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scene 23. Baby It's You
「嘘だろ、おい……、誰か! 中にいるんだ、開けてくれ! おい!」
真っ暗な匣 のなか。ルカはエレベーターの扉をどんどんと叩きながら大きな声で呼びかけたが、扉の向こうはしんと静まりかえったままだった。
なんの応答もないのを確認すると、ルカは次に隙間というほどもない僅かな溝に手探りで指をかけ、力任せに開けようとした。しかし、爪が金属を掻く不快な音がしただけで、開けられそうになかった。
くそ、と舌打ちしながら後退ると、かさりと踵になにかが触れた。明かりが消えてエレベーターが停止したとき、思わず手を離してその場に放りだした、出産祝いのプレゼントが入ったプラスティックバッグだ。なにも見えないなか、ルカはその嵩張る荷物を奥のほうに寄せた。
「テディ、花もこっちに貸せ」
「うん」
手を伸ばし、触れたものの感触を確かめ花籠を受け取ると、ルカはまとめて置いたプレゼントの袋の上にそれを乗せた。そして、テディが不安がっていないかと心配になり、再び手を伸ばしてそっと腕に触れた。
「テディ、大丈夫か? 気分が悪かったりしないか?」
「うん、平気だよ。……ルカ、モバイル持ってたんじゃ?」
「あっ――」
云われて気づき、ルカはポケットからスマートフォンを取りだした。ディスプレイが発する光に照らされ、テディの顔が見えてほっとする。が、これは明かりのためにあるわけではない。ルカは履歴からロニーの番号を選び、コールした。
しかし、しばらく待っても呼び出し音は聞こえず、目の下から漏れる光は弱々しく瞬いている。おかしいなと思い、ルカはスマートフォンを見た。画面はいつもより暗く、一瞬消えたりしていて充電切れかと思ったが、バッテリーの残量を示すアイコンを見るとそうではないようだった。
ひび割れたディスプレイを見ながらひょっとして、とルカが思い至ると、はい正解、とでもいうようなタイミングで画面が消えたきり戻らなくなった。
ボタンを押したり、振ったり叩いたりしてみるが、まったく反応がない。
「やっぱり、さっき落としたからだ……。今頃壊れやがった」
「壊れたの?」
「ああ、まいったな」
「……エレベーターって、こういうときのための連絡ボタンみたいなの、あったよね」
「そうだ、あるよな普通」
ルカは壁伝いに扉の右側にあるパネルへ近づき、手探りでそれらしいボタンを探した。すると、二列に並んだボタンの下のほうに、一回り大きなボタンが一つだけあるのがわかった。
「これかな」
試しに押してみる。すぐにはなんの反応もなかったが、何度か押し続けていると意外にはっきりとしたクリアな音声で応答があった。繋がった先は病院の警備室で、停電でエレベーターが停まっているのも、中にあなた方がいるのも把握している、いま復旧と救出を急いでいるのでもうしばらく待ってほしいと云われた。
なんとなく緊張が解けて、ルカはその場に坐りこんだ。
「テディ、おまえも坐れよ。待ってるしかないみたいだ」
「うん」
テディがパニックを起こしたり、頭痛を訴えたりしないのは不幸中の幸いだなとほっとする。むしろ自分のほうが最初は冷静さを失っていたかもと、ルカは苦笑した。そういえば放校される原因になったあの事件のときも、問題になった映画の試写のときも、なにをどうしたらいいかわからずまったく動けなかった自分と違い、テディは冷静そうだった。内心では動揺していたのかもしれないが、行動はできていた。
追い詰められたときに自分でなんとかしなければと考え、動くことができる――それはきっと、子供の頃から何度も酷い目に遭い、たった独りで足掻いてきた結果なのだろう。見た目からは想像もできない、テディのそんな逞しさ、しなやかさは彼の魅力のひとつだ、とルカは思う。厭な目に遭って、壊れそうなほどぼろぼろになって、でも独りで必死に足掻いて、彼はぎりぎりのところで折れずに強 かに立ちあがるのだ。その姿は、挫折も疵 も知らないものの輝きよりもずっと価値があり、美しい。
「……暑いね」
「ああ、喉が渇くな。早く開けてもらえるといいんだけどな」
無意識に肩に手をまわしかけ、ああ、嫌がるかなと頭を掻いてごまかす。すると、くすりと笑った気配がした。「どうした?」と訊いたが、テディは「ううん、なんでもない」としか云わなかった。
狭い匣のなかはしんとしていて、空気が動かずなんだか息苦しい気がした。蒸し暑い所為もあるのだろう、ルカはまさか窒息したりするほど密閉されてないよな、と少し不安になった。喋ると早く酸素が減るだろうか。いや、たぶん大丈夫だろうと思いながら、黙っているのに耐えられずなんとなく昔話などを始める。
「なんだか、思いだすな。ロンドンの学校にいたとき、夜中に散歩したことがあるんだ。……憶えてないか」
「うん……散歩? 夜中に?」
