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scene 19. 合流
ジェシはエリーを迎えに行って一緒にミニ・クーパーで、ユーリは寄るところがあるからひとりでトラムかバスを利用して行くと云うので、愛車のフィアット500を出したロニーは途中でドリューだけを拾い、ターニャとマレクの待つ病院へ向かおうとしていた。
正午になる少し前から、雨はますます激しさを増していた。とはいえ、ずっと降り続いていた所為で慣れてしまっているのか、それともハリケーンのように暴風を伴っていないからなのか、あまり危機感を覚えてはいなかった。しかしラジオでは各地の降水量や、河川の状態についてひっきりなしに報じ、一部地域では避難が進められていることを伝えている。
運転しながらそれを聞いていたロニーは――好奇心と奇妙な高揚感に負け、向かっている病院とは反対の方向へと道を折れた。
「どうしたロニー。病院はそっちじゃないだろう?」
リアシートに淡いピンクのリボンが飾りつけられた大きなダイパーケーキ の包みを乗せ、その横に坐っているドリューが、窓の外を見て云った。
「うん……ちょっとだけ、川の様子を見てみたいなって思って」
「危ないぞ。ちょっと雨が降ってるだけだと思っても、川は別だ。上流やいくつもの支流から合流して水嵩が増えるんだ。近づかないほうがいい」
「え、でも……ほんとに氾濫したりする?」
「確か十年くらい前にも洪水が起こってるんじゃなかったか。それに、どうせ警官に止められる。戻れ」
「んー、止められたら戻るわ。行けたら、写真を一枚撮りたいのよね。撮れたらね」
そう答え、バックミラーを見るとドリューの呆れたような顔が見えた。ロニーは苦笑しながらも、そのままヴルタヴァ川のほうへ車を走らせた。
いつもなら観光客で賑わっている道を通り抜け、ロニーはカレル橋のほうへと向かった。観光客らしき人影はまったくないわけではなく、予想に反して旧市街橋塔 に近づくほど増えていった。ロニーと同じように川の様子を見ようとしている者は少なくないようで、傘を手に川のほうを向いて立ち止まっている人影がずらりと見える。警官や軍人の姿も多く、誘導棒を振り回しながら離れろと注意をしている様子が窺えた。
「……こっちはだめそうね」
「諦めろ。どこも同じさ」
しょうがないわね、とロニーは警官たちのいないほうへと進み、細い舗道を通り抜けた。そして広い交差点へと差し掛かると――病院の方向には曲がらず、そのまま真っ直ぐに進んだ。
「ローーニーーー……」
「ごめん! この先でちょっとだけ川の見えるところへ出たら、もう戻るから――」
ロニーは商店が建ち並ぶ、趣のある古い建物に挟まれた細い舗道を走り続けた。ドリューが大きく溜息をつくのが聞こえ、ほんとにすぐだから……と言い訳を呟く。するとそのとき――
「ロニー、ストップ。ちょっと車を停めてくれ」
「え? なに、どうしたの」
ドリューに云われたとおり、ロニーは車を停めた。ばらばらと車を叩きつける雨音のなか、ドリューがドアを開けて外に出る。何事かと思い、ロニーも窓を開けて飛沫 に顔を顰めながら、来た道を小走りに戻るドリューを目で追った。
するとその先に女性がふたり、傘も持たずに向かい合って立っているのが見えた。
あのふたりがどうかしたのだろうか。そう思ってロニーはじっと様子を見ていた。そして気がついた。背の高いほうの女性は靴を片方脱いで手に持ち、フットカバー を履いた足をずぶ濡れにし、石畳に爪立たせている。ヒールが折れたかどうかしたらしい。
ドリューは目が良く、細かいことにもよく気がつく。ロニーは女性たちがいることにすら気がつかなかったが、ドリューはきっと靴を手に困っているのを目にして、声をかけようとすぐに車を停めるよう云ったのだろう。ましてやこんなときである。――好奇心で川を見に行こうとしていた自分が、思わず恥ずかしくなる。
「あの! どうぞ、とりあえず車に乗って! それ以上濡れたら風邪をひいちゃうわ」
なにを話しこんでいるのか、なかなかこっちへ来ない三人に、ロニーは大きな声で呼びかけた。ようやく女性ふたりと一緒に車の傍まで来ると、ドリューは助手席のシートを前に倒してダイパーケーキをトランクに移し、リアシートに乗るよう女性たちに促した。
「狭い車だけどどうぞ。大変、タオル、あったかしら……」
「いえ、持ってます……すみません、ありがとう。でも、私たちその……」
その声に、ロニーはおや、と気がついた。背の高い女性だと思っていたのは、実はトランスジェンダー女性らしかった。
