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第15話 縁と信頼が導くもの
『穂村くん、ちょっと話したいことがあるから、二人で会えないかな。大事な話なんだ』
水町がタカトにそう連絡をしたのは、一昨日のことだった。大事な話ではあるけれど、綾人にはまだ聞かれたくないことだという。あれほど綾人を大切にしている水町が、綾人に隠れてでもしたい大事な話とは何だろうかと、タカトは不思議に思っていた。
タカトと綾人は今、同棲している。学校でもずっと一緒だ。恋人なわけだから、プライベートも全て一緒。そんな状態で、タカトだけが水町と会うという時間を作るのは、至難の技だった。
たまたま綾人がサリさんに呼ばれて、留学生たちに空手の演武を披露するという機会があった。タカトは、その時間を使って水町と落ち合うことにした。
場所は学食のテラス。ここなら、変な疑いをかけられなくて済むだろうからと、タカトは妙な保険をかけた。あと少ししか一緒にいられないのに、浮気を疑われたりして不仲な時間を過ごすのは、絶対に避けたかったからだ。
「待たせてごめーん!」
タカトはテラスに座って、一人でキャラメルラテを飲んでいた。
それは、苦いコーヒーが苦手なタカトが、綾人と一緒にランチをした店で覚えた、甘いコーヒー。水町との待ち合わせには間に合うように、わざわざあの店に行って買ってきたものだった。
綾人が隣にいないことが落ち着かなくて、綾人との思い出があるあの店のこのラテを、どうしても飲みたくなった。
ゴクリと喉を通る温かさと、鼻から抜ける香ばしさと甘い香り、そして何よりふわっと広がる優しい甘さが、ホッと体の力を抜いてくれる。
このコーヒーは、美味しいのはもちろんなのだけれど、これを飲むと綾人がそばにいてくれるように感じて、落ち着くことができる。寂しくて縮こまりそうな体と心を、そっと支えてくれているように感じられた。
「珍しいね、綾人がいない状態で会おうって言うなんて」
「うん、ごめんね。綾人には話ちゃいけないらしいんだ」
水町は椅子を引いてストンと座ると、ニコッと微笑んだ。そして、手に持っていた紅茶をゴクっと一口飲むと、「ふう」と息を吐いて呼吸を整えた。
「綾人は知ってちゃダメな話ってこと? それって……これから先の話?」
「うん、そう。これ見てくれる?」
タカトの正面に座った水町は、大きなトートバッグから、透明なケースに入った桜の花びらを見せてくれた。それは生花のようでそうでない、不思議な何かを含んだような見た目をしていた。
「これね、さくら様が最後に私に下さったの。これを、使う時と使い方を指示されて、お別れしたんだ」
その日のことを思い出しているのか、少し寂しそうに遠くを見ながら、水町はつぶやいていた。タカトもその時一緒にいたので、二人が何かを話していたのは見ていた。確かに、その時何かをもらっていたようだった。
「使う時と使い方を指示されたの?」
タカトの問いに、水町はこくんと頷いた。
「ね、恵斗が言ってたみたいに、綾人に対する処分だけ厳しすぎるって思ったことない?」
「うん、あるよ。もちろんある。でも、約束しちゃったからだよね、それ。修羅を抜け出して天人になれっていう。前世でそれを守らずにそのまま転生しちゃったから、今度の人生が終わるタイミングで贖罪しないといけないんだったよね」
何でも無いことのように話すタカトを見て、水町はたまらなく切なくなってしまった。
タカトがこんな風に話せるようになるまで、どれほど苦しんだのだろうかと思うと、とてもじゃないがこの決定を受け入れることは出来ないと水町は改めて思った。少なくともこの件においては、タカトには何の非も無い。
タカトは穂村の家の長子で、穂村家は幸野谷の次男の子孫に当たる。幸野谷の三人兄弟は、とにかく勤勉で真面目で心優しい人たちばかりだったらしく、後世にもいい話しか残っていない。
その子孫として生まれてきたタカトは、普通の人間としての業はあるのかもしれないけれど、特別に重い罪を背負っていたりはしていなかったはずだ。
先祖は徳を積んだ人ばかり、自分は親に虐げられても、腐ることなく強く必死に生きてきた。それなのに、初めてできた恋人を先祖に奪い取られることが確定していて、それを取り消すことが出来ないという。
何度考えても、タカトにとっても綾人にとっても理不尽極まり無い話なのだ。
