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scene 13. モノクロームのふたり

 ジェシの生まれ育った街、マンチェスターはロンドンから約二百七十キロ北西に位置している。空路ならおよそ一時間、鉄道なら二時間ちょっと、バスなど陸路では五時間以上もかかる距離である。  テディの入院中、ロンドンからプラハへ皆が一足先に戻ることになったとき、ジェシは今も家族が暮らしているそのマンチェスターに寄ってから帰ると云って、ひとり別行動をとった。  生まれ育った家で両親や弟妹たちとの久しぶりの再会を果たしたあと、少々苦手だが行かないわけにはいかない祖母の家も訪ねた。祖母は世界的大スターになった孫を自慢するため、あちこちに電話をかけた。そして大勢の親類縁者がやってきた。またか、とジェシはうんざりしつつもそれに付き合う羽目になった。毎度のことなのだ――もうこれはマンチェスターに帰ってきたときの、儀式のようなものかもしれない。  次から次と来訪する、名前も顔もうろ覚えな遠い親戚たちへの応対に疲れきったジェシが、学生時代まで使っていた自分の部屋のある家にやっと戻れたのは、もう夕食時のことだった。  食事をしながらまたいろいろな話をし、自室に戻るとジェシはワッツアップ・メッセンジャー( WhatsApp Messenger )で、事務所のウェブ担当スタッフであり、プライベートでは恋人のエリーに連絡をした。 『Jesse(ジェシ):僕だけ帰るのが遅くなってごめんね。いまマンチェスターの家にいます。またいっぱい親戚を呼ばれちゃって、えらい目に遭ったよ』 『Eliska(エリシュカ):実家に帰った、良いこと。どうぞごゆっくり』 『Jesse:ありがとう。:-)) お詫びになにかお土産を買って帰ります。なにか欲しいものはありますか?』 『Eliska:特にない。けど』 『Eliska:学生の頃の制服、まだあるなら持って帰ってきてほしい』 『Jesse:制服? たぶんまだあるけど、そんなのどうするんですか?』 『Eliska:見たいだけ』 『Jesse:わかりました、探してみますね! それだけ?』 『Eliska:うん。帰り、気をつけて』  よくわからなかったが、まあいいかとジェシは自分が暮らしていた頃のままの部屋を引っかき回し、目当ての制服と、昔使っていた一眼レフカメラをみつけた。  Y11(11年生)のクリスマスに、母からお下がりのデジタルカメラをプレゼントされ、使わなくなってしまったフィルム式のカメラである。USB接続やSDカードの差し替えによって、撮った写真が簡単にPCで管理できるデジタルカメラと違い、フィルム式はフィルム代や現像代がかかるので、小遣いの限られた学生の自分はすっぱりと使わなくなったのだった。  うわあ懐かしいな、と思わず手に取り――中にフィルムが入ったままなことに気づいて、ジェシはあっと声を漏らした。  そういえばデジタルカメラに切り替える前、こっちのカメラからフィルムを出して現像した憶えがない。ということは、中のフィルムにはロンドンの学校で撮った、出逢ったばかりの頃のルカとテディの姿が焼き付いているはずである。 「ああ、しまった。感光……はしてなくても、褪色はしちゃってるだろうなあ……」  現像せずに長年放置したフィルムは、温度や湿度、日光などによって劣化し、色の再現に著しい影響が出てしまう。ただ学校内を撮っただけなら、もうしょうがないなと諦めてしまうところだが―― 「本職に頼んだほうがいいかな」  写真家である母に現像を頼み、デジタル化してカラーバランスを調整するのがいちばんいい方法だろう。うまくいかないようならモノクロームにしてしまってもいい。どうせ昔の写真なのだし、セピア調にしたりするのも味があっていいかもしれない。  そう決めるとジェシは、他にもなにかあるかなとクローゼットの奥を這うようにして覗きこんだ。        * * * 「――へえ、だから白黒なのか。うん、これはこれでいいんじゃないか?」 「私はこっちのセピア調のほうが好きよ。旧い映画のピンナップみたいでかっこいいじゃない」 「おまえはこの頃から生意気そうな顔してんな、ルカ。