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第22話 八階外階段の踊り場で2
孝哉の頭の中を惑わしている余計な思考が外れ、俺へ、俺だけに注がれ始めた視線に、ようやく安堵する。もう一度軽く唇に触れると、ロリポップの持ち手を元に戻した。
「それはそうだけど……」
孝哉は戻された棒を指先で突き、飴を口の中で転がしながら俺を睨みつけた。孝哉としては、考え事をしていたのを邪魔されたように感じるだろう。でも、あのまま深く入り込んでいけば、ろくなことは考えつかないはずだ。そういう風に、思考が誘導されている可能性がある。
廊下にいた時に鳴った着信音は、孝哉のスマホのものだった。あの時はパニック状態だったからそれを無視しても大して疑問には思わなかった。けれども、よくよく思い返してみると、ここ最近の孝哉は着信があっても無視している事が多いように感じる。
元々は人からの連絡を後回しにしたり無視したりする性格では無いはずだ。それが、頻繁にそうしていると俺が感じるほどに多くあるということは、それほどまでに拒んでいる何かがあるのか、もしくは俺に聞かれたく無い事があるということだろう。
孝哉が俺にその事を話さないと決めているのなら、俺から聞き出すことはしない。だからと言って、そんな不可解な事をそのままにしておいてあげられるほど、俺の心は広く無い。これまでそんな風に思ったことなど一度も無かったのだが、隠し事をされているという事実が、心の中に澱を生むくらいには苛立っている。
そういう時は、前職のクセが出る。相手に気が付かれないようにと細心の注意を払いながら、自分から話したくなったり、答えを見つけようと動き出したりするようにと仕向けるのだ。
気をつけないといけないのは、相手をいいように転がしてやろうと思ってはいけないということだ。あくまでも、これは問題の解決そのものを目指してする事であって、相手を制御しようとしているのでは無いという意識が必須になる。
そんな風に自分へ必死に言い訳をしながらも、手を替え品を替え孝哉に小さな刺激を与え続けて、少しでも話しやすい状況へと導いていく。
「なんだよ、俺だけじゃつまんなくなったのか? そりゃあバンドで歌うよりは興奮は劣るのかもな。弾き語りだけじゃ足りねえものがあるってくらいは、俺にもわかるよ。でもよく考えてみろよ。それってちょっと酷くねーか? それはつまり、俺だけじゃもの足りないって言ってるのと同じだろ? ちょっと傷つくんだけど。ずっと一緒にいるからもう飽きたんですかね、お猫様?」
少し拗ねたふりをしてそう言うと、孝哉はその目に湛えていた絶望の色を、さらに濃くして俺を見上げた。そして、慌てて被りを振ると
「ち、違うよ! そういうことじゃなくて……」
と必死になって弁明しようとする。その姿を見て、俺は思わず吹き出してしまった。
つい今し方歌えないと生きていけないと言っていた人間とは同一人物とは思えないほどに、一生懸命になってそれを説明しようとしてくれている。その時点で既にしっかり今を生きているという事に、本人は全く気がつかない。
生きていく意味そのものである歌を奪われるかも知れないということよりも、俺を蔑ろにしているのだと誤解されることに危機感を抱いてくれたのだろう。つまりそれは、孝哉が俺の存在をそれほど重んじていると言っているようなものだ。
「だから、あの、えっと……、二人での演奏も幸せなんだけど、チルカで歌うのとそれとは違うから……。あ、それはわかるんでしょ? それに、えっと、後は……。そうだ! 俺のこともだけど、隼人さんだってあの場にいるのが幸せだよね。見てるとわかるもん。いつもめちゃくちゃ柔らかく笑ってるから」
そうやって、いつも俺のことを気にかけているのだと、大切なのだと教えてくれる。俺という存在が、孝哉が生きていく理由の一つになっているのだと、必死になって伝えてくれる。だから早く気がついてくれ。もっとシンプルにものを選べばいいのだということに。
「自分も隼人さんも幸せでいられる場所は、やっぱり特別だって思うから、ずっとそこに居たくて。……ねえちょっと、いつまで笑ってんの。俺真剣な話してるはずなんだけど? 隼人さんって、そういうところあるよね。真面目なトーンって続かないの?」
そう言って今度は孝哉が拗ねたふりをする。飴を咥えたまま、呆れたように上目遣いで俺を甘く睨みつけた。どうやら少しは感情が凪いで来たようだ。切迫感の無くなった声を聞いて、俺はもう一度胸を撫で下ろす。
説得しようとせず、思考の向かう先を変えてあげただけで、孝哉は本来の自分を取り戻せたようだ。
「はあ? なんだそれ、お前俺のことばかにしてんな? モテる孝哉には俺だけじゃ物足りなくなったって話だろ? ちゃんと理解してるけど?」
本当はこれには僅かながら本心も含まれている。孝哉が俺といられればいいと思うだけで満足しなくなってしまったことに、寂しさを感じていることも間違いないからだ。
ただ、こう言えばそれを否定しれくれるのだろうという期待も込めていた。そして、見事に孝哉はそれに応えてくれる。
「違うって。もう、そうやって自分のこと貶めて俺を笑わすのやめてくんない? ただのかわいい人にしか見えなくなって困るんだけど。ほら、一応昔は俺の憧れの人だったんだからさ」
「うわ、やっぱりもう過去形じゃねーか! ふーん、もう俺は憧れてもらう事も出来なくなってるわけね。そりゃあ仕方がないか、じーさんだもんな」
