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scene 16. 甘酸っぱい想いと隠し持った毒
今はあいにくの天候だが、六月のこの時期、旬のフルーツと云えばまず思い浮かぶのは桜桃、さくらんぼだ。
ペトシーンの丘など、遊歩道や公園内の樹に実っている果実は、チェコでは自由に採って食べてもよいとされている。無論、果樹園や私有地のものはそういうわけにはいかないため、採ってもいい場所と旬の果実を記したマップを確認できるウェブサービス*まである。季節を彩るプラム、林檎、木苺や洋梨など、いろいろな果実を散歩しながら摘み食いできるわけだ。
ユーリは瑞々しいチェリーを1パック手に取りカートに入れると、ガキの頃はルネと一緒にあちこちで頬張って歩いたな、と口許に笑みを浮かべた。
そしてレモンをひとつ、またカートに放りこむ。カートの中には他にクリームチーズとプレーンヨーグルト、生クリームが入っていた。テディのため、チェリーをたっぷり乗せたレアチーズのタルトを作るつもりなのだ。
甘いものをあまり好まないユーリは、料理は得意だがお菓子類はこれまで作ったことがない。作ったことのある甘いものと云うと、せいぜいエギーブレッドかパンケーキくらいのものである。
今日作るのはもちろんタルトだけではない。ミラーレンズのサングラスをかけて野菜売り場を歩きながらユーリは、じゃがいもや玉ねぎ、トマトやパプリカ、大蒜などでどんどんカートをいっぱいにしていった。他にも精肉売り場では牛の塊肉とうさぎ、鶏と豪快に選んで取り、たくさんの種類が並ぶなかからソーセージやハムとチーズを選び、パンもたっぷりと袋に詰める。
いつものスタロプラメンとアップルタイザー、チョコレートやローストナッツなども追加し、山積みになったカートに駄目押しのように大きなクリスプスの袋を乗せると、ユーリはようやく会計に向かった。
「雨がひどいから無理しなくていいって云ったのに」
「雨がひどいから、黴びたパンでも齧ってるんじゃないかと思ってな」
「いや、黴びる前になくなった」
ルカの返事を聞いて、ユーリは呆れたように睨めつけた。
「俺が来なかったら、テディになに食わせるつもりだったんだ」
大荷物を抱えて真っ直ぐキッチンへ向かい、勝手知ったる手際の良さであれこれ仕舞いこみながら、ユーリはリビングのほうをちらりと覗いた。
「テディは?」
尋ねると、ルカはスタロプラメンの瓶をストッカーに片付けながら、ふっと息をついた。
「……ベッドで寝 んでる。いや、起きてはいるかもしれないけど……まだ調子が悪いんだ。ああでも、元気がないのは薬の所為かも」
「薬?」
「マイナートランキライザーがでてるんだ。飲むと落ち着きはするみたいだけど、たぶんそれの所為でぼうっとしてる」
「トランキライザー か……、好かんな。ジョイント吸わせたほうが効くんじゃねえのか」
「ばか云うな。……ありえるけど」
テディの様子が気にはなったが、顔を見るのは後にして、ユーリは早速料理に取り掛かった。
シャツのポケットから分量と手順だけ走り書きしてきたメモを取りだし、ユーリは先にレアチーズタルトから作り始めた。ゼラチンをふやかし、砕いたココアクッキーと溶かしたバターを混ぜて型に敷き詰める。そして次にクリームチーズと砂糖を湯煎にかけ、更に生クリームとヨーグルト、レモンの絞り汁、ゼラチンを加えてよく混ぜ、ココアクッキーの台を敷いた型に流しこむ。
仕上げにチェリーを乗せていこうとして、ユーリはふと気がつき、リビングにいるルカを呼んだ。
「おい、チェリーストーナーあるか?」
「ストー……? なんだそれ、あると思うか?」
「だな。じゃあ、ストローならあるか?」
抽斗の中にテイクアウェイしたときに余ったらしいストローがあり、ユーリはそれを使ってチェリーの種を取り始めた。なにやらルカがじっと見ているなと思っていると、彼は感心したように云った。
「……へえ、うまく取れるもんだな。俺いつも食いながら出してたけど」
「そのまま食べるならそれでもいいんだが、ケーキに使ったりするときは取らないとな。さくらんぼの種は有毒だし」
