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第21話 八階外階段の踊り場で1

「仁木さん! お願い!」  色田が閉めたドアに向かって、孝哉は叫び続けた。痛みを感じなくなるほどの強いパニックを起こしてしまったのか、力任せにドアを叩き、喉が裂けそうなほどの大声を上げている。  プロのボーカリストであれば絶対にしないであろうことを、アマチュアの頃から声を響かせることに生きがいを感じている男が、躊躇いもなく選んでいる。  それはつまり、本能からの行動だということだろう。思考を奪われるほどに必死に、ただひたすらに居場所を奪われることを拒んでいるのだ。 「やめろ孝哉。いい加減にしないと右手も壊れるぞ」  会議室のドアを叩き続けた右手は無惨にも皮膚が裂け、その行動を止めようとしても、血で滑ってしまってそれすら難しい。完全なパニックに陥った成人男性を俺一人で止めるには力が足りず、俺自身も何度も殴られて唇を切ってしまった。   「何やってんだよ、隼人! 早く止めねえと孝哉大怪我するぞ!」  ドアの向こう側から色田がそう叫ぶ声が聞こえてきた。そんなことは俺にだってわかっている。一刻も早く止めてあげたいと思いながらも、どうしたものかわからずに悩んでいると、突然爆音で誰かのスマホに着信音が鳴り始めた。  リノリュウムの貼られたコンクリートは、音の吸収が苦手だ。響いたらそのままの勢いを保ち、上へ下へと暴れ始める。音の大きさと乱れに驚いたのか、びくりと一瞬孝哉の動きが止まった。俺はその隙を突いて孝哉をドア前から引き剥がした。 「ちゃんと掴まっとけよ!」  ふと思い立ち、孝哉を背負って外階段へと向かった。何事かと覗き見している事務所のスタッフたちを尻目に、ブーツの踵を鳴らして廊下を駆け抜けていく。そのまま階段を登り、広い踊り場のある八階を目指した。  二人分の体重を乗せた足を必死になって前へと進める。一歩間違えれば二人とも落ちてしまうんじゃないかという心配が、恐怖心を煽り立てた。それでも、今は孝哉を落ち着かせることだけを考えようと、ぎりぎりと歯を食いしばって気を逸らした。  ただひたすらに、上へと向かう。俺の知る限りで最も孝哉が無心になれる場所、八階外階段の踊り場へと向かった。そこは俺たちが出会った場所、飛び降りて死のうとしていた孝哉を見つけた場所だ。 「あーキッツ! ほら、ここに座れ。タバコ吸うから付き合えよ」  ここには、他の階よりも少し広めの踊り場に、吸い殻入れのある喫煙スペースがある。世が喫煙者に厳しくなろうとも、音楽業界の裏方たちにはまだスモーカーは多い。上がその数を減らそうと躍起になったとしても、無理をさせるとパフォーマンスの低下が著しいということがわかったようで、この八階にだけそのスペースを残すことになった。  俺たちが所属している事務所の関係者と、同じビルにある小さなスタジオの関係者が、ここを憩の場としてやって来るため、普段はかなり人が多い。それにも関わらず、今日は誰もいなかった。今ここには、俺たち二人しかいない。  俺は、運ばれている間にやや落ち着いた孝哉の、その派手な色の髪を手で梳いた。そして、ポケットから水色の鮮やかなロリポップキャンディを取り出す。それを孝哉の手にそれを握らせると、「ほら、いつもの」と言った。  孝哉はそれを受け取ると、キャンディーブルーの髪の隙間から俺の目を覗く。その視線が、チラリと俺の右目の傷を捉えるのがわかった。 「ちょっと落ち着こうぜ」  ポケットから取り出したタバコに火をつけ、軽く息を吸い込む。細くて紙一枚に遮られただけの空間の中は、みっしりと詰まった刻みと空気が混ざり、ジリっという音を立てて真っ赤に燃え上がった。その熱の中心がわずかに顔を出したと思えば、それは瞬時に冷えて白い灰へと変わっていく。孝哉は、いつもその過程を眺めながら、 『隼人さんがタバコ吸ってる姿って、その燃え方すら儚く見せるんだよね。いつもそれが不思議なんだ』  と言う。そして、その間自分はずっとソーダ味のロリポップキャンディを舐めていて、 『同じ時間を楽しむならコレが一番なんだよ』  と笑っている。俺はそういう時の孝哉を結構気に入っていて、今や自分がタバコを吸うときは、俺から孝哉にその飴を渡すようになっていた。気がつくといつも身につけているショルダーバッグには、右目のために持ち歩く目薬とシガーケース、ライター、そしてこの飴が常に入っている。 「俺のタバコに付き合うなら、それが一番なんだろう?」  そう問いかけると、孝哉は自分の髪と同じ色に輝くそれを見つめてふわりと笑い、包み紙を開きながら消え入りそうな声で「うん」と答えた。  薄い紙が開かれて現れた小さな空間に、鮮やかなブルーのころんとした飴玉が見える。いつもであれば、それを嬉しそうに口に含む孝哉は、今は眉根を寄せて飴を噛み砕きそうな顰めっ面をしていた。 「なあ孝哉、どうしたんだよ。別に活動休止って言ったって、解散とかお前がクビとかそういう話じゃないだろう? そりゃあ俺だって、一部のファンの意見に振り回されるなんて勘弁してほしいけどな。俺が辞めた後にあれだけずっと待ってるって言ってくれてた人も、コメントには俺のことを裏切り者って罵ってたらしいからな。