テディはおとなしそうで可愛いが」 「うるせえ(Shut the fuck up)」  煉瓦造りの校舎を背景に、制服姿のルカとテディが笑いあっている。他にも音楽室でピアノを弾いているルカ、窓辺で煙草を吸うテディなど、八枚のモノクローム写真には、まるで映画のワンシーンのようなふたりの青春が収められていた。  懐かしい写真が出てきたので持っていきますね、とロニーに電話をかけると、じゃあみんなでランチでも、ということになった。皆にはロニーが連絡をしてくれ、ジェシが事務所に来た頃にはもうルカとテディ以外は全員揃っていた。  等間隔に並ぶ窓を背にロニーの大きなデスクと、洒落たキャビネットやシェルフの置かれたオフィスは、広い空間を区切ることなく来客時にも使える大きなテーブルとソファが設置されている。八人ほどが楽に坐れるサイズだが、その席を埋めるのは専ら客人よりも、飲んだり食べたりのために集まったバンドメンバーとスタッフたちのほうだった。  ルカとテディのふたりは少し遅れてやってきた。ルカはなにも云わなかったが、テディはなんだか浮かない顔をしていて、少し調子が悪そうだった。持ってきた写真を順に見せながら、ロニーやドリューと彼が話している隙にルカに訊くと、やはりセラピーの影響で不安定になっているらしい。  それもあって、最初はレストランにでも行こうという予定だったのをロニーはスマートフォン片手に皆と相談し、インド料理のデリバリーに変更した。チキンティッカマサラやシークケバブビリヤニ、チーズやガーリックのナンとチャナカチュンバルにサモサなど、人数分以上にたっぷりと注文する。 「――でも、催眠療法(ヒプノセラピー)ってもっと効果があるものかと思ってたのに……なんだか大変なのね」 「いえ……俺が、だめなんだと思います……。勇気がないとか、覚悟が足りないとか……」 「そんな。催眠術にかかってるあいだのことなんだから、そんなこと考えたってしょうがないでしょ? 大丈夫よテディ、無理しないで、ゆっくりね」 「はい……」  配達を待つあいだ、なんとなくそんな話になっていたが、テディの鬱ぎようは思った以上に深刻なようだった。無理しないでゆっくり、と云われたあと、彼はちら、と隣に坐っているルカの顔を盗み見た。  それが妙に気になり、ジェシはそれからもテディの様子をさりげなく窺っていた。  そして数十分後、デリバリーが届き事務所内にはスパイシーな香りが充満した。大きなテーブルを埋め尽くすほど並べられたインド料理を、一同はたわいも無い話をしながら一時間ほどかけてゆっくりと堪能した。  もう何本めかのビールを空けたユーリが、ふう、と息をついて席を立ち、ルカに向く。 「おいルカ。一服つけてこようぜ、付き合え」  食後の一服かと思ったが、ルカは煙草を吸わないのでおかしいなと、ジェシはユーリを見た。ユーリの出している一服のサインは、人差し指と中指ではなく、人差し指と親指で抓んでいるそれだった。それに気づいてか、ロニーが顔を顰めてぼやく。 「もうユーリったら。こんなときくらい控えなさいよね」 「まあまあ。いいだろ別に」 「まったくもう……。ああテディ、アップルタイザーはもういい? お水にする?」 「いえ、もういいです」  そういえば、以前はいつもテディとふたりで喫煙室に籠もってたなあ、とジェシは思いだした。そして、ふと違和感に気づく。  部屋を出ていくユーリとルカの後ろ姿を見やってから、ジェシは云った。 「違いますよ……。ルカはこんなときにこんなふうにテディをおいて、ジョイント吹かしに行ったりする人じゃないです。きっとなにか話があるんだ……」 「話? ……ユーリがルカに、ってこと?」  ジェシは頷いた。すると、ドリューも顎に手をやりながら、何度か首を縦に振った。 「それなら、なんの話か想像はつくな。……喧嘩にならなきゃいいんだが」 「えっ、喧嘩!?」 「あの……それって、なにか俺のことでっていう……」  不安そうに云うテディに、ロニーはううんと首を振った。 「大丈夫よテディ。あなたはなにも心配しないで、自分のことだけを考えてね」  しかし、その言葉を聞いてテディはますますその表情を曇らせた。 「なぁに、どうしたの? テディ、なにか心配事でもあるの?」  