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scene 11. 手料理と選択肢

「晩メシどうする?」 「……なんでもいいよ」  そう答えたテディの表情は昏く、声にも抑揚がなかった。  プラハ一区にある病院であらためて医師の診察を受け、催眠療法(ヒプノセラピー)のため通院を始めたテディだったが、ロンドンでのそれと違う結果はやはり期待できそうになかった。  病院まで付き添ってきたルカは、テディがセラピーを受けるあいだ別室で待っていた。セラピーには一時間半から二時間ほどを要すると聞いていて、ルカはiPod(アイ ポッド)で〈The Story(ザ ストーリー) of the Blues(オブ ザ ブルース)〉というブルースのコンピレーションアルバムを聴きながらうとうとしていた。  はっと目を開けたのは、そっと肩に手を置かれる感触を感じたからだった。イヤフォンから聴こえているのは、もう一枚めのディスクの最後のほうの曲だった。眠ったつもりはなかったけどなと時計を見ると、まだ予定よりもずっと早い時間だった。  顔をあげると看護師がいて、今日はセラピーを早めに終えましたと云った。ルカはあぁまたかと思いながら、テディの様子がおかしくなったのかと率直に尋ねた。看護師は、お話は先生のほうからお聞きになってくださいと云いながら、少し困った顔をした。  診察室へ迎えに行き、ルカがドアを開けるとテディははっとして振り向いた。その表情には恐怖と混乱の色が浮かんでいた。ルカがなるべく静かに、いつもと同じ口調で「おつかれ」と云ってやると、テディはほっとして躰の力が抜けたのか、ぐったりと姿勢を崩して椅子の背に凭れた。 「待合でジュースでも買って飲んでろよ。俺もすぐに行くから」  そう云ってテディを看護師に任せると、ルカは空いた椅子に替わって腰掛け、医師と向かい合った。 「やっぱり、うまくいかなかったんだな」 「診療情報にも下線付きで書いてありましたんで、細心の注意を払いましたが……思った以上に難しそうです。軽いトラウマからひとつずつ引きだしていってケアしていけるといいんですけどね、レオンさんの場合、どうやら同種の複数の出来事が繋がって、絡まり合うようにしてひとつの大きなトラウマになっているような感触があります。それらの記憶を一気に甦らせると、本人の受けるショックも途轍もないものになる……慎重に、時間をかけてゆっくりやっていくしかないでしょうね」  今後も予定どおり週に二度のペースで予約を入れておきますので、セラピーに来られないときは早めに連絡をください。それ以外はなるべくストレスのかからない環境で、ゆっくり過ごさせてあげるように――医師からそう話を聞き、ルカはわかりました、ありがとうと云って待合へと向かった。  病院からの帰り、テディはセラピーで覗き見せられた自分のなかにある悪夢の所為か、それとも単に疲れたのか、ずっと黙ったまま俯いていた。愛車の白いカブリオレを運転しながら、ルカはまたトゥルデルニーク(Trdelník)を買うか? それともフレビーチェク(Chlebíček)でも買って帰るか? と尋ねたが、テディはゆるゆると首を横に振るだけで、言葉すら発しなかった。  そんなふうだったので、ついつい寄り道をせず真っ直ぐ帰ってきてしまったが、やがて静かに時間が経過し、夕飯時になるとルカはやっぱりなにか買ってくるべきだったと後悔した。  テディはずっと鬱ぎこんだままだし、今からレストランに出かけようと云ってもおそらくそんな気にはなれないだろう。なるべくストレスのかからないようにと云われたばかりでもあるし、なにかデリバリーでも頼もうか――と、そんなことを考えていたルカはふとキッチンのほうに目をやり、あることを思いついた。 「なあテディ、今から人を呼んでもかまわないか?」  なにをするでもなくソファでじっと坐っているテディが、やっと顔をあげてこっちを見た。 「呼ぶ……って、誰を?」 「ユーリだよ。あいつ、料理が巧いんだ。頼めば適当になにか買ってきて、旨いもんを作ってくれるよ」  テディが別にいいよと云ってくれたので、ルカは早速ユーリに電話をかけた。 『どうした、テディになにかあったのか!?』  電話にでるなりそう云ったユーリに、ルカはしょうがないかと苦笑した。