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scene 17. 拒絶
豪雨による洪水被害は三日、とうとうチェコで六人、オーストリアで二人の死者が出たと報じられるに至ってしまった。
プラハでは非常事態宣言が出ており、学校はほとんどが休校、地下鉄は運行を停止した。バスも一部が運休、または路線変更などの措置がとられた。ヴルタヴァ川は更に水位が上昇、堤防沿いにあるレストランや、ナープラフカ市場の開かれる場所は腰の高さまで浸水、既に行き来ができなくなっていた。
雨の降り方は多少穏やかになっていたが、河川の周辺は依然として危険なため道路が封鎖されるなど、軍まで出動しての警戒が続いている。
他に被害が大きいのはダニューブ川沿いで、チェコとオーストリア以外ではドイツ、スロバキア、ハンガリーの一部地域に停電や断水が起こり、多くの住民に避難勧告が出されていた。
その一方でこんなこともあった――プラハを訪れていた外国人観光客がわざわざ厳重警戒中のヴルタヴァ川沿いにやってきて、カレル橋から増水した川を撮影し始めたのだ。なかには洪水を防ぐための設備を壊して記念に持ち帰ろうとするなど、非常識極まりない行動をとる者もいて、ニュースは『常軌を逸した観光客の行い』と批難した。
ミレナはニュースを見て顔を顰めながらも、鏡の前で入念に化粧をし、準備してあったお気に入りのワンピースに着替えた。
今日は待ちに待った、息子アンドリンの誕生日。プレゼントを持ってプラハに会いに行くと約束した日である。一刻も早く会いに行きたいが、待ち合わせは午後三時半の予定だった。アンドリンが学校から帰る時刻が三時頃なのでそうしたのだったが、非常事態宣言が発令され、アンドリンの通う学校も休校になっていた。
朝、ニュースを見ていてそれを知ったミレナは、少し考えてハナに電話をかけた。
「――あ、ハナ。私よ。あのね、アンディ、学校お休みになったんでしょう? だから、もしあなたに他に予定がないなら、待ち合わせを早めたいんだけど……」
『えぇ? 早めるもなにも、あなた本当に来る気!? ニュース視てないの? 警報がでてるのよ!?』
「大丈夫よ、ちゃんと道を選べば。川は確かに危なそうだけど、近づかなければ――」
『近づかないでどうやってヴルタヴァ川を渡るのよ! ばっかじゃないの!? ……あなたの気持ちもわかるけど、今日は諦め――』
ハナの言葉が不意に途切れたと思ったら、微かにママ、誰から電話? という声が遠く聞こえた。
「アンディ、アンディがそこにいるのか!? ハナ、頼む、アンディに替わってくれ……!」
受話器の向こうに暫しの沈黙が落ち、ミレナは息を詰めて待った。すると――
『パパ ?』
何ヶ月ぶりかに聞く息子の声に、ミレナは思わず眼が熱くなるのを感じた。
「……ああ、パパだよ。アンディ、元気かい?」
『うん。パパも元気?』
「ああ、元気だよ。勉強も頑張ってるか?」
『んー、まあまあね。……ねえパパ、今日、なんの日か知ってる?』
その問いに、あたりまえじゃないかと泣き笑いの表情になる。
「ああ、もちろん。……実はな、今日、そっちに会いに行くつもりなんだよ。ママから聞いてない?」
『そうなの? プレゼントもある?』
「もちろんあるとも。もう、ずっと前から用意してた」
『ほんとに? え、なに、ニンテンドー? プレイステーション?』
「いや、そういうのじゃないが……」
『なあんだ。まあいいや、そういうのは自分で選ぶほうがいいし』
じゃああとでねーとアンディの声が聞こえたあと、少しの間があって『ちょっと、なにを云ったの――』と、ハナが話し始めた。
『アンディったら嬉しそうに部屋に走って行っちゃったわよ。あなた本当に今日来るつもり?』
「行くわよ。もうアンディにもそう云ったわ。で、さっきも云ったけれど早めに行きたいの。待ち合わせようって云ってたカフェ・ルーブルで十二時はどう?」
『……まったく。しょうがないわね……云いだしたら聞かないんだから。十二時ね、わかったわ』
なんとかハナに予定時刻を早めることを――今日プラハで会うことを了承してもらい、ミレナは頬を緩ませて電話を切った。スキップするような軽い足取りで鏡の前に向かい、ブラシを手に髪を梳かし始める。伸ばしている途中のハニーブロンドはようやく肩口に届きそうな長さになり、切り揃えた毛先が自然に頸に沿って跳ねていた。
ワンピースを着ている自分を見ればハナは怒るだろうが、会って話さえできればなんとかなるだろう。アンディももう十二歳になるのだ。これが本当の自分なのだと打ち明ければ、きっと理解してくれるのではないか――ミレナは、思っていたとおりにプラハでアンドリンに会えることになった所為か、少々浮かれ気味だった。
――まさか、数時間後に予定を強行したことを後悔するなどとは、露程も思っていなかった。