ロニーがそう尋ねると、テディは俯き、ゆっくりと話し始めた。 「……俺、セラピーもうまくいかなくて……、なんにも思いだせそうになくて……」  テーブルの端に置いたままの写真に目を落とし、独り言のように彼は続けた。「こんな歳の頃から、ずっとルカと一緒にいたのに……、俺はなにひとつそのことを憶えてないんだ。それが……申し訳ない気持ちだし、なんだか哀しい……、すごく悔しいんです」  テディが顔をあげる。その瞳が潤んでいるのを見て、ロニーがまあテディ、と隣に移動し、そっと腕に触れながら優しく云った。 「そんなふうに感じるのもしょうがないかもしれないけど、でも今は焦らないで。まだ一ヶ月も経っていないんだもの、そのうちきっとなにかの拍子に思いだすわよ」 「でも、もしもずっと思いだせないままだったら? いつまでルカが待っててくれるのかわからない。俺はテディって呼ばれてるけど、写真の中にいるルカの恋人の、何年もずっと一緒だったテディじゃないんだ。ルカは待ってるんだ、なにもかも思いだした、本当のテディを……! こんな、なんにも憶えてない俺じゃないんだ……!」  だんだんと声を荒げ、涙を溢して顔を伏せてしまったテディに、ジェシはショックを受けた。こんなテディを見たのは初めてのことだった。ロニーも同じだったらしく、途惑った様子でテディの背中を撫で摩っている。 「……なんだかほんとに僕らの知ってるテディじゃないみたいですよね。で、喧嘩って……どういうことですか、ルカとユーリがいったいなんで喧嘩するかもって思うんです?」  ジェシは小声でドリューに尋ねたが、彼はらしくもなく、うーん、と考えこむように腕を組み、暫し黙ってしまった。 「ユーリの考えそうなことも、ルカがどう思うかってのも想像はつくんだが……、予想どおりにあいつらが意見をぶつからせていたとして、俺はどう云ってやればいいのかわからないんだ」 「どういうことですか?」  ドリューがいったいなにが云いたいのかよくわからず、ジェシは聞き返した。すると彼はなにやら困った表情で、ロニーに慰められているテディを見た。 「俺が、俺自身のスタンスをわかっていないから、だな……」  やっぱりよくわからない。ジェシが首を傾げていると、いつの間に近づいたのか、少し離れて坐っていたはずのエリーがソファ越しに袖を引いてきた。えっ? と振り返り彼女の顔を見ると、エリーはジェシの肩に手を置き、耳打ちをした。 「テディ、自分に嫉妬してる」 「え? どういうことですか」  意味がわからず聞き返す。 「テディ、ルカに恋してると思う。記憶を失う前の自分に嫉妬してる。私、わかる」  云われてみて、それがすぅっと胸に落ちた。確かにそうかもしれない。 「でっ、でもそんな……記憶が戻っても戻らなくても、テディはテディなのに――」 「本当にそう思う?」  エリーの言葉に、ジェシは一瞬ぐるりと思考を巡らせ――ゆるゆると首を横に振った。  相変わらず甘いものが好きだし、ベースも弾くことができた。今のテディも記憶を失う前のテディも口数が少なくおとなしいなど、変わっていないところはたくさんあるようだが、やはり違うとジェシは思った。  テディはおとなしく見えても突然、突拍子もない行動をしたり、妙に悪知恵が働いたり狡猾なところがあったりもして、そのついつい庇いたくなるような弱々しい見た目からは想像もできないほど(したた)かだった。しかも、こんなふうに人前で泣いたりする人でもない。陰でこっそり泣いたあと、ひとりで抱えこんでなんとかしようと足掻く人だ。  ――今のテディは、本来持って生まれた性格に戻っているのかもしれないが、やはり自分たちの知っているテディではないのだ。  ぐすっと涙を拭うテディを見やりながら、あらためてそれを確信する。すると、その様子を黙って見ていたドリューが、さて、と立ちあがった。 「やっぱり、あっちの様子を見てくるか。わからんなりにも殴り合ってたら止めなきゃいかんからな」  ええっと声をあげたロニーに、ジェシは僕も行きます、テディをおねがいしますと云って、部屋を出るドリューに続いた。

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