「それね、もう無効じゃない? だって、綾人は今の人生で天人になる条件満たしたんでしょ? それなら、今度の節分にはもう罪はなくなってるわけでしょ? つまり、もう過去に囚われる必要ってなくなってるはずなんだよね」
タカトは首を捻っていた。理解できたようで、理解できない。仕方が無いと思うことに必死で、そのあたりをきちんと考えなかったように思った。
「どう言うこと? それちゃんと聞いておかないと後悔しそうな話だね」
水町は何度も縦に首を振った。強く振って、「そう、考えよう。言われた通りに流されちゃダメなんだよ」と青く深く燃える目で、タカトに言い聞かせてきた。
タカトは少しだけ恥ずかしそうに俯いていた。
——自分はどうにもならない運命を呪ってただ騒いでいただけで、解決することを具体的に考えようとしていなかったんだな。
前向きに解決しようとしている水町を見て、そんな自分が少し情けなくなってしまった。
「罪の清算は必要だろうけど、貴人様と天界に行くのは綾人自身の望みではないから、それに従わなければならないっていうのは違うと思うんだよねって話は、つい最近二人でしたばかりなんだ。本当に、すごく最近。あの、綾人が落ち込んでて憔悴しきってた日に」
あの時は、ただ勢いで口から飛び出しただけだったあの言葉を、もっと深く考えようよと水町は提案しているのだと、タカトは理解した。
でも、もし何を考えてもどうにもならず、綾人を奪われるだけなのなら、このまま楽しい思い出を増やす日々を過ごしたいと、最近のタカトは考えるようになっていた。怒りは抱えているのに弱気になって、楽な方へと流されようとしていた。
今の水町を見ていると、そんな後ろ向きで逃げ腰だった自分が、恥ずかしいとさえ思ってしまう。
「穂村くんさ、右目見えにくくなったんでしょ? その目、多分綾人が治してくれると思うんだ」
「え? これを綾人が治すの? どうやって……」
タカトの右目は弱視になっていて、病院に行ってみたが原因がわからず、特に治療はしていない状態だった。日に日に見えにくくなって行っていて、最近は、陽が落ちると暗い道を歩くことが困難になりつつある。
治せるなら治したい、でも綾人がどうやってこれを治すのか、タカトには検討がつかなかった。
「貴人様から最後に小さな光の玉をもらってたでしょ? あれ、浄化の力らしいんだよね。その目は浄化すれば見えるようになるんだって、さくら様が言ってたのよ」
「えっ? これ、何かの呪いなわけ? 浄化するってことは、そう言うことだよね」
タカトは驚いて、そっと右目に触れてみた。貴人様が最後にタカトの体を使った時、ここから迦楼羅が飛び出して行って、そのまま右目の視力は下がった。迦楼羅は神の使いだから、呪いじゃない。じゃあ、なんで浄化する必要があるんだろうか。
「なんかね、これは私がおばあちゃんから言われてた言葉なんだけど、神様がいるはずの場所を空にしておくと、そこに悪いものが棲みつくから、神棚とかはちゃんとしておきなさいって。それじゃ無いかなと思って」
タカトは右の視界を手で隠して、左目だけで周囲を見てみた。左の視力は変わっていない。水町の言うように、右目の迦楼羅が抜けたことで空いた場所に、何かが入り込んだ。それを浄化すれば見えるようになると言うことだろうか。
「なんか……、納得できるかも。え、綾人もこの目のこと気にしてるんだよ。綾人が治せるなら、早く治してもらったほうがいいよね?」
「うん。そうしようよ。それでね、もう一つ言わないといけないことがあって……」
桜の花びらが入った透明な容器を、ぎゅっと両手で握りしめながら、言いにくそうにしている水町を見て、タカトは一瞬身構えた。
しかし、もうこの半年くらいでかなり色々な経験をした。それを思い出していると、何だか馬鹿馬鹿しくなってきてブハッと爆笑してしまっていた。
「ど、どうしたの? 私、何かおかしいこと言った?」
キョトンとする水町に、笑いながら被りを振ったタカトは、フーッと長く息を吐き出した。
——もう、何でも来いって感じだな。
綾人と親しくなったのは、桜が咲いていた春。今はもう、晩秋だ。ブルーグレーとオレンジに染まる空を見ながら、初めての金曜ボランティアでお互いにぶつかってしまったことを思い出していた。
勇気を振り絞って恋人になってもらい、貴人様との時間を挟みつつ、ゆっくり仲を深めてきた。夏前に、ようやく綾人の全部を手に入れた。
もう悔いは無いはずだと思っていた。でも、本心を言うと、前よりももっと綾人を失いたくないと言う思いが強くなっただけだった。