なにしろ自分がユーリに電話をかけることなど滅多にない。これまでに自分からユーリを誘ったり、面と向かって頼み事をしたりしたことなど、まったくないのである。 「いや、なにもない。突然で悪いんだけど、もし暇なら今からうちに来てほしいんだ」  ルカがそう頼むと案の定、ユーリは意外そうな声でこう云った。 『今から? なんだ、どうしためずらしい』 「晩メシ、病院の帰りに買ってこなかったんだよ。で、外に出るのはどうも、今日は気が乗らないんで」  詳しくは話さずそれだけ云うと、暫しの間、沈黙が落ちた。ユーリのことだ、きっと外出できない程度にテディが調子を崩していることくらい、ぴんときているだろう。  ややあって、いつもの頼もしい声が返ってくると、ルカはやや癪だなと感じながらもほっとした。 『――ったく、しょうがねえな。おまえんちのことだからどうせ冷蔵庫も空なんだろう? わかった、なにか見繕ってから行ってやる。食いたいもんはあるのか?』 「そうだな、雲丹(うに)のムースにキャビアとコンソメジェルを添えたのと、オマール海老とアボカドのサラダ。あとフォアグラのポアレと、シャトーブリアンのステーキはトリュフ塩で。デザートはドン・ペリニヨンを使ったシャンパンのシャーベットを」 『くたばれ(Fuck you)』  ルカの軽口に対して悪態を返してきたユーリは、四十分後、どっさりと食材の入った袋を両手に下げてやってきた。  真っ赤なパプリカとじゃが芋、玉ねぎ、大蒜、鶏もも肉などたくさんの食材と、黒パン(フレバ)、牛乳に生クリーム、白ワインまで買いこんできたユーリは、キッチンに籠もると鼻歌交じりに手際よく作業を始めた。鍋をふたつ同時に火にかけ、とんとんとリズミカルに野菜を粗みじんに切っていく。 「……なにか手伝おうか?」  さすがにちょっと申し訳ない気がしてルカがそう云うと、ユーリは振り返り、真顔で「なにかできること、あるのか?」と訊いてきた。返す言葉に困り、ルカは両手を広げてキッチンから退散しようと踵を返した。  するとすぐ後ろにいたテディがルカに替わってキッチンをそっと覗いた。ルカはそのままソファへと戻ったが、テディは呼ばれたのか、キッチンに入っていった。耳を澄ましていると「こっちの鍋を偶に混ぜてくれるか。そう、底から焦げつかないように、ゆっくり」などと云っているユーリの声が聞こえた。ずいぶんな応対の差だと思ったが、まあ、しょうがない。  ユーリとテディは以前にもああやって、ふたり並んで料理をしたことがあるのだ。だからだ――と、ルカはソファに凭れてキッチンのほうを窺いながら、やっぱりちょっとくらいはなにかできるようになろうと、の決意をした。 「クネドリーキを買い忘れちまった。出来合いを買ったことなんかないんでな……代わりにペンネとパンでいいよな」 「いや、充分充分。旨そうだ」 「こんなの作れるんだってびっくりしたよ……いただきます」  メインの大皿はクジェ・ナ・パプリツェ( Kuře na paprice )という、鶏肉のパプリカクリーム煮。クネドリーキの代わりに大蒜とバターで味を整えたペンネが添えられ、薄くスライスしたフレバ(Chleba)は別にバスケットに盛られていた。そしてテディの好物であるスマジェニー・スィール( Smažený sýr )プラハハム(Pražská šunka)ザワークラウト( Kysané zelí )。キッチンから出てすぐのところにあるテーブルで向かい合い、三人はビールとミネラルウォーターで乾杯をした。スタロプラメンの瑞々しい黄緑色と、マットーニの若竹のような淡いグリーンが並ぶ。見慣れた光景だ。 「美味しい……」 「うん、さすがユーリだ。旨い旨い」 「本気で云ってるか? クリーム煮はテディが仕上げたんだぞ。旨いだろ」 「そうなのか。すごいじゃないかテディ」 「かき混ぜてただけだけど……」  なんとかテディが元気を取り戻してくれたようで、ルカはほっとしていた。テディは料理が得意ではなかったが、自分と違って作るのが嫌いなわけではないのだろう。照れくさそうに、だが嬉しそうに黙々と料理を口に運んでいるのを見ていると、テディが記憶を失っているなど悪い夢だったのじゃないかと思えてくる。  しかし―― 「ごちそうさま。本当に美味しかった……すごいね、どこかで習ったの? 