クラドノからフォルクスワーゲン・ゴルフを運転すること約一時間。雨は降り続いていたが道路が冠水しているということもなく、プラハまではなんの問題もなく辿り着いた。
だがヴルタヴァ川の近くまで来ると、警察官や軍人の姿が其処彼処に見え、ちょっと物々しい雰囲気を感じた。
ニュースで伝えられていたとおり、カレル橋は完全に封鎖されているようで、ミレナは人影のないカレル橋という初めて見る景色を横目に、一本南にあるレギオン橋から旧市街のほうへと渡った。橋は通ることができたが、やはり川の水嵩は怖ろしいほど増していて、ストジェレツキー島など三つの中州の島はすっかり水没してしまっていた。
ストジェレツキー島は対岸の美しい景色を眺めながら、キャンプやハイキングなど、木陰でのんびりと過ごせると人気のスポットである。それが今や、数本の樹木が水面に梢を覗かせているだけという状態だった。
それでもミレナが思っていたとおり、川から離れ街の中心へ近づくほど厳重警戒中というような雰囲気は薄れた。雨は降っていたが豪雨というほどは激しくなく、ふつうに傘をさして歩ける程度だった。
適当なところに車を駐め、ミレナは待ち合わせ場所にしたカフェ・ルーブルへ徒歩で向かった。
カフェ・ルーブルは、嘗てアルベルト・アインシュタインやフランツ・カフカが通ったという、一九〇二年創業の歴史ある老舗カフェである。
旧市街広場からもヴァーツラフ広場からもアクセスしやすい場所にあり、営業時間が長く朝食、ランチ、コーヒーとスウィーツにディナーと、常に観光客で賑わっている。入り口はレトロな雑居ビルのような雰囲気だが、店内に入るとアール・ヌーヴォー調のインテリアにがらりと変わる。優雅さに思わず溜息が漏れるが、意外なことに歴史ある有名店にしては価格は驚くほど庶民的で、コーヒーなど流行りのコーヒースタンドより安いくらいである。
二階にあるカフェに入ると、ミレナは四人席のテーブルに入り口の方を向いて坐り、注文を取りに来たウェイターに待ち合わせだと伝えた。ランチメニューが人気な所為か、こんな天候にも拘らずそれなりの混み具合だった。
メニューを眺めながら、アンディはなにを頼むかしらと考えて笑みを浮かべる。そして不意に、足許に置いたプレゼントのことが今頃になって気になった。――アンディはこれを気に入ってくれるだろうか。
ガス入りの水を飲みながら、待つこと約十五分――。ようやくこちらに向かって歩いてくるハナと、記憶より少し背が伸びた気がするアンドリンの姿が見えた。ミレナは笑顔で席を立ち、ふたりに向かって手をあげた。
ぴた、とハナがその場で足を止めた。
やっぱり怒ったのね、と苦笑いしながら、ミレナはアンドリンに視線を移した。そしてはっと顔が強張るのを感じた――アンドリンは、信じられないものでも見たように顔をひきつらせていた。
「……なんて人なの。どうしてそんな恰好を……」
ハナが片手で顔を覆うようにして項垂れる。ミレナは「ま、まあとりあえず坐って? よく来てくれたわね、会えて嬉しいわ。アンディ、ちょっと見ないあいだに大きくなって――」
そう話しかけながらミレナが一歩近づくと、アンドリンは首を横に振りながらじりじりと後退った。
「……パパじゃない」
「アンディ?」
「知らない! おまえなんかパパじゃない!!」
ミレナに背を向け、アンドリンは店内を駆けだした。
「アンディ!」
「アンディ! 待ちなさい!」
ハナとふたりして名前を呼び、ミレナはすぐに追いかけようとした。しかし途中で料理を運んでいるウェイターとぶつかりそうになってしまい、そのあいだにアンドリンは店を出てしまった。すみません! と謝りながら慌ててふたりは店を飛びだし、階段を駆け下りた。
「もう、どうしてそんな恰好で来たの……! あの子の気持ちとか、なにも考えなかったの!?」
「考えたわよ! 考えて、もう十二歳なんだからきっとわかってくれるって……!」
「ばか!」
転がるように建物から出て、辺りを見まわす。雨で視界が悪いうえ、場所柄こんな天候でも人通りはそれなりにあり、どっちへ行ったのかと焦りながら左、右と目を凝らす。
「あ! あそこ――」
ミレナはアンドリンの走り去る姿をみつけ、指をさした。アンドリンは店を出て左のほう――ミレナがここへ来たときに通った、五つ星ホテルや有名レストランなどが立ち並ぶ広い通りを走っていた。このまま真っ直ぐ行けばやがて国民劇場が見えてきて、そしてヴルタヴァ川を渡ることになる。
「アンディ!! 待ちなさい! そっちへ行っちゃだめ!!」
カフェに着いたときよりも、雨が激しくなっていた。ふたりは濡れて滑りやすい石畳の舗道を、アンドリンに追いつこうと懸命に走りだした。
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