「いや、何でもないよ。俺にとっては綾人を失うこと以上に悪いことなんてない。何でも言って」
タカトの表情には、不安や恐れが抜け落ちて行ったような晴れやかさがあった。無理をして覚悟を決めたのではなく、ゆっくり穏やかに腹を決めていったような、それでいて揺るぎない強い覚悟が見えた。
水町は、こくんと頷くと、これから起きること、そしてこれからやるべきことをタカトに説明し始めた。
「まず、綾人が穂村くんの右目に浄化を施す。その後、私がこの桜の花びらをその目に吹き付けて、綾人と穂村くんの縁を繋ぐ」
「え? 今更縁を繋ぐの? そのためにこれはあるんだ」
「そう、これがないと大変なことになるんだと思う。そして、これを終えると、多分、その……、すぐに綾人は消えてしまうと思う」
「え? ……え? 何で?」
「消えてしまうと思う、んだよねってくらいの予想なんだけど。ここでの貴人様との繋がりを、この桜は完全に断ち切ってしまうから。そうすると、多分前世に帰ってしまうと思うの」
タカトは混乱していた。綾人を手に入れる話をしていたはずなのに、いつの間にか綾人が消えていなくなる話になっていた。段々と冷えてきた外気にぶるっと身震いをするけれど、頭はパニックを起こして沸騰寸前だった。
「え、ちょ、ちょっと……」
「でも大丈夫だよ」
水町はタカトの肩を両手でがっしりと掴んだ。そして、真っ直ぐに目を合わせると、微笑みながらも力強く言い切った。
「一旦消える。そして、綾人はその後すぐピンチに陥ると思う。その時、綾人と穂村くんは意識が繋がってるはずだから。綾人を助けてあげて」
「え? 意識が繋がる?」
「そう。誰も綾人に手は届かない。でも二人の意識は繋がってる。綾人に、一番大切なことを思い出させてあげて」
「……それって、俺にしかできない事? 綾人は何も知らずにパニックに陥るけど、俺はそれを意識への呼びかけで助けるってこと? 俺に出来るの、そんなこと。俺はただの人間だよ?」
狼狽えるタカトの手を、水町は両手でぎゅっと握りしめた。驚いたタカトは水町の顔を見て、ハッとした。
水町は泣いていた。ボロボロと大粒の涙を流して、眉根を寄せてとても辛そうに泣いていた。あまりに悲しそうな顔をしていたため、タカトは思わず目を逸らしてしまった。
「出来るよ。出来るの。だから、お願い。やって。私には出来ないの。私には、その力がない。……綾人のこと、よろしくお願いします」
タカトは目を水町に戻した。そして、「ごめん」と詫びると、水町をぎゅっと抱きしめた。
何度か言われたことがあった。
『私にはできない。その力がない』
今それを、わざわざその口に言わせてしまった。綾人のことを大切に思っている水町に、自らその無力を痛感させるようなことを言わせてしまった。罪悪感で、タカトの胸は潰れそうなほどに苦しくなった。
「本当にごめん。そうだね、俺に出来ることがあるのなら、やらないと。水町さんにとって綾人がどれほど大切なのかをわかってるのに、そんなこと言わせて本当にごめんね」
水町はそっと手を伸ばしてタカトを抱きしめ返した。そして、「絶対だよ!」と言って声を上げて泣いた。タカトは水町を抱きしめる腕にさらに力を込め、綾人を守る決意を固めた。
——俺が守れるなら、必ず守る。
そう決めて唇を噛んだ。そして、カバンからスマホを取り出す。3コール以内で、綾人の声が聞こえてきた。
『もしもーし。お前、どこにいんの?』
タカトと水町は、その声を聞いてさらに涙を流した。うまくいけば、この声をまだ聞いているいことができる。だから、腹を括ってやろう、二人でそう決意した。
「綾人、今日水町さんと一緒に鍋パしよう。瀬川と陽太も呼ぼうよ」
スマホのスピーカーから、『おー、いいねえ。やろうぜ』と言う、楽しげな綾人の声が聞こえてきた。タカトと水町は目を合わせた。そして、お互いに頷きあうと、ゆっくりと立ち上がって歩き始めた。
受け入れるしかないと思っていた運命に、一縷の望みとも言える光明が指してきた。その光を追わずにいることは、絶対に許されない。
——綾人は奪わせない。誰にも。
タカトはそう決意して、抗うことにした。
ただ正しいと教えられたことを信じてその教えの通りに生きた、悲しい「囚人の夢」を、正しく醒めさせてあげるために。
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