料理」  よく知っているはずのそんなことをテディが尋ねると、一気に現実に引き戻される。ユーリの顔にも複雑そうな色が浮かんだが、彼はすぐににっと笑みを浮かべ、答えた。 「……ホスポダで働いてたんだ。まあ、もともと料理は好きだったけどな。おまえと初めて会ったのも、店で仕事をしてるときだった……憶えてないか?」 「そう、なんだ……、ごめん」 「うん、謝ることはない。ゆっくりな」  ビアマグをユーリが呷る。ルカがなんとなくじっと見つめていると、目が合った。スタロプラメンのボトルはもう空だった。立ちかけたユーリを止め、ルカは「俺が取ってくる」とキッチンへ向かった。  ――悪いことをしたかも、と思った。  本当は、力強くテディを抱きしめて、おまえは俺の恋人だ、俺はおまえのファックバディだと云いたいだろうな、と思った。混乱させてはいけないと、テディにはオープンリレーションシップのことは話していないのだ。だからユーリは、今はテディにとってバンド仲間でしかない。  自分だって、寝室のベッドをテディに譲り今はゲストルームを使っているが、それは自分たちについて憶えていないテディのためというよりも、自分を抑える自信がないからだ。性衝動とは微妙に違う。深く繋がり、躰で思いださせたいという気持ちが暴走しそうになるのだ。もちろんそんなことはできない。絶対にしてはいけない。トラウマになっている出来事が出来事なのだから、下手をすればテディは完全に壊れてしまうだろう。  ユーリは自分よりも短気で、激情家だ。きっと同じようなことを思い、ひたすら堪らえているのではないか。ルカはそんなことを考え、ユーリを頼ったことを少し後悔していた。 「ルカ」  その声に、はっとして振り向く。いつの間に来たのか、そこにユーリが立っていた。「ああ悪い、いま戻るところだった」と云って、ルカはスタロプラメンのボトルを二本手にし、部屋に戻ろうとした。が―― 「大丈夫か」  思いがけない言葉を聞き、ルカは途惑い気味にユーリを見た。  彼は云った。 「おまえに任せっきりですまない。今の俺はテディにとってなんでもないからな……。うっかりしたことも云えないし、そろそろ帰るよ」 「えっ……いや、泊まっていかないのか? なんだかほんとにメシだけ作らせに呼んだみたいじゃないか……」 「いいんだ。ああ、テディにはさっき云っておいたが、冷蔵庫にフレビーチェクとブランボラーク(Bramborák)が作って入れてある。明日食え。残った野菜とソーセージも瓶詰めにして漬けておいた。加熱したから一晩で食える。あっちに出てるハムも、余ったらちゃんと冷蔵庫にしまっておけよ。鍋にクリーム煮もまだ少し残ってるが、温めるときは焦げやすいから弱火でな」  まさか、いま食卓に出てるもの以外にもそんなに作ったとは思っていなかったので、ルカは大層驚いた。 「いや、まじでそんなに? ……すごいな、ほんとに……ありがとう」 「ついでだ。……こっちこそ、頼ってくれて嬉しかった。メシを作るくらい、俺にとっちゃ面倒事でもなんでもない。またいつでも呼べ」  ありがたいとか嬉しいとか――そんな陳腐な言葉では足りないなにかがじわりと沁みてきて、ルカはきゅっと目を閉じた。  自分で思う以上に、精神的にいろいろ堪えていたのかもしれない。俯いたままルカが返す言葉を探していると、大きな手が背中をとんとんと叩くのを感じた。 「きついだろうが、テディのこと、頼んだぞ」 「……ああ」  ハグに応え、ふたりしてキッチンを出る。テディはバスルームにでも行ったのか、席にはいなかった。よろしく云っておいてくれとリビングを出るユーリを見送るため、ルカもエントランスについていく。  ドアの前で室内履き(バチコリ)から靴に履き替えながら、ユーリが独り言のように呟いた。 「なあ、俺は思うんだが……テディにとっては、なにも思いださないままのほうがいいんじゃないか……?」 「え――」  それ以上はなにも云わず、ユーリはじゃあ、と片手をあげて帰っていった。  なにも思いださないまま――記憶を失った状態で、受けるたびに精神的に不安定になるセラピーももう受けずに、今のまま?  考えもしなかった選択肢に、ルカは茫然としてぱたんと閉まるドアを見つめていた。

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