俺はチルカを大切に思ってるし、あいつらと俺がいいと思ってやってるのに、想像で悪者にされたままなのは受け入れ難いよ。でも、今みたいなチルカとファンの間で疎通が取れてないままだと、ずっと危険が付き纏うだろう? 条野はおかしいんだ。綺麗事を言ってぶつかっても、勝ち目は無いんだよ。それに、お前の身に何か起きた時には、俺たちだけじゃなくて仁木さんにも責任がかかるんだぞ。あの人に迷惑をかけたくは無いだろう?」  俺は子供を嗜める親のように、孝哉に言い聞かせようとした。普段の孝哉であれば、この程度の説明であっても納得してくれるはずだ。 「そうだけど!」  それなのに、今は俺に食ってかかるようにそう答え、涙を湛えた目で俺を睨みつけている。右手を飴の持ち手から離すと、コロコロと口の中にその透き通る青を転がす。そして、忙しなく左手の傷を右手で摩り続けていた。 「俺のせいで活動休止になるなんて……俺の存在ってそんなに迷惑なの? 顔とか表情とかどうしようも無い事で嫌われてもさ……。そんな事でチルカの人たちに迷惑をかけたっていう事実が、どうしても受け入れられない」  目の縁に止まっていた涙が、その強い調子に合わせて、するりとこぼれ落ち、頬を滑って落ちて行った。孝哉は、それを拭おうともせずに流れるままに任せ、まっすぐに俺を見つめていた。その涙の筋と孝哉の髪に、ネオンが反射してきらりと光る。赤や黄色に輝く光が、キャンディブルーの髪に重なり、まるで虹のように幾つもの色を生み出していた。 「なんでそんな愉快犯みたいな人たちのために、俺が歌うことを辞めないといけないの? 俺から歌うことを奪ったらどうなるかって、隼人さんが一番知ってるじゃないか! ここで初めて会った時の俺のことはもう忘れた? それとも、覚えてるのに味方をしてくれないわけ? 本当は俺のことなんて何もわかってくれてないんじゃないの? 俺は歌が歌えないと、生きていけないんだよ!」  幾筋にも光る涙には、歌えなくなるのは苦しいという孝哉の気持ちが溶けて流れているように見えた。それは流れるほどに悲しみの色を濃くしていく。誰が何を言っても、どう話を展開しようとしても、孝哉の心は抉られるばかりなのだろう。頑なに活動の継続の意思を曲げようとしない。  俺はほんの少しだけ違和感を覚えていた。どうしてこれほどまでに頑ななのだろうと思わずにはいられなかった。活動を中止したところで、全ての歌う機会が奪われるわけではない。そのことが孝哉に理解出来ないはずは無いのだ。というよりは、俺がそれを理解して欲しいと思っている。この話の向かう先は、俺たちの繋がりの強さが影響すると思うからだ。 「孝哉、どうしたんだ。誰が何をしてこようとしても、お前の歌う場所は無くならねーよ。なんでそれを信じないんだ。もしかして、誰かに何か言われたのか?」  いつの間にか日が翳り、眼前には俺たちが初めて会った時と同じような景色が広がっていた。この通りの下には、あの日と同じように、客を待ってその日の食い扶持を稼ごうとしている人間が立っている。そこから聞こえてくる狂気じみた笑い声と、理性を失った行動が起こす騒音。目の前の生にしがみつく事が最優先される人々の存在を感じてもなお、孝哉は甘えた願いを捨てられずにいた。  俺はタバコの火を消して、孝哉を抱き寄せた。背中に回した手を強く引くと、思いの外抵抗せずにおとなしくそれに身を任せてくれる。その反応を見て、完全な拒絶をしているわけではないことを確認した俺は、ほっとして目の前の派手な色の頭に顎を乗せた。すると、孝哉は力の入らない方の手で俺の右腕を掴み、「歌を奪らないで」と声を震わせた。 「だから、奪らねーつってんだろ」  俺は、孝哉の口から飛び出しているロリポップの持ち手を掴み、そのまま指で口の端へと押しやった。そして、空いた場所を啄むように、いつまでも同じことを言い続ける口を自分の口で塞いだ。  目の前にいるにも関わらず、見えない誰かに阻まれているようなもどかしさを、体の一部を繋げる事で無くそうとした。どんな理屈を並べるよりも、相手の存在を正しく認知できるのは、結局は触れ合いだろうと俺は思っている。孝哉の頭の中にいるその得体の知れないものを追い出し、目の前に俺がいるということだけを認知させようとした。  そっと触れ、ゆっくり繋がる。質量や温もり、俺からの思いまでもが孝哉の中へと繋がるように、そう願って長いキスをした。 「生きがいを失くす辛さってことなら、俺だって似たような経験をしてるんだから、それなりにはわかってるつもりだ。だからって、完全に理解してるって言い切ることは出来ねえけどな。わかってやりたいと思ってるし、お前のいいようにしてやりたい。だからここに連れてきたんだろう?」  あの日、階段の柵の外に立っていた孝哉の顔は、真っ青で生気がなく、いかにも人生に絶望しきった目をしていた。あまり人と関わりたくないと思っていたあの時期の俺が、思わず声をかけてしまうほどに、命の火は儚く消え入りそうになっていた。 「あの時のお前は、完全に歌うことを奪われていただろう? だからここから飛び降りてでも楽になりたいと思ってた。でも、今は違うんじゃないのか? 今のお前は、少なくとも俺と一緒にいられれば歌う事は出来る。それはチルカに入る前から出来てたことだろう?」

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