「えっ、毒あんのか? 知らなかった」
「滅多なことはないが、噛んで大量に食うのはだめらしい」
「へえ……そんなこと、よく知ってるな」
「……こういうことは俺じゃなくて、ルネがよく知ってたんだ。あいつ、ガキの頃ナツメグで飛べるらしいって聞いて、大量に食ったことがあってな」
「ろくでもねえな。……で? どうなったんだ」
「食いすぎて、飛ぶ前に吐いてた」
そしてチェリーをびっしりと乗せたレアチーズタルトを冷蔵庫に仕舞い、かわりにうさぎのもも肉とじゃがいもを取りだすと、ユーリは鍋に水を入れて火にかけ、てきぱきと作業を続けた。
テディは、いちおうはダイニングに来て席についてくれたが、食欲はほとんどないようだった。サラダとハム、チーズを少しだけ食べ、うさぎのもも肉のローストには手もつけなかった。
ルカは明日食べるよ、と気を遣ってくれたが、ユーリはまったく気にしていなかった。それどころか、タルトを作っておいてよかった、スウィーツ好きなテディのことだから、こういうものなら食べられるのじゃないかと云って、自分たちがまだメインディッシュを食べ終わらないうちに、先にテディのためにカットして出したくらいだ。
さすがに食べなければ悪いと思ったのか、テディはありがとう、と云ってタルトを少しづつ口に運んだ。幸い口当たりがよかったらしく、チェリーが美味しいと微笑んでくれ、ユーリは無理はしなくていいぞと云いながらも満足気に頷いた。
なにかしなければと思ったのか、食事が終わるとルカはさっさと席を立って、皿などを重ね、キッチンへ運び始めた。残ったものを片付けたりするのをユーリも手伝い、空瓶やグラスを運んできたテディに、おまえはいいよとふたりしてソファへと促す。
「テディ、おまえは坐ってろ。疲れたならベッドに戻ってもいいし。……ユーリ、ちょっと頼むな」
「ああ」
そう云ってルカがシンク前に立ったので、ユーリはテディの顔色を見ながら優しく尋ねた。
「ここにいるか? ベッドに戻りたいなら、気を遣わなくていいからそうしろよ」
「うん、大丈夫……あの、ユーリ。訊いてもいいかな……」
そんなことを云いだしたテディに、ユーリはうん? と不思議そうに聞き返しながら、隣に腰を下ろした。
「なんだ?」
するとテディは、キッチンの様子を気にする素振りのあと、こう云った。
「……ユーリは俺の、トラウマになってる出来事って知ってる……? もし知ってるなら、教えてほしいんだ……」
それを聞き、ユーリは少し驚いた。
「教えて……って、なんでそんな」
「もう少しなんだ」
「なにがだ?」
「もう少しで、なにかが思いだせそうなんだ……。でも、怖いんだ。なにか恐ろしい怪物に呑みこまれる夢をみるんだよ。眠ってなくても、突然すごく厭なものが頭のなかに浮かぶんだ……俺は怖くてがたがた震えが止まらなくなって、暴れて迷惑かけちゃって……。でも、怪物の正体を知ってればこんなに怖くないんじゃないかって思って、ルカに訊いたんだよ。……でも、ルカはなんにも教えてくれないんだ。無理はよくないって……」
切実にそう訴えるテディに、ユーリは眉をひそめた。
「でも俺、早く思いださないといけないんだ。もうこれ以上、ルカを待たせたくない。俺は、ルカの待ってる俺に早く戻りたい……つらいんだ。ルカが優しくしてくれるのは、今の俺のためじゃない。ちゃんと記憶を取り戻した、ルカの知ってるテディに戻らなくちゃいけないんだよ」
ルカは、ルカの、ルカが――テディがその名前を何度も口にするのを聞いているうち、ユーリの心の奥深くでなにかを閉じこめていた鎖が、ぶつりと切れた。
「……そんなにルカが好きか……、記憶のない、今でも」
ユーリがそう云うと、テディは頬を染め恥ずかしそうに下を向いてしまった――まるで、十代の少年のように。そして、ゆるゆると首を横に振る。
その表情から、ユーリは目を離せずにいた。テディは云った。
「……でも、今の俺はルカの好きなテディじゃないんだ……。ルカは、俺がおやすみのキスをしても無理するなって云って、まるで相手にしてくれないんだ。優しくはしてくれても、抱きしめてはくれないんだよ……!」
