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scene 14. I'm Looking Through You

 喫煙室に入ると、ユーリはポケットを探りながらちらりとルカを見やり、「まじで吸うか?」と訊いた。 「おまえは好きにしろよ、俺は要らない。なにか話があったんだろ? あんまりテディを放っておきたくない。さっさと済ませろ」  ルカはそう答えながら、壁際に置かれているソファにどかっと腰を下ろした。わかった、と頷き、ユーリはジョイントではなく紙巻煙草の赤い箱を取りだした。 「こっち、吸っていいか」 「換気扇」  云ったとおりにユーリは換気扇のスイッチをオンにし、灰皿を引き寄せ、ルカと少し離れた位置に坐った。ジッポーをかしんと開き、慣れた手付きで煙草に火をつける様子を見やりながら、ルカはユーリが口を開くのを待った。  ふーっと煙を吐き、こっちを見ないままユーリは云った。 「……記憶の戻りそうな兆しは、少しはあるのか」 「今のところ、ない」 「医者はどう云ってるんだ」 「なにも変わらないよ。焦らずゆっくり、余計なストレスをかけないようにって感じで。セラピー以外、これといってできることもないしな」 「そのセラピーがいちばんのストレスになってるように見えるのは、俺の気の所為か?」  きたか、とルカは思った。ユーリが自分を一服に誘うなど、初めからなにか話があるのだとわかっていた。そして今から彼が云うことも、ルカは察していた。 「いや。……セラピーに行くたび、テディが調子を崩してることは確かだよ」 「ならもうやめさせろよ。セラピーだなんて、ほんとに効くかどうかわからんもんのために、なんでテディがつらい思いをしなきゃいけないんだ……もう自然にまかせときゃいいじゃないか」  先日、記憶を思いださないままのほうがいいんじゃないかと云われてから、ルカもずっとそのことを考えていた。しかし―― 「でも、それでずっと記憶が戻らないままだったら? バンドはどうなるんだ? ベース、なんとなくでも手が憶えてるのか、弾けなくはないみたいだったけど、また一からやり直すつもりか?」 「おまえ――」  少し表情を険しくし、ユーリが自分に向いた。「なにがいちばん大事なんだ。バンドか? テディじゃないのか? 俺は、このあいだの様子を見る限り記憶が戻らなくても演奏はできるんじゃないかと思ってるが、もしもそれが無理だとしたってかまわない。バンドのことなんかどうにでもなる。これだけ売れちまったんだ、やめるわけにはいかないだろうが、ベースくらい代わりを入れたって俺はいいと思ってる。とにかく、まず考えるべきなのはテディのことだ……そうだろ? テディがなんの問題もなく平穏に、幸せに過ごすことがいちばん大事なことなんじゃないのか? 俺は――」  一気に捲したて、伸びた煙草の灰にふと気づいて灰皿へ落とすと、ユーリは云った。「俺は……テディにはもう記憶を取り戻さないで、今のままでいてほしいと思ってる」  はっきりきっぱりとそんなことを云われ、ルカはさすがに驚いた。記憶など戻っても戻らなくてもどっちでもいいじゃないか、くらいに云われる程度だろうと思っていたのだ。 「今のまま? ずっとなんにも思いださないままでいたほうがいいって云うのか?」 「ああそうだ。おまえ、テディが記憶を取り戻すってのは子供の頃の性的虐待や、イビサであったことをなにもかも思いだすってことだぞ!? どうせセラピーがうまくいかないで、受けるたんびにテディが鬱いでるのもそのあたりに原因があるんだろう? だからもうやめちまえって云ってんだ、なんで思いださせなきゃいけないんだ!」  口調は荒かったが、ユーリの声は悲痛だった。思わず返す言葉に詰まり、ルカはぐっと唇を噛んだ。 「……わかってる。おまえに云われなくたって、そんなことくらい俺だってわかってるよ。けど俺、どうしてもそんなふうに思いきれないんだ……。あいつは相変わらず甘いものが好きだし、カフェオレに入れる砂糖の数も四つだけど、でもミステリは読まないし、ストーンズを聴かせても無反応なんだ……。憶えてないからってだけなのか? おとなしくて素直で、まるっきり子供みたいだけど、あれはあいつの本当の姿なのか? 今のままのテディがテディなら、俺を散々困らせたあのテディはいったいどこに行っちまったんだよ……!!」  自分が涙声になっているのがわかった。しかし、いったん溢れさせた本音はもう、ルカには止められなかった。 「おまえの云うとおり、テディにとっては思いださないままのほうがいいのかもしれない……! でも、俺はどうしても十年以上ずっと一緒に過ごしてきた、あのテディを取り戻したいんだ! 自分がこんなエゴイストだなんて、今までちっとも思ったことなかったさ……! でも、やっぱり今のテディは違うんだ……!!」 「この自己中野郎が、勝手なこと抜かしやがって――」  拳を握りしめユーリが立ちあがった。それをじっと睨んだまま、ルカは動かない。