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第4話 キスして

 気が付いたら、六月だった。智颯が呪法解析室に助っ人に来るようになってから、早くも一カ月が過ぎていた。  学校から直で解析室に来て、部屋の掃除を始める。ゴミを纏めて、場合によっては夕食を作る。時々、洗濯までしてくれそうになる。  呪物の解析が本格的に始まると二十四時間体制になる仕事なので、解析室は泊まれるように何でも揃っている。  解析がない時も円はほとんどこの部屋に住んでいるので、智颯が毎日、円の生活支援に来てくれている気分になる。  有難いがいたたまれないので、とりあえず洗濯くらいはするようになった。 「智颯君、あのさ、そういう雑務は、しなくていい、よ」  今日も黙々と掃除をする智颯に、おずおずと声を掛ける。  智颯が掃除の手を止めて、顔を上げた。 「今日は僕が掃除当番だ。(えん)は気にせず仕事をすればいい」  壁に貼られたカレンダーを指さす。  確かに仕事の分担は決めた。その中には掃除などの家事も含まれている。しかし、家事系はほとんどが智颯に割り振られている。  分担を決めているのも智颯だ。 「掃除は、仕事じゃないし、当番に含めるの、やめない?」  申し訳ないし、居た堪れない気持ちになる。  智颯がキリっと鋭い眼を円に向けた。 「放っておいたら円は何もしないだろ。こういう、掃除や片付けは生活の基本だ。疎かになると、人間が乱れる。基本が大事なんだ」  話すだけ話すと、智颯はまた掃除に戻った。  真面目で融通がきかない優等生は、生活態度まで規則正しい。 (漫画で読む分にはいいけど、実生活でやられると、なんだかな)  とはいえ、時々来る姉たちが片付けや掃除をしてくれない限り自分ではしない部屋だ。綺麗になって困ることはないのだが。 (申し訳ないから俺もやらなきゃなって思わせるところが凄いな、優等生)  或いは智颯だからなのか。惚れた弱み、みたいなものだろうか。  円は仕方なく、自分の仕事に集中した。  解析のプログラミングを一つ終えた頃、智颯が戻ってきた。 「今日は他に、手伝えること、ないか?」  智颯が解析室に来たばかりの頃、宿泊の研修を数日行ったが、今は通いだ。毎日、学校帰りの三時間程度、解析室で仕事をして帰る。 (今日も、帰っちゃうのか)  智颯が帰った後も一人、この部屋に残る円にとっては、少し寂しい。逆に言えば、智颯が来てくれるこの数時間が、円にとっては至福の時間だ。 「特にないよ。明日は、新しい呪術の解体から手伝って」 「わかった。呪術の解体からなら、僕も役に立てるな」  智颯が円の肩に手を置いた。  驚いて、肩がビクリと跳ねた。思わず智颯を見上げる。 「前より話し方が自然になった。きっと円には、馴れが必要なんだ。そのうちに誰とでも普通に話せるようになる」  智颯が微笑んでいる。  円に優しく微笑み掛けて、優しい言葉で労っている。 「あ、ぁ、ぁ……、ありが、と」  息が詰まって、言葉を発するのが辛い。呼吸が早く細かくなって、吸うばかりになる。体の力が抜けない。  自分で座っていられなくなって、体がズルズルと椅子から落ちた。 「え、円? どうしたんだ? どこか痛むのか?」  智颯が心配そうな顔で円の間近に迫る。 (不安そうな顔してる。俺のためだよな。憂い顔も可愛い。推しはどの顔もいい)  円の阿呆な思考など、智颯は気付きもしないんだろう。  床にずり落ちた円の体を寝かせて、呼吸を確認し脈をとっている。 (こういう時は抱き上げて、大丈夫? とか声掛けするのが普通じゃないかな)  完全に救命措置モードだなと思った。  突然、智颯の唇が円の唇を覆った。キスというよりは、覆いつくすように食われている感じだ。 (え? 何してるの、この子。どういうつもりなワケ⁉)  驚いて体が強張り、息が止まった。  しばらく円の口に吸い付いていた智颯が、唇を離した。 「円、ゆっくり息を吐いて。吐ききったら、細く吸って」  智颯が円の手を握って手首に指をあてる。  言われた通りに呼吸する。体の力が抜けてきた。  智颯が握ってくれる手の温もりを感じる。心地よくて、安心できた。 「呼吸も安定したし、体の力も抜けたな。良かった。起き上がれるか?」  頷くと、智颯が手を貸して起き上がらせてくれた。 「さっきの、何? 俺、息止まってた?」  人工呼吸されたようには感じなかったし、自分も息が止まっていた自覚はない。 「逆だよ、息を吸い過ぎて過換気になってた。だから、僕の吐く息を吸わせたら、戻るかと思った」  円は目を見開いた。 (過換気は過換気だけどさ! 普通、それって紙袋とか被せて自分の吐いた息を吸わせるよね⁉)  過換気症候群のペーパーバックはあまり推奨されていないが、一定の効果はある。