唇に触れた、柔らかな髪。細い肩、しなやかな背中――気がつくと、ユーリはテディの躰を抱き寄せ、腕のなかに閉じこめていた。
「テディ、俺は……俺だっておまえの――」
何週間ぶりかの感触。抱きしめている腕にぎゅっと力を込め、ユーリは自分とテディの関係について告げようとした。しかしその瞬間、腕のなかの躰が硬く強張るのを感じた。
はっと我に返り、ユーリは腕を解きテディの肩を掴んで、慌てて身を離した。
「悪かった、すまん……! テディ、落ち着いてくれ」
「あ、あぁ……い、いやだ、いや――」
ぱりーん! と、キッチンで皿の割れる音が響いた。同時にルカがリビングに駆けこんできて「なにやってんだ!」と怒鳴った。
ユーリは動転して立ちあがり、「すまない! 悪気はなかった……つい――」と、言い訳が口を衝くにまかせた。なにもできずにいるユーリの眼の前で、ルカがテディの足許に跪いて手を握り、静かな声で話しかける。
「テディ、落ち着いて……なにもしないよ。深呼吸して、周りを見て。ここは俺たちの家 だよ、わかるな?」
テディはソファに背中を押しつけるように躰を縮みこませ、しゃくりあげるように呼吸を荒くしている。その様子を冷えかけた頭で目の当たりにし、ユーリは酷くショックを受けた。
そんなテディに、ルカは根気よくゆっくりと、語りかけ続けた。
「テディ、テディ……大丈夫だ。もうなにも怖いことはないよ、落ち着いて。俺を見て、ゆっくり息を吐いて」
「……ルカ……?」
「ああ、俺だよ。そう、ゆっくり息をして。……薬を飲むか? それとももうベッドへ行くか?」
テディを落ち着かせ、優しく話し続けるルカに、小声でもう一度「悪かった」と呟いて、ユーリはふらふらと後退った。
雨で肩口が湿った上着を手にし、そのまま黙って部屋を出ていく。
――いつの間に。これまで、なにかが起こったときルカはいつだってどうしていいかわからない様子で、なにもできずにおろおろしていたのに。いつの間にあんなふうに、冷静にとるべき行動ができるようになったのだろう。それに、あんなふうにずっと寄り添っていながら、ルカはテディには指一本触れずに堪えているというのか。片時も離れず、ずっと傍にいながら、ただテディのことだけを考えて――。
これまでいつも、ふざけてお坊ちゃんと揶揄していたルカに対し、ユーリはこのとき初めて完全な敗北感を味わった。
* * *
どん、どん、と響いてくる、微かな振動を伴った物音に、ルカは目を覚ました。
サイドテーブルの上に置いてあるスマートフォンを手に取る。眩い光を発し、表示された時計を見ると、午前三時十七分だった。
こんな時間にいったいなんの音だろう? 眉をひそめながら、ルカはベッドから降りてそっとドアを開け、ホールに出てみた。
ぱちりと明かりのスイッチを入れる。どうやら音はテディが眠っているはずの寝室から聞こえているようだった。ルカは遠慮がちなノックをして、「テディ? 起きてるのか? 入るぞ……」と声をかけながら、部屋のなかを覗きこんだ。
「――テディ! なにしてる……やめろ!」
ベッドから降りて坐りこみ、頭をがん、がんと繰り返し壁にぶつけているテディがそこにいた。
「やめるんだテディ……落ち着け、落ち着くんだ――」
ルカは慌ててテディの腕を掴み、壁から離そうと引き寄せた。するとテディは「うあぁあ……!」と呻き、凄い力でルカの腕を振り解いた。愕然とするルカの眼の前で、テディは振り解いたその手を組むように重ね、虚ろな表情で右腕をがりがりと掻き始めた。ホールから漏れる光に照らされた爪先は赤黒く、腕は何本もの蚯蚓腫れと血の流れた痕で、酷く痛々しい状態だった。
壁に頭を打ち付ける、腕などを掻きむしる――どちらも自傷行為の一種である。
「なんてこった……テディ、どうしよう、どうしたら――」
こんなことは初めてで、どうしてやればいいのかまったくわからず途方に暮れたルカが病院に電話をかけ、到着した救急車にテディと一緒に乗りこんだのは、午前三時三十四分のことだった。
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