そう言って俺はベンチから立ち上がり、腰を叩きながら「はー腰が痛くてねえ。年だねえ」と言いながら柵の方へと近づいた。背中に軽やかな孝哉の笑い声を感じつつ、一つだけイスがわりに置いてあったビールケースを目指す。そしてその上に座ると、それをカホンの様に叩いてリズムを取った。
「音が鳴るものがそこにあると、どうしてもこうやって叩いて音楽にしたくなるよな。楽器と俺が一体になれたら、音が俺の手を離れて行って、落ちていく先まで全部がコントロール出来んのかな、とか考える。最初は出来ない事がたくさんあって何度も挫折して、それでも辞められなくて。どんな形であってもそれなりに続けていけば、思いもよらないスタイルが完成したりもする。本当に大事なものは、そう簡単には無くならない。……なあ、孝哉。求めすぎるから辛くなるんだよ。削ぎ落とせ。本当に欲しいものだけを、シンプルに求めろ。そこだけは守り抜いて、後はまた足せる機会を待てばいいんだよ」
強く叩く音の隙間に、弱く繋がる音を挟む。そうすることで、ただの空間に繋がりを持たせていく。それは、一つの音がそこに存在していただけの空間に、曲が生まれる最低条件。俺はこれだけを望んでいる。
自分一人だけで声を発しても、それが俺を直接幸せにしてくれることは少ない。でも、パートナーがいれば、その人に反響して、その人に共鳴して、違うものになって返ってくる。たとえただの音の羅列であっても、そこには曲が生まれる。
そう気がついたのは、孝哉の存在があったからだ。俺の音を孝哉が拾い上げる。そして、そこに孝哉の体を通った音が乗る。それだけで、これまでつまらないと酷評されていた俺のギターが、人を泣かせるほどのものへと変わっていった。
必要なものは、いつだって驚くほどにシンプルだ。孝哉にもそう思って欲しい、そう気がついてくれると嬉しい。そんな思いを、誇りだらけのビールケースに託していく。
「だからさ、俺にとって失くしたくないものは、歌うっていうシンプルな事だよ。それ以上どうしたら……」
俺はそれに答えずに、ひたすらにビールケースを叩いた。
叩く場所を辺にすると硬質で高い音が鳴る。面にすると僅かな撓みが生まれ、僅かながらも音が伸展した。打ちつける場所を変え、その変化を楽しむ。
一音目と二音目の距離を、そして二音目と三音目の距離を、自由に入れ替えつつ、ベースは保つ。それさえ出来たなら、そこには必要最低限のルールに繋がれた、自由な音楽が生まれてくる。
「音楽なんて、こうやってどこでもやれるだろ? バンドが休んでも、俺はずっとお前のそばにいるから。俺たちの音楽は無くならない。そうじゃないか?」
「どこでもやれる……」
孝哉は俺が鳴らすビートを聴きながら、ゆらゆらと体を揺らし始めた。意識は既に音の波の中にある。あの状態までいけると、孝哉の心を脅かすものは、ほぼ無いに等しい。
音の溢れる家に生まれて音を操る人のそばで育った少年は、音の中へ飛び込むことこそが生きていることと同義だ。そして、それが俺とのセッションであるならば……。
「ほら、歌おうぜ」
俺はケースの縁を三回叩く。孝哉は、それまで頭を悩ませていた思考をかなぐり捨てると、俺が生み出す音に合わせようと息を吸い込んだ。
「出会った場所で、あの時の自分との違いを感じろ。お前は大丈夫。俺がそばにいる。これからも、そうやって歌えるからな」
ミュージックアニマルとでもいうべき、本能的に音楽を求める人種がいる。孝哉はまさにそのタイプの人間だ。小難しい説得よりも、体に音楽を通す方が何よりもいい方へ動けるようになる。俺が鳴らすマルティージョに合わせて、体が任せるままに声を放つ。ついさっき喉が裂けそうなほどに叫んでいたとは到底思えないほどに、透明感のある柔らかな声が濃藍色の空に吸い込まれていく。
「空が抜けるように、音も抜ける」
そう呟いて、嬉しそうに笑った。
◇
長い時間、二人で歌った。俺は打楽器担当なわけではないから、時折リズムが転んだり走ったりして、
「ヘッタクソだな」
と目が潰れそうなくらいに眩い笑顔で孝哉は笑った。俺はその笑顔を見ていると、孝哉への愛しさが募っていって、溢れて弾けそうなほど膨れ上がっていった。
俺が落とした音の先を、孝哉の声が拾う。掬い上げて投げ出された音は真っ直ぐに伸びていき、ビルの谷間で反響して賑やかになっていく。
下を行き交う人々の中には、俺たちのセッションに気がついた人もいるようで、口々に賞賛の言葉を述べてくれていた。中には「うるせーぞ」と罵る言葉も聞こえたりもしていたけれど、この時はそんなことに構っていられなかった。
『生きてるって思えることをして、何が悪いの?』
あの言葉は、まさにこういう時に使うものなんだろう。
俺は今、生きている。その喜びに満たされている。音楽は俺にとって必要なもので、そこに孝哉がいてくれたら最高だと思っていた。でも、それは違ったらしい。
俺には、孝哉と演る音楽が必要だ。孝哉と共に奏でる時にだけ、この喜びを感じる事が出来るんだ。ただ単に興奮するだけなら、音楽だけでいい。誰とでもいい。でも、そこに孝哉がいることで、不要な柵の全てから解放されて夢中になることが出来る。
もうこの喜びを手放す事は出来ない。絶対に、一人には戻れない。何があっても離れないと、強く心に誓った。
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