19 / 29
scene 18. 長い一日の始まり
未明に救急車で病院に運びこまれたテディはすぐに鎮静剤を投与されて眠り、ルカもそのまま処置室で朝まで過ごした。
椅子に腰掛けたままベッドに突っ伏して眠っていたルカは、そっと髪を撫でられるのを感じて目を覚ました。微かに耳を刺激しているノイズは、どうやら降り続いている雨の音らしい。ルカは少しずつ覚醒してきた頭を起こし、部屋のなかを見まわした。
鶸色 の薄いカーテンが掛けられた部屋はぼんやりとした明るさで、まだ夜が明けたばかりかと思ったが、ポケットからスマートフォンを出して時計を見るともう六時半を過ぎていた。ルカはうーんと躰を伸ばし、半身を起こして自分を見つめているテディに微笑んだ。
「おはよう」
「おはよ、ルカ……昨夜はごめん」
いきなり謝罪の言葉を口にしたテディに、ルカは素っ惚けた顔で「なにが?」と応えた。
「そんなふうに気を遣ってくれなくていいよ……半分夢みたいな感じだけど、いちおう憶えてるから。迷惑かけちゃって、本当にごめん」
「謝ることなんかないさ。謝るのは俺のほうかもしれないな……薬を飲ませればいいことだったのに、大袈裟に救急車まで来させちまって」
テディの右腕に巻かれた包帯が痛々しい。が、傷の手当に必要だったというよりも、また掻きむしらないようにするための処置だろう。すっかり落ち着いた様子のテディに安心し、ルカは喉が渇いたなと処置室を出て自動販売機を探した。
ボルヴィックと7UPを買って戻ってくると、看護師がベッドの傍に立ち、テディと話をしていた。
「ああ、ブランドンさん。入れ違いだったのね……パンを買ってきたから、よかったら朝食にどうぞ」
見ると、テディはベーカリー・レトナー と記された紙袋を抱えている。気づくと同時に、焼きたてのパンのいい匂いが鼻を擽った。
「あの時間に来るとここの朝食にはありつけないからね。このお店知ってる? 夜中もやってるんで、私たち夜勤のとき決まって買うのよ、美味しいわよ」
それを食べて、あと二時間くらいここで待っていてね。診察時間前に先生が来るはずだから――そう云った看護師にありがとうと礼を云いつつ、ルカは二時間か……と少々苦い顔をしたが。
「見て、フレビーチェクとかコブリハとか、いろいろ入ってるよ。いただこうよ」
そう明るく云ったテディに笑みを返し、ルカは再び硬い椅子に腰を下ろした。
看護師の云っていたとおり、八時四十分になるとテディの主治医がやってきた。いつものように瞳孔を見たり脈拍を測ったりなどの診察をし、今はテディが落ち着いていることがわかると、もう帰られていいですよ、と医師は云った。が――
「先生、今日はレオンさん、セラピーが入っている日です」
ルカもすっかり忘れていた。やっと家に帰れるとほっとしていたところで看護師に云われて思いだし、ルカはテディに「今日はもうキャンセルするか?」と尋ねた。しかし、テディは首を横に振った。
「せっかく病院に来てるんだし、ちゃんと受けるよ」
ルカは待ちくたびれただろうから、先に帰ってていいよ。とテディはそう云ったが、そんなことができるわけがない。ましてや外は洪水警報や、非常事態宣言が出されているようなときである。
セラピーの予約時間まではあと一時間ほど、終わるまでなら三時間というところか。正直うんざりする気分にはなったが、どうせ帰ったって特にやることもない。
医師も、これまでと違うことがあったのだし、カウンセラーに会ってお話されたほうがいいですねと云った。テディはごめんね、と申し訳なさそうにしていたが、ルカは殊更軽い調子で、気にすることないさ、うとうとしてるかもしれないから、終わったら起こしてくれな、と明るく返した。
それを聞いて、二階ですけど空いている病室で休まれていいですよ、と看護師が気を遣ってくれ、ふたりは案内された部屋で時間を潰すことになった。
* * *
「そうなの!? ああ、おめでとう! それで、どっちだった? 男の子? 女の子?」
ターニャが昨日のうちに無事に出産したと、マレクから電話があった。デスクに向かって仕事中だったロニーは思わず立ちあがり、事務所中に響き渡るような声でお祝いを云った。それを聞いていたエリーもめずらしくぱぁっと笑顔になり、マレクと話しているロニーと目を合わせた。