「ああ。なんでだったっけ、夜中に目が覚めて、もう眠れそうにないからって寮 をこっそり抜けだして、外に出たんだよ。月が出てて、今のここより明るかった。それでも梟 かなにかの声がして、蛇もでてきそうで怖くってさ。ほんとはロマンティックに森のなかとかを歩きたかったのに結局、構内の舗道をぐるっと一周しただけだった」
「へえ……でも、なんか楽しそう」
「おまえもけっこう怖がってたぞ? ふたりして腕組んで、くっついて歩いてさ」
「そうなんだ」
くすくすと笑うテディの声を聞きながら、ルカは思いだしていた。
――忘れもしない。あのあと、再びベッドに入って眠り、散歩の続きのようにみた明け方の夢を。そして、自覚した恋心を。
テディは、偶々寮で同室になった自分に依存しただけだったのかもしれない。けれど、自分は間違いなくテディだから恋に落ちたのだと、ルカは思った。
すると、まるでルカの頭のなかを覗いたかのように、テディが云った。
「……ルカは、いったい俺のどこがよかったの?」
「え」
「つきあうようになった理由っていうか……好きになったきっかけみたいな」
「ああ、うーんと……そうだな」
適当に相槌を打ったものの、ルカは途惑った。気づいたら好きになっていた――否、いつのまにか好きになっていたことに、夢のおかげで気づかされたのだ。どこに惚れたか、なにがきっかけだったかなど、考えたこともなかったかもしれない。
とても綺麗な顔をしていたから? 音楽で気が合って、すっかり懐かれてしまったから? 苛められているのをついつい庇っているうちに? そのどれもがきっかけかもしれないけれど、でも――と、ルカはふと浮かんだ答えに目を細めた。
「……出逢ってしまったからだよ。出逢ったのがおまえだったから、おまえのことを好きになったんだ。きっかけになった出来事や、おまえの好きなところとか、そんなのはいくらでも適当に並べたてられるけど、ぜんぶ後付けさ。理屈なんかない、理由なんか自分にだってわからない。……惹かれたんだ。おまえがおまえだから惚れちまった。そうとしか云いようがないよ」
テディからの返事は、すぐにはなかった。暗いために表情も窺えず、ちょっと照れくさくなってルカは続ける言葉を探した。
「だから俺は――」
「ルカは――」
同時に口を開いてしまい、ルカは「うん?」とテディに先に話すよう促した。
「……ルカは、疑ったことはないの?」
「疑うって?」
「……俺の気持ちとか、もう俺と一緒にいないほうがいいんじゃないかとか、そういうこと……」
額から鼻先へ、汗の雫が伝うのを感じた。いきなり飛んできた厄介な質問に、これはどう答えるべきかと少し悩む。
「くそ、暑いな。……なんでそんなことを訊くんだ?」
「おやじさんが来たとき、俺がルカに迷惑ばっかりかけてたって……」
ああ、それでか、とルカは思い、内心で父クリスティアンにクソおやじめ、と毒突いた。
「何度もあるさ。いろいろあったからな。おまえがなんかやらかすたんびに俺は、もう今度こそやめよう、終わりにしようって考えた。でも、離れられなかった」
「……離れておけばよかったって、思ったことはない?」
「学校を出てからはないな」
「でも」
テディがいったいどうしてこんなことを云いだしたのかわからない。ルカは汗ばむ顔を手の甲で拭いながら、見ることのできないテディの顔のほうを向いた。
どんな表情で、こんな質問をしているのか。スマートフォンを落としてしまったのが返す返すも悔やまれる。
暫しの沈黙の後、やがてテディは云った。
「……自分がそれだけ想っている相手が、本当は自分を愛したことがなかったかも……なんて、そんなことを考えさせる相手、恋人として最低だろ?」
「ああ、その話か……。でも俺は、おまえが俺に惚れてたことがないなんて、ほんとは思っちゃいないよ。最初は、俺が頼ってくれって云ったからおまえはそのとおりにしがみついてただけなのかもしれないけど――」
云いかけて、はっと気づいた。テディの口調が変わっていた。淡々とした、感情を乗せない冷めた――それに、この話は自分たちが揉める原因となった、あのインタビューの失言についてではないか。
「テディ? おまえ……もしかして記憶が」
暗闇のなか、手を伸ばす。そっと触れた髪。何度も唇で辿った耳の形。そして、親指で撫でた頬が濡れているのに気づくと、ルカはあぁ、と声にならない声を漏らした。
「テディ……そうなんだな? おまえ、思いだしたんだろ? 記憶が戻ったんだろう? ああよかった、テディ――」
思わず両手をまわしてぎゅっと抱きしめる。久しぶりの感触と安堵に、思わず涙が溢れる。
するとそのとき、かんかん! と扉を叩く音がした。
「大丈夫ですか!? 今から開けますんで、扉から離れていてください!」
停電が起こってから、どのくらいの時間が経ったのだろう。扉の向こう側で、ようやく救出作業が始まったようだった。
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