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scene 10. I'm So Glad

 大画面の液晶ディスプレイには、一昨年に行われたヨーロピアンツアーで撮影された、ジー・デヴィールのライヴステージが映っていた。  眩い照明のなかで揺れるスモーク、空間を切り裂くかのようなレーザーの束。幻想的な光の海を背にし、長いウェービーヘアを振り乱してルカが歌っている。PAに足をかけて観客(オーディエンス)を煽るその後ろを、ドリューがギターをかき鳴らしながらステージを見廻るように悠然と横切っていく。反対側にはリズムに合わせて躰を揺らし、笑顔で鍵盤を叩いているジェシがいる。  そしてステージの中心より奥、一段高くしたところに組まれたドラムセットで、ユーリがハイハットを叩くごとにスティックをくるりと回していた。ベースキャビネットの前から歩み寄り振り返ったテディがユーリと視線を交わし、ふたりしてにやっと笑いあう。ブリッジとコーラスのあと、ルカがマイク片手にドラムの前まで来ると、テディがふいと逃げるようにステージ前方へと向かった。ルカもそのまま反対側からぐるりと廻り、間奏(インタールード)が終わるタイミングを計って観客席に近いステージの真ん中へと戻ってくる。そしてマイクスタンドに持っていたマイクを戻し、最後のコーラスに入ると、いつの間にか傍らにいたテディがマイクに顔を寄せ、ルカと一緒に歌い始めた。  ディスプレイの両側にはトールボーイ型のスピーカー、TVスタンドを兼ねたワイドなオーディオキャビネットの端にはサブウーファー、ディスプレイの下、キャビネット内にぴたりと嵌めこまれたセンタースピーカー、そして部屋の反対側にはサラウンドスピーカーと、最高の音質と臨場感で鑑賞していたライヴビデオに、テディは途惑い気味な表情にさっと朱を刷いて、口許を押さえた。 「……話で聞くのとこうして視るのとじゃ、やっぱり違うね。あれが俺だなんて嘘みたいだ。ルカは、ああルカってほんとに歌手(シンガー)なんだなあって思うけど……」  ソファに両脚をあげ、クッションを抱えこんで坐っているテディがこっちを向いてそう云った。キッチンから出てきたルカは、器用に片手で持ったマグふたつとシュガーポットをテーブルに置き、「なんだ、表紙になった雑誌まで見せたのに、まだぴんときてなかったのか?」と返した。そしてティースプーンを入れたままのマグをテディの前に押しやり、自分はブラックのマグを取る。テディのマグはミルクたっぷりのカフェオレだ。 「うん……どっちかって云うと、バスルームで背中を見たときのほうが納得したかも。こんなでかいタトゥー、ミュージシャンかアスリートでもなきゃ普通は入れないよね」 「だな。あとはギャングくらいか」 「ルカは入れてないの?」 「俺はタトゥーなんかで飾らなくてもじゅうぶん派手なんだよ」  冗談のつもりでそう答えたのだが、テディは「そっか」と言葉どおり受けとったようで、ルカは苦笑した。  テディは右腕に獅子と牡丹、背中には鳳凰と牡丹のタトゥーを入れている。香港人の彫師にロンドンで彫ってもらったそれは色鮮やかでとても美しいが、記憶を失ってから鏡で初めてそれを見たとき、テディは驚いて大きな声をあげた。  ライヴビデオ鑑賞を再開しながら、テディはシュガーポットから角砂糖をふたつ摘み、カフェオレに沈ませた。くるくると混ぜて一口飲み、小首を傾げて角砂糖を追加する。 「もうひとつだ」  ルカがそう云ってやると、テディは不思議そうな顔をしながらも素直に四つめを入れた。再度くるくるとスプーンを回して口をつけ、テディは納得したように何度か頷いた。  自分がカフェオレにいくつ砂糖を入れるのかは憶えていないが、記憶を失うことで好みが変わったりはしていないようだった。医師によると、なかには別人のように違ってしまう患者もいるそうだが、テディはその点、こうして以前と同じに過ごすうえでは楽なのかもしれなかった。  プラハに戻ってきた日、テディはなんだかほっとした表情で辺りを見まわしていた。  ロニーとルカ、テディの三人は、ヴァーツラフ・ハヴェル・プラハ国際空港を出るとすぐにタクシーに乗りこみ、ヴィノフラディのフラットへ向かった。  スミーホフを過ぎ、イラースクーフ橋を通ってヴルタヴァ川を渡ると、右手にダンシングハウス( Tančící dům )という斬新なデザインの建物が見えてくる。