「子供さんを捜していたそうだ」
え? とロニーはドリューに向き、そしてリアシートのふたりを振り返った。
「子供さんを? えっ、はぐれたんですか? こんなときに――」
云いかけて、しまったと慌てて口を噤む。こんな状況のなか子供と離れてしまうなど、云われるまでもなく何度も繰り返し悔やんでいるだろう。他人が追い打ちをかけるべきではない。
彼女は髪や肩などを拭っていたタオルで顔を覆い、うぅっと声を詰まらせた。
「私の所為で……、私が勝手だったばかりにアンディが……!」
「川のほうへ走っていったんです……! 私たち、すぐに追いかけたんですけど見失ってしまって……!」
小柄な女性のほうも泣きだしてしまい、ロニーは慌ててふたりを落ち着かせようとした。
「泣かないで……ええっと、子供さんはいくつ? はぐれたのはどのくらい前なの?」
「……今日、十二になったばかりの……男の子です。名前はアンディ」
「デニムパンツにオレンジ色のTシャツと、青いウインドブレーカーを着てます。はぐれたのは今から十二、三分ほど前です……背は、私に似てあんまり高くない……」
うぅっと嗚咽を漏らす女性を、トランス女性が肩を抱いて支えた。ロニーは「わかったわ。その辺りに警官がたくさんいるから、特徴を云って捜索をお願いしましょう」と云って、ふたりに頷いてみせた。
「はい、ありがとうございます……!」
それにしても、このふたりはどういう関係なのかしら、とロニーは考えていたが――それまで黙っていたドリューが「大丈夫。息子さんはきっとみつかるよ」と声をかけ、トランス女性のほうが「ありがとうございます……!」と答えたのを聞いて、ああ、と腑に落ちた。
女性の恰好をしているが、この人は父親、このふたりは夫婦なのだ、と。
* * *
ヴァーツラフ広場の傍にある玩具店で、ユーリは幼児用のドラムやタンバリン、マラカスのセットを購入した。
大きなプラスティックバッグの中にはポップでファンシーな模様の包装紙に包まれた、ダリアの花のようなリボンが飾られた箱が入っている。出産祝いにはまだ早いプレゼントだが、ユーリには他のものを思いつけなかった。
そういえば産まれたのが男の子か女の子か聞いていないが――どっちだって関係ないか、とユーリは思った。カレン・カーペンター、ジョディ・リンスコット、シンディ・ブラックマンなど、素晴らしい女性ドラマーはたくさんいる。本人が気に入りさえすればそれでいい……まあ、まだまだ先の話だろうが。
ギターやピアノと違い、ドラムは叩くだけでいいのだ。小さい子に触れさせる楽器としてはいちばんなはずだ。それに、なにをやるにしてもリズムは大切だ。
そんなことを考えながら、ユーリは左手に傘を持ち、右手にプレゼントを下げてバス停を目指して歩いていた。玩具店に入る前よりも雨は激しくなってきていて、タクシーを呼べばよかったかと少し思う。生まれも育ちもプラハのユーリは、トラムやバスの便利さに慣れているうえ、タクシーは呼んでもなかなか来ないことをよく知っているのだ。しかし――
「……あんまり、歩くのに向いた天気じゃねえな」
ちょっとぼやくように呟いたとき、自分以外にもうひとり、歩いている人影をみつけた。
通りの向こうからこっちに向かってくるその人影は、まだまだ離れているのかと思いきや、実際は背が低いために遠く感じただけだった。背が低いというか――子供だ。男の子だ。
十歳かそこらくらいの子供が、警報まで出ているこんな天候の日に、ひとりで傘もささずに歩いている。
そう思った瞬間、ユーリはその場に立ち止まって荷物を左手に持ち替え、すれ違いざまにその青いウインドブレーカーを着たその子の肩をがしっと掴んだ。
「おい、ひとりか? 親は一緒じゃないのか、今日はこんなところをひとりでうろうろしてちゃだめだ」
するとその男の子はユーリの右手を振り解き、いきなり走りだした。
「おい!」
ユーリはプレゼントの袋も傘も放って駆けだすと、あっという間に追いつき男の子を捕まえた。そして、まるで山羊飼いがはぐれた仔山羊を捕まえたかのように、ひょいと腕一本で腹を抱えて歩きだす。
「離せ!! なんだよ人攫い! 誘拐犯! ヒトゴロシ!」
「うるせえ喚くな! 洪水になるかもしれねえってのに、ガキがずぶ濡れになってひとりで歩いてんのを見過ごせるわけねえだろうが! おとなしくしやがれ!!」
ひとさらいー、ひとごろしーと喚く子供を片手にぶら下げたまま、ユーリは舗道に放りだしたプレゼントと傘を拾うため、来た道を戻った。
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