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第2話 ハクトの欲しいもの
「ん、んっ」
耳元を風がシュルシュルと騒ぎ立てている。まだかなりのスピードで落ち続けているのに、俺はなぜか、見知らぬ男から息もつけないほどのキスをされていた。
優しいのに深く入り込まれるような熱い塊が、自分の体の中から優しく強張りを解いていく。気がつくと抱き竦められていて、落ちていたはずの体は、反対に空高く舞い上がっていた。
「ぷはっ! な、何、誰、あんた!」
俺は今、確かに死のうとしていた。だから、目の前の男が誰だろうが、どこから来たやつであろうが、本来ならどうでもいいと思っているはずだった。
ただ、どうにも気になって仕方が無いのは、この男が俺を抱えて飛んでいたことだった。それだけで、人間ではないのだろうということはわかる。それにしたって、天使や悪魔に会うには早すぎるだろう。
「君、薫次 だろ? 俺は、ハクトだよ。結構下っぱの神なんだけど、仕事は主に自殺の妨害なんだよね。だから、君は死ねていません。残念でしたー」
ハクトと名乗ったその男は、俺を白いベンチに座らせながらそういった。そして、恭しく挨拶をすると、俺の隣に座る。
「自殺の妨害? 迷惑な話だな。だったら死にたくなるような人生を用意するなよ」
さっき煽った酒がまだ残っているからか、世界がグラグラと揺れていた。その割に驚くことがありすぎて、また心臓が痛み始めていた。さっさと楽になりたかったのに、こんな無駄な苦しみを味わわせるなんて、まるで悪魔のようだとすら思ってしまう。
「あ、もしかして今も体が辛いのかな? さっき随分薄めたと思ったんだけど」
「薄めるって、何をだよ」
あの強い酒をうまく代謝できていなかったのか、だんだんと胃がムカムカしてきた。この気持ち悪さから逃れられるためだけにでも、死んでいいような気さえする。悪心に耐えきれずに涙が溢れると、ハクトがそれを指で拭った。
「キスしたでしょ? 体の辛いところは、それでなくなるはずなんだけどな」
そう言いながら、指についた俺の涙をペロリと舐めた。
「な、何してんだよ。なんか気持ち悪ぃ……」
ハクトは舐めた涙の味を確かめるように、むぐむぐと口を動かした。そして、「ふーん」と呟くと、俺の方へと向き直った。
「さて、君が死のうとしていた理由なんだけど、気の強さと体の弱さが釣り合ってなくて、生きづらかったんだよね?」
ハクトと名乗ったその男は、色白の肌にグレーの瞳が大きく輝いている。その瞳が全く見えなくなるほどに、相好を崩していた。
人が死ぬほど悩んで、実際に死のうとアクションを起こしているのを知りながら、この笑顔を振り撒く神経はどんなものなんだろうか。
「そうだけど……んな楽しそうに聞いてんじゃねーよ。そんなおもしれー話じゃねーし」
ベンチのひんやりした感覚は、俺がまだ生きていることを教えてくれた。ふと気がつくと、ここは高台の開けた場所で、ベンチはその中でポツンと寂しく在った。
まだ暗くて、周りがはっきりと見えていないところからして、ここは俺が住んでいた場所よりも西寄りなのだろう。目に見える景色もまるで違うし、一瞬の移動だと思っていたけれど、かなり遠くまで連れてこられているようだった。
——まあ、別にどこでもいいんだけど。どうせ、もう長くは生きられないし。
自殺などしなくても、もう残りの人生は短い。その時間を楽しく生きていられるなら、わざわざ死ぬ必要も無かっただろう。こんな俺でも、頑張って最後まで生きようとしていた頃があった。
ただ、運命はそれすら許してくれなかった。前を向いて生きようとするたびに、確実に死が迫るスピードが早まっていったのだ。そのことで、結果的に心が折れてしまった。