まるでドレスを着た女性を抱えて踊っているように見えることから、このビルはジンジャー&フレッドとも呼ばれている。と云っても今はもう、ぴんとくる人は少ないかもしれない――映画史上最高のダンスパートナーと云われるフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースが数々のミュージカル映画で共演し、観客を熱狂させたのは今から八十年ほども前、一九三〇年代のことなのだから。  ダンシングハウス以外にも、様々な建築様式の建物が視界を埋め尽くす美しい景色に、テディは興奮気味に顔を綻ばせていた。その表情を見て、ルカは戻ってきてよかったと心から思った。そして、それならとロニーに一言断って、もうすぐフラットに着くというところでタクシーにUターンしてもらい、旧市街広場のほうへ寄った。  テディはずっと嬉しそうに景色を楽しんでいたが、人通りの多いところでルカが車を停めさせ、クリームのたっぷりと詰まったトゥルデルニーク(Trdelník)を買ってくると、更に子供のような満面の笑みを見せてくれた。  観光客向けに到る処で売られているトゥルデルニークは、テディの大好物なのだ。ロニーには、云ってくれれば私が買ってきたのに、と云われたが、ルカは笑みを浮かべたままなにも云わなかった。  ――俺がしてやりたかったことだから、なんて、こっ恥ずかしくてとても云う気にはなれない。 「なんだか暑いね」  シャツの襟を摘み、ぱたぱたと仰ぎながらテディが云った。 「ロンドンが寒すぎたのさ」  そうは答えたものの、五月になったばかりのこの時期にしては確かにやや気温が高いような気もするな、とルカは思った。  プラハに戻ってきてから三日目、今日はバンドメンバー皆で事務所に集まり、会おうということになっていた。スタッフたちも含め、皆テディのことが心配でしょうがないのだ。あれを見せてみたか、この話はしたか、こうしてみたらどうだろう――焦りは禁物なのだと、何度も繰り返し自戒を込めつつ話してはいるが、彼らがついついそんなことを云いたくなる気持ちはルカにもよくわかった。  とりあえず、フラットに籠もってライヴビデオばかり観ていてもしょうがない。今日は事務所の雰囲気に触れつつお茶を飲んだあと、スタジオにも入ってみようかとルカは提案した。  スタジオのあるビルは、ロニーが勤めていたレコード会社の所有するものだ。レーベルを起ちあげてからは親会社にあたるそこの、もともとあったリハーサルスタジオに資金を提供して改装し、最新の機材とルカたちらしい拘りの楽器を入れてから、そこはジー・デヴィール専用スタジオのようになっている。  バンドのサウンドはブレイク時のジャジーなソフトロックから、ややハードでラウドなブルースロック寄りへと変化してきていて、3rd(サード)アルバムからユーリは念願のダブルベースドラムを組んでいた。他にもジェシのフェンダーローズやVOXコンチネンタルはもちろん、ショップと見紛うほどの数が並べられているギターや、テディのアンペグのヘッド&キャビネットとフェンダーのジャガーベース、リッケンバッカー4001など、楽器も機材もさすがの充実ぶりだ。  それを見て、テディはなんだか興奮気味な様子だった。まるで初めて楽器に触れるロック小僧のように、テディは恐る恐るという感じでベースギターに手を伸ばした。 「おまえのだ。好きに弾けよ」  ルカがそう云い、それを見守っていたユーリやジェシたちは微笑んで頷いた。  どうしたらいいのかわからないのか、テディはベースにはそれ以上触らず、興味深そうに楽器や機材を見ながらスタジオ内をうろついていた。やがて、各々が自分のポジションにつき、ユーリが刻むビートに乗せてジャムセッションが始まった。  初めはそれぞれの音を探り合うような即興演奏だったが、ふと気づくといつの間にか聴き憶えのあるフレーズをドリューが弾いていた。それに引っ張られるようにして皆がぴたりと合わせ、一体感のある演奏をバックにルカも歌い始める――バーズの〝Time Between(タイム ビトウィーン)〟だ。そして曲は途中、これがこの曲のコーラス部分だというような自然さで〝Why(ホワイ)〟に切り替わった。