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scene 24. Emotional Rescue

 まだ電気が復旧しない病院内に留まっている人々は、ガラス張りのエントランスから差しこむ光を求め、入り口近くに集まっていた。今は非常電源で淡い照明が院内を照らしてはいるが、広い待合にあるTVはつかないし、自動販売機も使えない。空調設備も動いていないので、涼しくはなくても空気の動く場所にいたいのかもしれなかった。  ミレナとハナも全開にされたままの自動ドアの傍に立ち、まだ降りやまない雨や、偶に通るのが見えるパトカーなどをずっと眺めていた。  ハナは手に持ったままのスマートフォンを、着信音が鳴ったふうでもないのにときどき覗きこんでいた。警察からの知らせを待っているのだ。エントランスの反対側には同じようにスマートフォンを見ている女性たちがいたが、そちらはニュースを視ているらしく、氾濫した河川についてや、現時点での死者と行方不明者の数などを伝えている音声が聞こえていた。  心配で気が気じゃないだろうなと思いながら、ロニーはハナたちに近づき、話しかけた。 「ああ、暑いわね……なにか飲もうと思っても、電気が戻らないとジュースも買えないわね」 「ロニーさん」 「ええ……そうですね」  返事はしてもらえたが、ふたりとも心ここに在らずといった感じだった。一瞬こっちを振り返り、またすぐに外へ視線を戻したハナの肩に手を置き、ロニーは云った。 「大丈夫。きっとみつかるわ」 「……だといいんですけど」 「そういえば……さっき、奥のほうでなにか騒ぎがあったようですけど、なにかあったんですか?」  気を遣ったのか、ミレナがそんなことを訊いてきて、ロニーはええ、と頷いた。 「停電で、エレベーターに人が閉じこめられているの……。それで今、早く救出に来ないかと待っていて」 「まあ大変」 「中にいるのはお知り合いの方なんですか?」 「……実はね、ルカとテディなの」  ええっ! と仰天したふたりにしぃっと指を立てる。 「で、でもテディ……今は普通の状態じゃないんでしょう? 心配ですね……」 「そうなのよね……でも、大丈夫。ルカがついてるし、もうそろそろ救けだしに来てくれるはずだわ」  生暖かい風が吹きこんできて、三人は外を見た。するとそのとき、ハナの手のなかから着信音が鳴り響いた。はっとしてハナが両手で縋るように、スマートフォンを耳許に当てる。 「はい! ――はい、そうです。……はい、名前はアンディ、アンドリンです。――はい、十二歳、オレンジ色のTシャツに濃いブルーのウインドブレーカー……間違いないです……! ――今ですか、今は病院にいます……十区の外れにある……はい、そうです。はい、ありがとうございます……!」 「みつかったの!?」 「みつかったのね、ハナ。よかった……!」  ほっとしたのだろう、その場にぺたんとへたりこみ、両手で顔を覆ったハナにミレナが背中を支えるようにして寄り添った。ロニーもよかった、よかったわと、自分のことのように膝を折って声をかける。 「ありがとう……本当にありがとうございました……! 今から警察の車で、保護してくれた男性と一緒にここへ来るそうです」 「そう、やっぱり誰かが保護してくれていたのね。よかったわ、本当に……」  安堵の涙が止まらないハナを、ミレナはずっと肩を抱いて支えていた。  一見したところは仲の好い友人か姉妹のように見えるのだろうが、ロニーはやっぱり夫婦なのねと、憧れも含んだ眼差しで見つめていた。  いいなあ、夫婦って。結婚かあ……まずは相手をみつけなくっちゃ……。 「あ、あの車……ひょっとして、来たんじゃないですか?」 「え?」  ついふたりに見蕩れていて気づかなかった。いつの間にか外には白いバンが停まっていて、ヘルメットを被った作業着姿の男達が数人、なにやら大きい工具箱のようなものを持って院内に入ってきた。後から警備員もついていく。 「ほら、やっぱりそうですよ」 「よかったですね、すぐに開けてくれますよ、きっと」  よかった、ありがとうと慌ただしく云いながら、ロニーはかつかつとヒールの音を響かせて、エントランスホールの奥へと戻った。        * * *  かーん、かーん……と音がする扉近くから離れ、壁面に背をつけてルカはテディと肩を触れ合わせて立っていた。やっとこの真っ暗な、蒸し暑いエレベーターから出られるのだ。  実際はそれほど長い時間ではなかったのだろうが、暗いなか、外の様子もなにもわからない状態でいることがこれほどまでに不安で、永遠のように長く感じられるなどとは、想像もしたことがなかった。 「まだかな」 「もう少しかかるんじゃない?」  テディの声を聞いてほっとする。  ――たくさん話したいことがあった。記憶はいつ戻っていたのか、何故すぐに教えてくれなかったのか。だが扉の向こうに何人もの人がいるこの状況では、そんな話をしてはいられないかな、と思った。またテディが臍を曲げるのも困るし、の場合でもゆっくりキスもできやしない。  そんなことを考えてルカが黙ったままでいると、意外なことにテディのほうから話しかけてきた。喉が渇いている所為か、ちょっと掠れた声で独り言を呟くように、彼は云った。 「……記憶は、まだ完全には戻ってないんだ」 「そうなのか?」 「うん。さっき、夜中の散歩の話、してくれたろ? ああいうのはまだ思いだせてない」 「学生の頃のことは、ってことか?」 「かな。バンドが売れ始めたくらいのことは思いだしたよ……まだ抜け落ちてる部分はあるかもしれないけど」 「へえ、そういう思いだし方なんだな。戻ったら一気に全部かと思ってた」 「そういうこともあるのかもしれないよ? 俺の場合は、今はそうってだけ」 「……なんで、すぐに云わなかったんだ? 記憶が一部でも戻ったこと」  答えが返ってくるまで、少し間があった。 「――実を云うとさ、思いだしたこと……あんまり喜べなかった。ちょっと残念だったんだ」  暗く表情が見えないなかで、ルカはテディのほうを向いた。 「真っさらになってやり直せるものなら、そうしたかった。打算もなにもない素直な気持ちでルカを好きな俺のままでいたかった……ルカもそのほうがいいに決まってるって思ったんだ。でも、記憶が戻ってそんなことを考える時点でだめなんだけどね」  テディの声は淡々としていて、その表情が窺えないままルカは黙って耳を傾けている。 「……堪らなかった。少しずつ戻った記憶のなかの自分は、我が儘で自分のことしか考えてない、汚れきったろくでなしだった。……俺さ、実は自分でも何度も考えたことがあったんだ。俺はルカのこと、本当に愛したことがあるのかなってさ。ルカが優しいのに付けこんで寄っかかってるだけだったんじゃないかって。だから、言い当てられた気がしてあんなに怒ってたんだよ。あんなところから落ちたのは、きっと罰だ」 「……罰なら、俺も受けた」 「ルカも?」 「あんなことを云ったから、俺はおまえを失ったって思った。初めのうちは俺、たとえなんにも憶えてなくても、まるで性格が変わっちまったみたいでも、おまえはおまえだって思ってたんだよ。でも、違った。やっぱり俺は、俺の知ってる(したた)かなおまえに逢いたかった。……今おまえが云ったような、自分勝手で気紛れなテディが恋しかったんだよ。だから、真っさらになってやり直す必要なんてないんだ」  ああ、まただ。沈黙が落ち、ルカはテディの顔が見えないことを残念に思った。いったいどんな表情をしているのだろう――微かな息遣いに耳を(そばだ)て、ルカはテディの存在だけに意識を集中した。 「……俺が勝手やって、罰を受けるのはしょうがない。でも、それでルカが厭な思いをするのは……だめだろ。自分でも厭になるのに、ルカには押しつけて……。俺はちっともルカの気持ちを考えてなかった。本当に好きならあんなことできるはずがないんじゃないかって……。ルカにばかり苦労させて我慢させて、俺はそれに甘えて……利用してるだけじゃないかって――」 「テディ」  なんだかよくわからないが、ルカはテディの悪い癖がまたでているのだなと感じた。テディはときどき、こんなふうにぐるぐるとネガティヴな思考に囚われて気を滅入らせるのだ。  なにを思ってそんなに自分を責めているのか。