まるで自分がなにか手柄を立てたかのように、ロニーがエリーに向かって拳を挙げてみせる。テディの事故からイベント出演を始めラジオや取材など細かい仕事のキャンセルが続いていて、さすがにうんざりした気分でいたところへの久々の吉報だった。
「――そう、じゃあ、安産なほうだったんじゃない? 初産なんだもの、もっと長くかかる人はいっぱいいるわよ。――ああ、そうよね、この天気だし警報もでてるし……そのほうがいいかもね。あ、じゃあもしそっちがかまわないなら、私たちは今日のうちにターニャに会いに行こうかしら、いい? ――ええ、だって身内の方が大勢いらっしゃるときに居合わせてもなんだし。――大丈夫よ、そっちは川から離れてるんだから――」
じゃああとで、と電話を切ったロニーに、エリーが尋ねた。
「ひょっとして、今からお祝いに行く?」
「ええ、そうしようかなって。ご両親とかお兄さんとか、身内の人たちは明日か明後日にみんな揃って病院に来るらしいの。だから、私たちはもう今日のうちに顔を見に行って、長居しないでさっと帰ろうかなと思って」
「私も行く……ジェシに連絡する。買っておいたプレゼント、ジェシの家にあるから」
「ふふ、私はここに置きっぱなしだわ。……あ、ねえ、それならもうユーリもドリューもみんな誘ったほうがいいわよね。ばらばらに次から次へと来られてもターニャ、疲れちゃうだろうし」
「……ルカは、来られない?」
「どうかしら。いちおう、連絡だけ入れておくわ」
あとからどうして自分にだけ知らせなかったって拗ねられても困るから、とロニーは冗談めかして云った。エリーもくすっと笑いはしたが、彼女が気にしているのがテディの状態であることは、ロニーにもわかった。
Eメールにしておこうかと思ったけれど、やっぱり電話にしてちょっとテディの様子を訊くことにしよう。ロニーはそう決めると、『件名:産まれたって!』とEメールを作成し、ユーリとドリュー、そしてターニャと仲のいいスタイリストたちにカーボンコピー 機能を使って送信し、そのあとルカに電話をかけた。
* * *
――なんとなく見憶えのある大きなラゲッジを開けて、テディが部屋のなかを往ったり来たりしていた。ワードローブから衣服を、シェルフから本を取りだしては詰めていくその様子に、ルカは困惑しながら尋ねた。
なにをやってる? どうするんだその大荷物、どこかへ行くのか? するとテディはこっちを向いて、困ったように小首を傾げて口許だけで笑った。
ルカ、ごめん――俺、なにもかも思いだしたんだ。ルカの云うとおりだったよ。俺はルカのこと、本当に心から愛したことなんてないんだ。愛なんかじゃない、ただの依存だった。偶々出逢ったのがルカだっただけで、俺は誰だってかまわなかったんだ。ジェレミーでもマシューでも、トビーでもマコーミックでも、ロランドでもユーリでも、誰でもさ。
だから、出ていくよ――もう、俺はひとりでやっていけるから。
今までありがとう、と云いながらテディが眼の前を横切っていく。ルカは信じられない思いでそれを止めようとするのだが、伸ばした手はテディに届かず、踏みだそうとした一歩はまるで宙に浮いているようで、まったく前に進まない。
待ってくれ、嘘だ、おまえが俺から離れていくなんて、こんなことありえない。たとえ始まりが本当に依存だったとしても、それからずっと積み重ねてきたものがあるじゃないか。そこに愛がなかったなんて、そんなはずがないだろう? ルカは懸命にテディに近づこうともがきながら大きな声でそう云ったが、その言葉がテディに届いたかどうかはわからなかった。
奇妙に自分の声が反響するなか、テディの後ろ姿がどんどん小さくなっていく。
待て、テディ……行かないでくれ、愛してるんだ。俺は絶対おまえと離れたりしない。離さないって、あれほど云ったじゃないか。おまえが本当は俺のことを愛してなかったとしても、なにもかも忘れてしまったままでも、俺の気持ちは変わらないよ……十年前と同じに今も、百年後も。だから待ってくれ、テディ……!