だがあくまで、自分の吐いた二酸化炭素を吸うのであって、他人の二酸化炭素を吸わせるものではない。 (救急の講習とかで習ったのを勘違いした、とかかな。優等生、恐ろしい)  円は草の者なので、一定以上の医療の知識はある。  加えて過換気は円にとって身近な病なので、対処法も知っている。 「落ち着いたか? 過換気、時々なるのか?」  智颯の問いに、円は頷いた。 「あんまり、褒められること、ないから。たまに褒められたり、労われたり、すると、嬉しくて、息が速く、なって、時々、失神、する」 「失神⁉」  驚く智颯に、笑って見せた。  実のところ、円の父は花笑本家の宗主であり、13課諜報担当の統括だ。跡継ぎである兄も二人の姉も弟も、円とは比べ物にならない程、優秀だ。  だから褒められたことがない。優しい二人の姉は時々、労ってくれるが、同情と憐れみを含んでいるのは、聞いていればわかる。  そういう言葉に慣れているから、心から優しい言葉を受け取ると、どうしていいかわからなくなる。  きっと滅多にない幸せに体が過剰に反応するんだろうと思う。 「あまり健全とは言えないな。何か対策を考えよう。とりあえず、僕が定期的に円を褒める」 「はぃ?」  とても間抜けな声が出てしまった。智颯の言葉が良く理解できない。 「これも話すのと同じで、馴れだ。褒め言葉に、慣れればいい。円には褒めるべき長所がたくさんある」  とても信じられない言葉が飛び出して、円は息を止めた。  智颯は至極真面目に話している。揶揄っているのでも憐れんでいるのでもない。  それが、信じられなかった。 「掃除も、まともに出来ない、俺の、どこに、長所が?」 「得手不得手は誰にだってある。僕は掃除が得意だし好きだ。円は苦手なだけだろ」  智颯が円のデスクを指さした。 「円のデスク、いつも綺麗で僕は掃除したことがない。デスクの上だけじゃない。朽木室長から降りてくる資料は、いつもぐちゃぐちゃなのに、次の日には付箋が張られて綺麗に整理されてる」  確かに要が降ろしてくる資料は紙ベースの割に量が半端なくて順番もぐちゃぐちゃだ。 「それは、整理、しないと、仕事にならないから、で」 「そういうの、僕に投げたっていい仕事だ」 「自分で、見ないと、どれが必要か、わからない、し」 「あれだけの量を一人でこなしていたら、掃除なんかする暇はないだろ」  胸が、とくんと鳴った。  只々小さく、鼓動が速まる。 「僕はまだ、一カ月しか円と過ごしていないけど、褒め言葉はまだまだある。今言うと、また過換気になるかもしれないから、明日伝えるよ」  握ってくれる智颯の手は温かい。 (智颯君の手は、初めて会った時からずっと、温かかった)  じんわりと温かい気持ちが目から溢れそうになって、円は顔を背けた。 「……キス、して」 「え?」  聞こえた故の疑問なのか、聞こえなかった疑問符なのか。智颯が顔を近づけた。 「息が、上がりそうに、なったら、智颯君が、俺に、キスして。頬、とかで、いいから、お願い。そうしたら、すぐ収まると、思う」  智颯が黙ってしまった。  しかし、握った手はそのままだ。  頬に、柔らかな温もりが触れた。 (……え? 今、本当に、ほっぺにちゅぅしてくれた?)  驚いて、智颯を振り返る。  顔を赤らめた智颯が、照れた目で円を見詰めていた。 「こんな感じで、いいか? 練習しておかないと、いざという時に、できないだろ」  照れを隠すように、智颯が顔を背ける。  心臓が爆発するかと思った。 (自分からちゅぅして照れる顔、ガチ可愛い! 最高か! あの唇が、今日俺に二回も触れたなんて、信じられない)  智颯が握ってくれる手を、握り返した。 「うん、そんな感じがいい。明日も、練習、しよ」 「そんなに何回も練習しなくていい。もう、ちゃんとできるよ」  手の甲で唇を隠す姿が、また可愛らしい。 「そのうち、円からも……、いや、何でもない」  智颯が円の腕を掴んで立ち上がらせた。 「僕はもう帰るから、一人になっても夕飯を抜くなよ。必要なら明日は作るし、一緒に食べてもいいから」 「……うん、わかった。明日は一緒に食べよ」  されるがまま椅子に座らせられる。  荷物を持って、そそくさと部屋を去っていく智颯の背中を見送る。 「今、なんて言った? 智颯君、何て?」  さっきの智颯の表情と仕草を思い返す。 (そのうち、俺からキスしてって言おうとした? おねだりだった? 俺から智颯君にキスしても良いってこと?)  そのことばかりが気になって、この日はもう仕事は手に付かなかった。

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