〈Younger Than(ヤンガー ザン) Yesterday(イエスタデイ)〉という同じアルバムに収録されているこの二曲を、こんなふうに繋げてアレンジをしたのは、ジェシの好きなモックタートルズというバンドである。  歌いながら、ルカはプレジションベースを手に取りシールドを繋ぐと、テディに歩み寄ってストラップを首から掛けてやった。そして弾け、というように頷いて見せ、マイクスタンドへと戻る。テディは途惑った様子で、感触を確かめるようにネックを撫でたり弦に触れたりしていた。  そして、そのあいだに曲は〝My Back Pages(マイ バック ページズ)〟に変わっていた。これも先の二曲と同じアルバムに収録されているバーズの曲ではあるが、オリジナルはボブ・ディランである。どうやらジャムをぐいぐいと引っ張っていくドリューの今日の気分は〈Younger Than Yesterday〉のようだ。もちろん昔からのレパートリーだし、皆が大好きな名盤でもある。  そうして皆が楽しそうに演奏を続けていると――ブゥン……と音の層を深く潜る、低い音が微かに聴こえた。ルカもドリューも皆、その音を弾きだした指を――テディを振り返り、期待を込めた目で見つめた。  テディは不思議そうに小首を傾げ、感触を確かめるようにネックを握ったり、弦を撫でたりしていたが――やがて、ゆっくりと音を捜すように鳴らし始めた。 「おっ――」 「テディ……!」  初めの何音かは外れたが、弾きながらテディはちゃんと合わせることができていた。いつもの力強さやグルーヴ感や、演奏を楽しんでいる余裕のようなものは感じられないが、ベースラインはまったく間違っていない。弾き方もちゃんと熟達している者のそれだった。右手もいつものとおり、スリーフィンガーピッキングで弾いている。  ユーリもドリューも、ジェシもルカも驚きと歓喜の表情で顔を見合わせていたが、いちばん信じられないという様子なのはテディだった。どうして自分がベースギターを弾けるのか、不思議でしょうがないといったところだろう。きっと、指が憶えているのだ。小首を傾げる癖と同じに、細胞レベルで刻みこまれているのだ、とルカは思った。  〝My Back Pages〟の演奏を終えた途端、ルカはたまらなくなってテディを抱きしめようと手を伸ばしかけたが、一歩動いたところで「えぇっ、ちょっとユーリ……大丈夫ですか!?」とジェシの声がして、そちらを向いた。 「うるせえ。なんでもねえ」  スティックを握ったままユーリは顔を逸らし、手の甲で目許を拭っていた。ドリューがふっと笑みを浮かべて、見てないふりで背を向ける。  ずっと傍にいることができていないぶん、ユーリはきっと自分よりもつらかったのだろう。記憶が戻らないまま、もう再び一緒に演奏することができないかもという、現実になることが充分にあり得る不安に苛まれ、眠れない夜だってあったかもしれない。  もちろん、演奏ができればいいというわけじゃない。テディだって、いくら不便がないとはいえ、自分が何者かよくわからないままでいるなんて考えられないだろう。ルカも、自分たちがずっと過ごしてきた時間を思いだしたテディと、ふたりの生活を取り戻したいと願っている。だがユーリはなによりも、バンドにとって重要なリズムコンビネーションの相棒としてのテディに戻ってきてほしいに違いない。当然かも知れない。彼にとって、テディとの関係はそこから始まっているのだから。  明日からはまた、催眠療法(ヒプノセラピー)による治療が始まる。  ロンドンではあまり良い効果のでなかった催眠療法だが、プラハの病院で、医師やカウンセラーが変わることによってまた違った結果がでるかもしれないからと、テディ自身も前向きだった。ルカはまだ少々心配だったが、なにもせず自然に記憶が戻るのを待とうという気になれるわけでもない。 「――よーし、もういっちょういくぞ!」  ユーリがかけ声とともにドラムを叩きはじめた。特徴的なタムの連打にすぐドリューが合わせてリフを弾く。〝Sunshine of(サンシャイン オブ) Your Love(ユア ラヴ)〟、ユーリの大好きなクリームの曲だ。  ――俺はずっと長い間、待っていたんだ――。おいおい、威勢のいい声でごまかしてもリリックに感情がだだ漏れだぞ、と思いながら、ルカはユーリがいちばん好きなその曲を、気持ちを込めて歌いあげた。

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