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scene 9. アイデンティティ
ミレナ・パラツカーはこの世に生を受けたときミランという名を与えられ、以来ずっとミラン・パラツキーと認識されていた。*
幼い頃、お気に入りの遊びはプレイモービルよりも着せかえ人形だった。青いスニーカーではなく赤いサンダルが欲しかったし、髪だってもっと伸ばしたかった。しかしそれらの望みが叶えられることはないまま、自分は男の子だということを、男の子はこんなふうじゃないのだという現実を知った。
まあ、そんなものが好きだなんて、まるで女の子みたい。泣いてばかりいてはだめよ、男の子なんだから――そんな言葉を浴びせられ続け、女の子のように在りたいという願いは間違っているのだ、誰にも見せてはいけないのだと、ミランは感じるようになった。そして、消そうとしても消えなかったその願いは心の奥深くに閉じこめ、もう自分を掻き乱すことのないようしっかりと鍵をかけた。
成長するにつれ、ミランは男友達と同じように振る舞うことにどんどん慣れた。言葉遣い、笑い方、歩き方、喧嘩の仕方――そして二十歳になった頃、周りの勧めに押し負けるようにして、女性と付き合い始めることになった。
大学時代にできた初めての恋人、ハナ・シュヴァルコヴァは絶世の美女というわけではなかったが、小柄でくるくるとよく変わる表情が魅力的な、可愛い人だった。ミランはハナの隣でぎごちなくボーイフレンドを演じているうち、いつの間にか演技ではなくふたりの時間を楽しむようになった。カフェで勉強をしながら一緒にコーヒーを飲み、週末には彼女の買い物に付き合ったあと、夕食を共にした。そのうち、振りなどではなく、ミランは心からハナのことを愛している自分に気づいた。
そしてミランは知った。自分は男性であることに違和感は持っていたが、女性として男性を性愛の対象とする部類の人間ではなかったのだと。
バイセクシュアルという可能性もなくはなかったが、これまで男性に恋愛感情や性的欲望を覚えたことはなかった。周りから爪弾きにされないよう男らしさを身に着けようと必死になる傍ら、鏡の前に立つたびにこれは誰だろうという違和感にも襲われ続けていたが、それは自分の性自認が女性であるということに外ならない。性的指向はまた別の問題である。
躰は男性でも、性自認が女性であれば女性を愛することは異性愛ではない――時代が変わるにつれ、ウェブなどでセクシュアルマイノリティについて様々なことを知ることができるようになると、ミランは自分がトランスジェンダーでありレズビアンであるという答えに辿り着いた。
自分の属性のようなものがはっきりし、それが極めて特殊なことというわけではなく他にも大勢いることを知ると、なんとなくほっとした気がした。そして次には、その真実の自分のままで生きていきたいという欲求が、だんだんと強くなり始めた。
それは、もうハナとの結婚生活が十三年目を迎え、息子アンドリンが十一歳になってからのことだった。
だだっ広いリビングに寝室、使っていない続き部屋とキッチン――およそ築五十年のパネラークは四、五人の家族が暮らすことを想定して建てられたらしく、独り暮らしには広すぎる造りだった。パネラークとはこの国がチェコスロバキア社会主義共和国 と呼ばれていた時代に、まるで雨後の筍のように建設された、団地のような集合住宅のことである。
必要最小限程度の家具しか置いていない殺風景なリビングの片隅に、いつもより早めに出番がきた扇風機と、カラフルなモザイク模様の紙袋が置いてあった。中に入っている同じ模様の包装紙に包まれたその大きな箱にはリボンが掛けられ、黄色いスマイルマークのようなシールが貼ってある。
ミレナがひとりで暮らしているここはボヘミア地方西部、プラハから約二十五キロほど離れたところにある、クラドノという街である。
重工業都市であるクラドノには、世界中の子供たちが大好きなあのレゴの工場がある。勤続十五年、結婚十三年めにして理不尽な理由により解雇され、妻ハナにももう一緒に暮らしていくのは無理と云われたミランは、実家の遠いハナに出ていかせるわけにもいかず、偶々雇用条件の良い仕事があったこの街に、単身で移り住んだ。
一粒種の息子、アンドリンはハナのもとに残った。身を引き裂かれる思いだったが、ハナにとっては当然のことのようだった。