腕を振りあげ、ユーリがルカに一歩近づいた、その瞬間だった。 「ユーリ、待て!」 「ストップ!! 暴力はいけません、ストーーップ!」  ばんっと勢いよくドアを開け、ルカの顔面に振り下ろされるところだった拳を、ドリューとジェシが止めた。 「まったく。案の定だったな、間に合ってよかった」  がっちりと掴まれた手を振り解き、ユーリが舌を打つ。 「なんだ、いつからいた」 「ついさっきだ」 「でも、すみません。少しだけ聞いてしまいました……。ユーリ、僕はルカの云うこと、わかります。このまま思いださないほうがいいなんて、僕は反対です」  ジェシがそう云うと、ユーリは怒気を顕にして声を荒げた。 「おまえになにがわかるんだ! ルカもおまえも、苦労も不幸も知らねえからそんなことが云えるんだ!! 死にたくなるほど厭な目に遭ってないおまえらにはわかんねえんだよ!」 「そうかもしれません! でも、ユーリの気持ちはわかりますよ、僕だってテディにつらい思いはしてほしくないですよ、あたりまえでしょう! ……だけど、テディは苦しいかもしれないけど、それでも今のまま記憶が戻らなくていいなんてことはないはずです! テディにはつらくて思いだしたくない厭な記憶がいくつもあるのかもしれないけど、でもそういういろんなことを乗り越えてきたテディが、僕らの知ってるテディなんじゃないんですか!! ユーリだってそうでしょう? 僕らにはなんにも話してくれたことはないけど、ユーリにもいろいろあったから、いま僕らにとって頼りになる存在でいてくれてるんじゃないんですか!  ……ドリューだってロニーだって、みんなそうなはずです。いいことばかりじゃなかったけど、だからこそみんな学んで、強くなって、成長してきたんです。……僕は、音楽室でいろいろ教えてくれた、僕の知ってるテディに戻ってきてほしいです。大丈夫ですよ、テディってああ見えて、実はすごく強い人じゃないですか」  ずっとジェシを睨みつけていたユーリの表情が崩れた。ふらりと後退り、さっきまで腰掛けていた位置にゆっくりと腰を下ろし、ユーリは力が抜けたようにがくりと項垂れた。  それを見つめ、ルカは云った。 「……ま、セラピーに関しては、もしもテディが嫌だって云いだしたらやめさせて、他の方法を考えるさ。でも、そうじゃないなら俺はあいつを見守って、いろいろ見せたり話したりして、記憶が戻るように一緒に努力するよ」  いったん言葉を切り、今度はジェシをほうを向く。「……ジェシ、ありがとう。実は俺も、テディの記憶が戻らなくてもいいんじゃないか、もうどう転んでも、とにかくテディが楽なように考えてやったほうがいいんじゃないかって、ちょっと思ってた。迷ってたんだ、バンドのこととか俺とのこととかもいろいろ、頭のなかでぐるぐるしてて……。でも、ユーリとジェシの話を聞いて、やっとわかったよ。やっぱり、テディはなにもかも思いださないとだめだ。子供の頃に厭な出来事があったからって、母親の想い出まで失ったままでいいわけない。他のことだって同じだ、ちゃんとこれまでのこと、ぜんぶ思いだしてもらうさ。思いださせて、音楽への情熱も取り戻させて、またバンドで一緒にやっていってもらわなきゃ困る。あいつだって、バンドはなにより大事なもののはずだしな」  ルカはきっぱりとそう云いきり、再度ユーリに向き直った。ユーリは上目遣いにルカを見つめ、苦い笑みを溢した。 「……共有した時間の差、か。俺のほうがエゴイストだったらしいな……わかった。俺も本音を云えば、他のベーシストなんて考えられない。あの最高の相性の、リズムコンビネーションの相棒としてのテディを取り戻したい。テディがきつい思いをするときは目を逸らさないで、俺もサポートする。おまえばかりに背負わせねえよ」 「……またメシ作りに来てくれよ」  そう云ったルカに、ユーリはふっと笑って頷いた。  そしてテディは週に二度のペースでセラピーへ通い続け、ルカはそのたびに精神的に不安定になるテディを支えた。ユーリも二日おきくらいに食事を作りにやってきて、その翌日には三人揃って事務所やスタジオに顔を出したり、想い出のある地をドライブがてら訪れたりした。  だがテディが記憶を取り戻しそうな兆しは、なにもないままだった。  そしてそのうち雨の日が続き、さすがのルカもセラピーのある日以外はテディを連れ出さず、家で静かに過ごしていた。病院へ行くときは、駐車しているところまで歩くだけでも濡れてしまうので、愛車は出さずタクシーを利用し、ふたりで傘をさして乗りこんだ。 「雨、やみませんねえ。もう五日以上も降り続いてる」  運転手がそんなことを云った途端、雨はやむどころか(たらい)をひっくり返したように勢いを増した。  ばらばらと音をたて、車体を激しく叩きつける雨。赤信号で停車したタクシーの中、急に発作を起こしたようにテディが悲鳴のような声を漏らしながら暴れだし、意識を失ったのは、五月三十日のことだった。

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