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scene 22. Blackout

 午後一時三十分の気象情報では、これから徐々に雨は弱まり、週の後半には晴れる見込みであると予報が出ていた。しかし画面が変わると、雨がやんだからと云って河川の水位の上昇はすぐに止まるわけではありません、河川の周辺や土砂崩れの危険がある場所などには近づかないよう、引き続き警戒を怠らないようにしてください、とニュースキャスターが注意を呼びかけていた。  スマートフォンで最新のニュースをチェックしていたエリーは、チーズバーガーに添えられていたフライドポテトを摘みながら「イギリスはどうだった? 洪水とか」と、テーブルの角を挟んで坐っているジェシに尋ねた。 「イギリスは雨が多いですからねえ。川が溢れた、浸水したってニュースはわりとちょこちょこ見ましたよ。幸い、自分ちの近くであった記憶はないですけど。あ、いつだったっけ……五、六年前くらいに確か、大きな洪水があったってニュースで見ましたよね。コッツウォルズだったかな……僕はもうこっちにいましたけど」 「あったね。プラハは二〇〇二年に洪水あった。私が学生のとき」 「どのくらいの被害だったんですか?」 「そのときもチェコだけじゃなくて、ドイツとか広い範囲で記録的な水害って云われてた。プラハでは、動物園の象が死んじゃった」 「え……象が、ですか。可哀想に……」 「マロストランスカー駅に行くと、そのときどこまで水に浸かったか、印が残されてる」 「へえ。ちょっと見てみたいですね」 「じゃあ今度、地下鉄に乗って行ってみよう」  ジェシとエリーは、今から三十分ほども前、一時頃にはもうターニャとマレクのいる病院に着いていた。だがまだロニーやユーリたちの姿がまったく見えなかったので、いったん病院から出て、近くにあるこのレストランへやってきたのだった。  まだオープンしてそれほど経っていなさそうな真新しい店内は、白とベージュを基調とした明るくシンプルなインテリアで、アメリカンダイナー風にボリュームたっぷりなハンバーガーやステーキ、ヘルシーな日本料理風のプレート、そして定番のチェコ料理など、バラエティに富んだメニューが揃っていた。ちょうどお昼時だったので、エリーはチーズバーガーのセットを、ジェシはリブロースステーキのプレートを注文した。  偶々みつけて入ったこのレストランはプラハ中心地から離れた郊外の、見通しの良い十字路の一角にあった。通りのずっと向こうには病院の白い建物が見えている。ジェシたちは時折、ロニーのフィアットやそれらしいタクシーが通らないかと窓の外を見ながら、知らずに入ったにしてはなランチメニューを存分に楽しんでいた。 「ステーキ、美味しいですよ。ひとくち食べます?」 「あ、もらう」 「切りますね……はい。どうです?」 「……美味しい。柔らかい。ジェシ、オニオンリング食べる?」 「タルタルソースつけてください」 「ん」  はい、あーん。などとやっているとき、窓の外を見慣れたグレーのフィアット500が通り過ぎた。 「あ、ロニー」 「ですね。いま来たんだ」  じゃあさっさと食べてしまいましょうか、と云って、ふたりは黙々と食事を続けた。  十分ほど経って食べ終わり、コーラを飲み干していると、今度は黄色いタクシーが病院のほうに走っていくのが見えた。 「タクシー、通りましたね」 「うん。くるくるヘアが見えた気がする」 「ルカですか? あ、じゃあ来れたのかな」  そろそろ行きましょうか、とふたり一緒に席を立ち、ジェシは視界の隅に目に入った洒落た壁掛け時計を見た。  時計の針は、一時四十五分を指していた。  駐車場に駐めてあったミニ・クーパーから用意してきたプレゼントのペイパーバッグを出し、ジェシとエリーは病院内に戻った。駐車場にあったフィアットは間違いなくロニーの車だった。どこにいるだろう、もう先に病室に行ってしまったかなと、辺りを見まわしながらエントランスホールを通る。すると―― 「あ、テディとルカ」  エリーが大きな花籠を抱えたテディと、通行の邪魔になりそうなほどの荷物をぶら下げたルカらしき後ろ姿をみつけ、指をさした。 「わ、なんでしょうね、あの大荷物……」 「お祝い、なにがいいかわからなくてあれもこれも買っちゃったんだと思う」 「ああ、なるほど……ルカらしいですねえ」  そんなことを話していて、つい声をかけそびれたまま、ジェシとエリーはふたりの後を距離を空けたままついていった。だが間がいいというか悪いというか、ちょうどふたりが前に立った瞬間に扉が開いたらしく、ルカとテディは中から出てきた看護師と入れ違いに、そのままエレベーターに乗りこんでいった。 