息が、また去った。  あっちもこっちも彼に触れられている。  体温が急上昇して、事実を前に急下降して、心臓は止まったり激しく脈打ったりを繰り返す。  外らせない目に彼が映る。  涙袋に、長いまつ毛が影を落とした。  額にかかる前髪が、風に揺れる。  握られたままの手のひらが熱い。  節の太い指が背を撫でる。  高く通った鼻筋にわずかな汗が光る。   あまりの至近距離に彼の香りが、あった。

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