「気が強いならその分、有能で強い体が欲しかった。逆に体が弱いなら、その分気も弱けりゃよかったんだよ。誰かにすがりつけるような可愛げがあれば、まだ生きていたかったかもしれない。俺は、酷く出来の悪いイレモノに当たったんだと思って諦めた。いつやってくるのかわからない終わりに怯えて生きていくくらいなら、せめて楽しく終わらせたかったんだ。それは、そんなにいけないことなのか?」
初めて会ったやつに、こんなことを問いかけても仕方がない。それでも、ハクトの態度を見ていると、どうしてだかわからないけれど、少し困らせてやりたくなってしまった。
「ふーん。じゃあさ、魂と体のバランスが取れてないって言うなら、僕が新しいのあげよっか? そうすれば、問題なく生きていけるんだよね? 少なくとも、薫次 はそう思ってるんでしょ?」
ハクトは、いかにも簡単なことであるかのように、さらりとそう言ってのけた。その無神経な言葉は、俺の心の中に出来た瘡蓋をザリザリと削っていく。
「だから、何笑ってんだよ。それが出来るなら苦労してねーよ。お前が俺のその願いを叶えてくれるのか?」
俺はハクトの白い着物の襟を掴んで、その髪が乱れて顔を覆い隠すほどに揺さぶった。どうにもならないことを面白がって、蔑んで……もう、そういう扱いにも疲れ果てていた。
それも捨てたくて死のうとしていたんだ。それなのに、またそれを繰り返して突きつけようとしているハクトに、無性に腹が立った。
でも、ハクトは何も問題はないという顔をして、変わらずにニコニコと俺の方を見ていた。
「うん。叶えられるよ。どーしても、どおおおおしても、手に入れたいんだよね?」
ハクトは、俺の胸にくるくると円を描くように指を滑らせた。それをしているハクトの顔には、一切の揶揄いが見えない。おそらくこの提案は、本気でなされている。
「……本当にくれんのか?」
念を押すように、俺はハクトのグレーの瞳を覗き込んだ。
「もちろんだよ。だから……」
ハクトは滑らせていた指を、トンっと胸の中心に当てた。すると、体中の骨に甘い痺れのようなものが駆け抜けていった。その感覚に驚いて気を抜いていると、ハクトがふわりと俺の上に覆い被さってきた。
「覚悟してね」
ブルーグレーの空を背景に、真っ白な美丈夫が、俺を見下ろして笑みを浮かべている。いつの間にか現れた白い肌が、俺の肌に重なっていく。
「あ、あれっ!? 俺の服……」
「そんなもの、さっき吹き飛ばしましたー」
「は!? ふ、ふき……えっ!?」
さっきまで胸の周りを這っていた指が、スルスルと肌を滑って腰を撫でていく。
「んっ、な、何して……」
驚きすぎて言葉が出ない俺を尻目に、この体をベンチに縫い留めた美丈夫は、その美しい顔を俺の鼻先まで近づけて来た。そして、またさっき落ちていた時と同じように、魂ごと抜き取られそうな深くて甘いキスをしてくる。
「んん、っ!」
それは、身体の奥の方から、じわじわと欲と熱を引き摺り出していく。その刺激に翻弄されて、俺は驚くべきスピードですっかり蕩かされてしまった。
「はい、準備終わりー。じゃあ、今から薫次 を抱かせていただきまーす」
「えっ!?」
ハクトはそう言って、俺の足を持ち上げた。何をどうしたのか、いつの間にか受け入れ態勢の整っていた俺の後孔は、なんの抵抗もなく喜んでハクトを迎え入れてしまった。
「あっ! あ、ン。うそだ、ろ……」
「体、作り替えるから。何も考えないで、ただ受け取ってねー」
楽しそうに笑いながら、ハクトが奥まで突き進んできた。
ついさっきまで命を捨てようとしていたはずの俺は、出会って数分の謎の多い男に、公園のベンチの上で襲われる羽目になっていた。
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