「あ――ルカ! 待ってください、僕らも――」  声が届かなかったのか、慌てて駆け寄るジェシたちを待たずに扉は閉ざされてしまった。 「あーあ。まあ、いっか。ルカ、なんだか大荷物でしたもんね」 「うん。こっちもわりと大きいし、乗ったらきっと狭かった」 「大きいけど、こっちはひとつですからねー」  病院のエレベーターは二種類あり、見舞いに来た家族などの利用が多いこの場所のエレベーターは担架やベッドごと乗せられる大きなものではなく、よくある定員六人のサイズだった。  ジェシが持っているのは、ベビーベッドに取りつけられるオルゴール付きのベッドモビールだった。既にあるものと重ならないよう、エリーがターニャに欲しい物を尋ねて購入したものだ。  けっこう大きな箱なので、ジェシとエリーはあとでルカの所為で乗れなかったって云ってやりましょう、などと笑っていたが―― 「えっ?」 「なに!?」 「きゃ――」 「なんだなんだ――」  突然すべての照明が消えて真っ暗になり、辺りは一瞬にして騒然となった。  自分の伸ばした手も見えないような暗闇のなか、不安げな声や苛立ったような声が響き、ぴりぴりとしたざわめきに包まれる。 「停電?」 「そうみたいですね」  おそらく看護師だろう、「その場を動かないで! じっとしていてください、すぐに非常電源が入ります!」と女性の声がした。まだ日中だが、エントランスホールを過ぎ、広い待合から更に奥であるこの辺りにはまったく窓がなく、自然光は入ってこない。真っ暗なその場所で、ジェシとエリーはエレベーターの前から動かず、お互いの手を握りあってじっとしていた。  そのあいだも、雷でも落ちた? 雨の所為かも、などと誰かの話し声が絶え間なく耳に届いていた。不意に手が解かれ、エリーのほうを向くと同時に眩い光が彼女の顔を照らしだした。エリーはスマートフォンを手に、SNSかなにかを開いて読んでいる。それに倣ったのか、周りでも同じ四角い光が点々と見え始めた。  しばらくすると看護師の云ったように非常電源に切り替わったらしく、柔らかな光の照明が点灯した。通常よりもかなり薄暗かったが、それでも視界が利くというのはこんなにほっとするものかとジェシは思った。周りにいる人々も同じように安心したようで、さっきまでとは違う、安堵のざわめきが広がる。  だがそのとき、エリーがジェシの腕をきゅっと掴み、云った。 「エレベーターは動いてない」 「あっ」  エレベーターの階数を示すパネルの数字はどれも暗いままで、扉の向こうもしんとして、なにも動いている気配はしなかった。非常電源はどうやら、エレベーターまではカバーしていないらしい。 「えっ、じゃあ、閉じこめられたってこと――」  そのことに気づき、ジェシが焦った声でそう云いかけながらエリーを見ると、彼女は持っていたスマートフォンを耳にあて、首を横に振った。 「ルカ、電話にでない。持つのを忘れたことはないはずなのに」  やることが早いなと感心しつつ、ジェシは「病院だから切ってるとか?」と云った。 「ありえる。ルカ、そういうところすごく真面目だから」 「ですよね。テディはどうです? かけてみました?」 「いちおう今かけてみてる。けど……ロックを解除できなくて持ってない可能性が高い」 「あっ……そっか、記憶が戻らないと……」  ロックがかかったままでも着信は受けられるはずだが、やはり持ち歩いてはいなかったのだろう。音声通話は諦めたのか、エリーはスマートフォンを片手で器用に持ったまま、なにやら文字を打っていた。するとそこへ「ジェシ! エリー!」と名前を呼ぶ聞き慣れた声がした。ロニーだ。  ふたりは同時に振り返り、云った。 「ロニー! 大変なんです、ルカとテディがエレベーターに――」 「ふたりが乗ってすぐに停電が起こった。ルカは電話にでない。どうしよう」  早足で近づいてきた、大きなダイパーケーキを抱えたドリューと、『Harrods』と記されたグリーンの大きなペイパーバッグを持ったロニーにふたりが閉じこめられていることを伝えると、彼女はええっと驚いた。 「ルカとテディが? エレベーターの中に!? ……大変、電気がすぐに戻ればいいけれど……」 「いちおう病院の警備員か誰かに報告したほうがいい。電気の復旧がかなりかかりそうなら、救出を頼む必要があるんじゃないか」 「救出――」  そうよね、テディはふつうの状態じゃないんだし、心配だわ――そう独り言のように呟いて、ロニーは「ちょっとこれお願い」とハロッズのバッグを放りだし、エントランスのほうへ走っていった。

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