アンディに必要なのは父親よ。女装しているおかしな人じゃない。そんな姿をあの子には決して見せないで――真実 の自分についてハナに打ち明けたとき、彼女はそう云って『ミレナ』を拒絶した。しょうがない、とミランは皆が寝静まったあと、ひとりでそっとミレナになり、鏡の前に立つに留めていた。
しかし、それすらもハナには許せないことだったらしい。
やがてミラン自身も、真実の自分と嘘の鎧を着た自分を行き来することに疲れ始めた。ある日、職場でうっかりミレナとして喋ってしまい、それからはどんどん居場所がなくなっていった。仲が良かった同僚も離れていき、レストルームで顔を合わせた相手は急いで出ていったりするようになった。
そして最悪なことに、上に立つ人間の頭のなかも前世紀のままアップデートされていなかった。ミランはトラブルの元として解雇され、仕事を失った夫をハナはとうとう見限った、というわけだ。
「今月分送ったんだけど、ちゃんと受けとってくれた?」
『ミラン……もうそんなことはいいって云ったでしょう? 私だって働いてるし、アンディは私ひとりで育てられるわ。もうお金なんていいの』
「そんなこと云わないで……あって困るものじゃないでしょ。アンディだって大きくなって、これからもっとお金がかかることが増えるはずよ。……こうして私ひとりでこっちへ移って、プラハにいた頃よりもお給料が増えたのはほんと思ってもなかったラッキーなことなのよ。このくらいはさせてちょうだい」
キャビネットの上にいくつも飾ってある、幸せだった頃の家族写真――なかでも特にお気に入りな、アイスホッケーの大会で撮ったアンドリンの写真を見つめながら、ミレナはスマートフォン片手にそう云った。しかし。
『ミラン、おねがいだからその女言葉をやめて。あなたちっともわかってないのね、あなたがそんなだからこんなふうに離れて暮らすことになったっていうのに……お金のことなんかより、もっと考えるべきことがあるんじゃないの?』
「ハナ……そっちこそ、どうしてわかってくれないの。あなたを信じているから、大切な家族だと思うから、私はほんとのことを打ち明けたのよ。ほんとの私を知って、認めてほしいのに――」
『そっちこそなんでわからないのよ、アンディに必要なのは父親なの。そう云ったでしょ!? 自分だけがなにかを棄てたり我慢してると思わないで。私だって母親になってからは女を棄ててる。もうドレスも化粧品も要らない、要るのはハンドクリームくらいよ、あとはなにもかも子供のため! でもそれでいいの、みんなそうなんだから』
「そういうのとはまた違うのよ、これは私という人間の在り方の問題なんだから――」
『同じよ! そもそも親になってしまえば性なんてどうでもいいことよ!』
「どうでもいいならミレナとしてあの子の親でいたって――」
『それはありえない!』
「じゃ、じゃあいっそ私が母親になるからハナ、あなたが父親に――」
『ふざけないで!!』
スマートフォンからはもうハナの声は聞こえず、かわりに自分の息遣いだけが耳を擽っていた。はぁ、と溜息をつき、ミレナは部屋の隅を見やった。
アンディの十二回めの誕生日に、どこかで会えない? そう訊こうと思っていたのに、口にしそびれてしまった。ミレナは手にしていたスマートフォンを操作し、カレンダーを表示させた――アンディの誕生日まで、あと一ヶ月ほどだ。まだ日にちに余裕はあるが、約束を取り付けてしまわないと、予定があるとか急に云われても困るとか云って避けられるのが目に見えていた。
誕生日である六月三日は月曜日。スーパーマーケット内にある惣菜店に勤めているハナは土日には休めず、いつも月曜と木曜が休日だったから、当日に三人で会えればいちばんいいのだが――。
カラフルな紙袋を見つめながら、ミレナは思った。
――会うだけじゃ足りない。やっぱりどんなかたちであれ、家族は一緒にいるべきだ。
親としての在り方。自分としての在り方。どちらかを諦めなければいけないなんてことは、きっとない。
アイスホッケーの大会で準優勝したときの写真が収められたフレームを手に取ると、ミレナはその輝かんばかりの息子の笑顔に、愛おしそうにキスをした。
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※ チェコ人の姓は男性と女性で異なり、女性の姓には「~ová (オヴァ)」、または「~á (ア)」という接尾辞が付く。
パラツキーの場合、Palacký が Palacká(パラツカー)となる。
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