テディ……! 肚から絞りだすようにして叫んだつもりだった声が、実際にでていたのかどうか――ルカは名前を呼んだ瞬間、唐突に目覚めた。
真っ白い天井や狭苦しく硬いベッドに、ルカは自分がどこにいるのかわからず途惑った。半身を起こして室内を見まわし、ここが病室のベッドの上であることにようやく気づく。
ああそうだ……テディがセラピーに行ってから、少し眠ろうと思い横になったのだった。部屋は蒸し暑く、躰中が汗ばんでいる。ルカはふぅと息をつき、頸を解すように頭を動かした。
夜中にここへ来てからずっと帰れずにいる所為か、妙に躰が強張ったような感じだった。同じような体勢でほとんど動いていないからだろう。セラピーが終わってテディとここを出たら、どこかで散歩でもしようかと考えて――外はそれどころじゃないのだったなと思いだす。
まだ雨の降っている気配を窓越しに感じると、ルカはそのまま壁伝いに視線を移していき、ふと壁に貼ってあるポスターに目を留めた。『人間の身体は日々、少しずつ新しいものへと入れ替わっています』という見出しの下に、皮膚や骨、血液を擬人化したイラストで、新陳代謝についてわかりやすく描かれている。人間の細胞はおよそ六、七年程度ですべて生まれ変わるというその説明を、ルカは何の気無しに眺めていた。
そのとき、扉をノックする音がした。すぐにがらりと開いた扉から、テディが顔を覗かせる。
「お待たせ。終わったよ」
「おう、おつかれ」
セラピーのあと、いつもなにかに怯えているように不安定になることが多いテディだが、今日はそんな様子はなくルカはほっとした。よし、やっと帰れるとベッドから降りようとすると、かたん! となにかが落ちた音がした。足許に目をやってはっとする。
「あっ、しまった――」
スマートフォンだ。ニュース記事などを読みながら眠ってしまい、手から離れ腰のあたりにあったのだろう。ルカは拾いあげようとして慌てて動き、爪先で蹴飛ばしてしまった。スマートフォンはリノリウムの床の上をさーっと滑っていき、扉の前で止まった。
やれやれ、と拾ったスマートフォンを見て、ディスプレイに罅 が入ってしまっていることに大きく溜息をつく。
「あーあ、やっちまった。また新しいのに替えるか……」
買うのはいくらでも買うんだけれど、設定とかまたやらなきゃいけないのが面倒臭いんだよな……とぼやいていると、そのひび割れた画面がぱっと光った。ロニーからの着信だ。
「はい?」
『あ、ルカ、今どこ?』
「今は病院。けど、もう帰るとこ」
『そう。……あのね、ターニャ、産まれたって!』
「まじで? いつ? 今?」
『昨日って云ってた。でね、私たち、もう今からお祝い持って顔を見に行くつもりなんだけど……テディの様子はどう?』
「ん? テディはまあ、今日は――」
ロニーの質問に答えながら、ルカはずっと扉のところに立っているテディを見た。
「――テディ?」
テディはなんだか蒼褪めた顔をして、表情を険しくしている。眉をひそめ、ルカはテディ、ともう一度声をかけた。
はっとしたように、テディがルカを見る。
――その表情が何故か、今にも泣きそうに歪んだ。
「どうかしたのか? 大丈夫か?」
「……う、うん。大丈夫……なんでもないよ、平気」
そう云ってテディは首を横に振った。
「ほんとに大丈夫か? ――あ、いや、なんでもない。で、今からみんな行くのか? ユーリもジェシもみんな? ……そうだな、ちょっと待って」
様子が気になりはしたが、ルカは今からターニャの病院へお祝いに行くか? といちおうテディに尋ねた。テディはいいよ、と答えてくれたので、ルカはロニーに自分たちも行くと返事をした。
また病院か、思わないではなかったが、今度は新しい命が産まれたという、祝い事である。そうじゃなければもういいかげん勘弁してくれと云いたいところだったが、ユーリたちも皆行くというのならそれに合わせておかないと、自分たちだけだと行きそびれてしまう気がした。
「あ、なにかお祝いを買っていかなきゃいけないな……、とりあえず花でいいかな? それともフルーツ?」
「とりあえずならそんな感じでいいんじゃない? ……でも一度、着替えに帰らないと」
云われて気がついた。ルカはジーンズに、上はシャツを羽織ってきていたが、テディは寝間着にしていたラウンジパンツにTシャツという恰好だった。
「そうだったな。それに、メシだって食わないと」
「あんまりお腹空いてない。あとでいいよ」
そんなことを話しながらふたりは病院から出、待機していたタクシーに乗りこむと、いったんヴィノフラディのフラットに戻ることにした。
時刻は十二時十四分――雨はますます激しく、鉛色の空がプラハの街を覆っていた。
ともだちにシェアしよう!