いったいなにがテディをこんなふうに追い詰めるのか――じっくりと話を聞いてやることはできるだろうが、ルカは、それは自分の役目ではないと思った。直感でしかないが、テディがこういう性格である以上、自分は鈍くて無神経なくらいなほうがいいのだ。  そう考え、ルカはいつものように、単純明快にテディを受けとめようとした。 「ばかだな。愛しあって一緒にいるから苦労もするし、我慢もするんじゃないか。好きな相手に甘えないで、いったい誰に甘えろって云うんだよ。我慢も苦労も、好きで一緒にいる相手とじゃなきゃしたくなんかないよ。あたりまえだろう」  エレベーター内はまだ暗いままだ。テディの表情は窺えない。だがルカは、今度はテディがどんな顔をして自分を見つめているのか、見えているような気がした。ぽかんと目から五枚くらい鱗を落としたように呆然として、返す言葉に困っているに違いない。ルカは続けた。 「だからもういいかげん、そんなふうにひとりでごちゃごちゃ考えるのはよせ。性格も考え方もなにもかもまるで違う、別個の人間ふたりなんだ。我慢できないこともあるかもしれないし、譲れないことだってあるよ。でもお互いに認めあって、赦しあっていかなきゃいけないんだ。さっきは罰って云ったけどさ、試煉ってほうがしっくりくるよな。ふたりで反省して乗り越えていくんだよ」 「試煉……」 「そうだよ。俺は、あの記者の野郎がなんだか気に入らなくて虫の居所が悪くって、つい余計なことを云っちまった。反省する。おまえもばーっと文句云って喧嘩して一晩で済ませときゃいいことを、ねちねち何日も引っ張り過ぎだった、反省しろ。それでいいじゃないか」 「……いや、俺は……そのことだけじゃなくって、その――」 「テディ、いいんだ。終わったことはもういいんだよ。考えてもみろよ、人間ってのは日々再生を繰り返してるんだ。細胞がどんどん新しいものに入れ替わっていくんだよ、髪や爪みたいに、皮膚も骨もなにもかも。……そういう意味では、ほっといたって常に真っさらになってるってことかもな。だから心のほうだって、過去なんかクリアにして今に向けとけばいいじゃないか。いい想い出は大事に仕舞っとけばいいけど、悩むのは今やこれからについてだけで充分だよ。俺とおまえのことにしたって、どうせまたすぐになにかあるさ、ずっと一緒にいるんだから」  がこん! と扉の傍で大きな音が響いた。ライヴステージのレーザービームのように、細く白い光が差しこんで薄紅色の花を照らした。光のなかにはちらちらと埃が舞っているのが見える。すぐ傍に薄っすらと浮かんだ輪郭が、ゆるゆると動いた。 「……なにかあっても、ずっと一緒に、か。ルカって、本当に俺と離れることなんて考えたことないんだね……」 「あるわけないだろ! 俺はいつだっておまえのことを愛してる。だから、考えるのは一緒にいるためにどうしたらいいかってことだけだよ! 逆に云わせてもらうけどさ、おまえはどうしてすぐに俺と離れることばっかり考えるんだよ……俺がここまで云ってるのに。そんなにいつまで経ってもふわふわしてんならもう、結婚するか? 法制化されたら第一号カップル狙ってるんですーとかって、インタビューで宣言したっていいんだぞ?」  ルカがそう云った瞬間、狭い匣のなかに白い光が溢れた。扉が開いたのだ。  そして、はっきりと見えた。テディがその頬を真っ赤に染め、驚いたように目を瞠ったまま立ち尽くしているのが。 「――大丈夫ですか!? 気分が悪くなったりしていませんか、いま脚立を持ってひとり入ります! ちょっと高さがありますが、おひとりずつ出てもらいますんで――」  エレベーターは三階の手前で停まっていたらしく、作業用ライトの光が注いでいるフロアの床は肩の少し下くらいの高さにあった。はい、大丈夫ですと返事をして、ルカはまたテディのほうに向き直った。まだ茫然としているテディの背中を押し、ほら先に行け、と促す。すると―― 「……こんなときにこんなところで普通、そんなこと云う?」  脚立に足を掛けながらテディが呆れたように信じらんない、と呟くのを聞き、ルカはまったくだよなと笑った。

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