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第23話 八階外階段の踊り場で3

「あー、もうだめだ。いってえ。ビールケースは素手で叩くもんじゃねえな。じんじんするわ」  自分勝手に叩き始めたくせに、手が痛いと言って嘆く俺を見て、孝哉は 「勝手に始めたくせに、何言ってんだか」  と言って、ケラケラと笑った。真っ白な頬は吐き出されたエネルギーと共に赤く染まり、滲み出る感情には幸せの色しか無い。胸を詰まらせながらその姿を見つめていると、 「隼人さん、幸せそうな顔してる」  と孝哉に言われてしまった。どうやら同じ気持ちを抱えているらしい。 「来いよ、孝哉」  俺は無謀にも固いケースを叩き続けて腫れた手を、孝哉の方へと伸ばした。今になって自覚する痛みは、真っ直ぐに手を差し出せないほどに震えている。演っている間は無心になっていて、全くわからなかったそれは、数日ギターを弾くのは無理だろうなと思わせるほどに強かった。  孝哉はその派手な髪を靡かせて、俺の方へと走り寄ってきた。そして、俺の手を取るとそっと両手で包み込んだ。 「ありがとう。闇堕ちしそうだったのに、隼人さんがいてくれたから大丈夫だった。ごめんね、こんなになるまで叩かせて」  そう言って俺の手を摩ってくれる。でも、俺の手を労っている孝哉自身の手にも、ドアを叩いた時に出来た傷がある。もう血は乾いてしまっているけれど、ドアにも同じ事が起きているだろうということを思い出した。 「仁木さんに連絡しておかないとな。ドアにお前の血がついたままだろうから」 「あ、いいよ。俺がする。俺が悪いんだし」  そう言って孝哉がスマホを取り出した時だった。あの大きな着信音が、耳をつんざくような大きな音を立てて鳴り響いた。その音は、まるで歓迎されない主張を押し付けるかのように、澄んだ空気を汚していく。  ようやく笑顔を取り戻したはずの孝哉は、そのディスプレイに浮かぶ文字を眺めると、途端に血の気を失っていった。  もうすでに何度かその姿を見過ごしていた俺は、この状況でも何も言わない孝哉に痺れを切らしてしまった。たまらずにその表示を横から覗き見た。そして、そこにあった名前と孝哉の行動の整合性の無さに、思わず首を傾げてしまった。 「……条野? 仁木さんじゃなくてなんで直接お前にかけてくるんだ?」 「まあ、ちょっと、ね」  そう言って、すっと視線を外す。孝哉が俺に隠していることに条野が関わっているのだろうかと訝しんでいると、どうにかしてこの話題を逸らしたいのか、孝哉は突然錆びた柵の方へ行ってしまった。 「ねえ、それよりさ、このくらいの時期の夜って、ちょっとお酒飲んで歌ったりするとすごく気持ちよくない? 空が抜けるようにって表現あるじゃない? あんな感じだよね、うまく声が抜ける時って。スパーンって、頭から音が飛び出すみたいな感じ。ほんの少しだけ酔ってる状態でそうなれると、もうたまんないくらい気持ちいいよね。ね、隼人さんも歌うからわかるでしょ?」  俺が知りたいと思っていることは、孝哉にとってはどうしても話したく無いことなのだろう。それなら、今は無理に聞かない方がいいだろう。またそうやって物分かりのいいふりをして、その雑談に乗ることにした。 「あー、うん、そうだな。この季節は確かに音抜けがいい。その表現もわかる。気持ちいいよな」 「ね、俺あの感じ大好きなんだ。抜ける音が出せる時ってさ、アレに似てるんだよ。その、なんて言ったらいいのかな……」  柵から外の方へと顔を向け、孝哉は下で繰り広げられている客引きの奮闘を見ていた。そして、柵に寄りかかると頭を抱え、言いたいことをなんと伝えたらいいものか考えあぐねていた。 「ふーん、で、お前はそれが大好きなわけね。スコーンて音が抜けていくのがね? 金色の泡が抜けるんだったな」  俺はまたシガレットケースからタバコを取り出し、その重さの割に軽い金属音のするライターを鳴らして火をつけた。煙を吸い込み肺を満たして吐き出すと、突然孝哉がそのタバコを奪い取ってしまった。 「……ダメだよ。あんまりタバコ吸うと、うまく鳴けなくなるでしょ? 隼人さんはよく体が鳴ってないと、いいプレイができないんだから」  そう言って顔を赤らめると、何を思ったのか火のついたタバコをぎゅっと握りしめてしまった。小さくとも千度近い熱の塊が、孝哉の手のひらを焼いていく。生きている動物の肉の焼ける匂いは、想像以上に精神を抉る。ぞくりと背中が冷え込んで、身体中の皮膚が粟立った。 「バカ! 何やってんだよ、お前! ちょっ……ほら、これ握っとけ! もう温いけど無いよりはマシだろ」  俺は孝哉に飲んでいた水のペットボトルを渡して、少しでも火傷の影響が軽くて済むようにと慌てた。叫び声を上げてもおかしくないほどの痛みがあるだろうに、孝哉は何も言わずにただ顔を顰めている。まるでその痛みを感じることで安心感を得ているかのような、異様な感情の現れた顔をしていた。 「お前、ここでちょっと待ってろよ、応急処置するもの持ってくるから。少しでも冷やしておくんだぞ!」  俺はそう言って孝哉の髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜた。そして、電話するよりも早いだろうとレコスタへと向かおうとした。すると、ぐんっと後ろへ引き戻す力にそれを止められてしまった。孝哉が握力の弱い左手で、必死に俺のシャツを掴んでいた。 「何……」  急に動きを止められて驚いた俺を、孝哉は必死に引き留めていた。その目には、また涙が湛えられていて、隣のビルのネオンの光が反射して輝いている。暗闇の中に浮かぶその姿は白く発光しているように見え、そのままふっと消えてなくなりそうなほどに儚く見えた。  俺はその姿に思わず見惚れてしまう。孝哉はそんな俺を見つめたまま、俺に激しく口付けてきた。 「んっ」  まるで喰らい尽くされそうなほどの、激しいキスだった。ボロボロに泣き濡れた顔で繰り返す息もつけないほどのものに、俺は翻弄されるしか無かった。角度を何度もかえ、酸欠で倒れそうになるほどに求められた。 「おいっ……」  左手が不自由な孝哉が右手に大怪我をしてしまったら、二人のスタイルで弾き語りをすることすら難しくなってしまう。そうなると、こいつの生きがいはどうなるのかがわからない。どうにか早く振り切って応急処置をして病院へ行かなければならない、そう考えるだけで精一杯になっていた。それでも、なかなか振り切ることは難しい。 「孝哉!」  しかしそれも、その手が俺の頬を包んだ時に、俺はすぐに我に帰った。やけどの傷から血が溢れ、肌にぬるりとしたなんとも言えない感触が張り付いたのだ。  すぐに孝哉を引き剥がすと、一度だけ軽く唇を合わせ、そのまま慌ててガラス扉の方へと走った。 「や、火傷は早く対処しないと危険なんだぞ! すぐ戻ってくるから。出来るだけ冷やしておけよ!」  そう言いながら走り抜けていくガラスドアには、泣き崩れる孝哉の姿が映っていた。

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