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第10話 沼の始まり

 キッチンに向かう直桜たちの背中を見送った智颯の目線が、そのまま円に向いた。 「いっぱい褒められて、いっぱい労われたけど、過換気にならなかったな」  伸びてきた智颯の手が円の頬を撫でた。 (過換気にならなかったこと、褒めてくれるかな。でも今は、直桜様がいるから、ダメかな)  きっと今の智颯は大好きな直桜様で頭がいっぱいのはずだ。  自分が働く姿を見てもらえるのも、一緒に仕事ができるのも嬉しいだろう。  智颯が名残惜しそうに円の唇をなぞった。 「キス、できなかった。……なんて、過換気になんか、ならないほうが良いけどな」  ちょっと残念そうに、智颯が眉を下げた。  予想外の言葉に、円の心臓が止まりかけた。 「円も慣れてきたんだな。今日は化野さんもいるし、安心だろ? 直桜様は優しい方だから、きっと円もすぐに……」 「キスしたいって、思って、くれたの? 直桜様が、いるのに?」  智颯の言葉に思わず、言葉を被せた。  智颯が表情を止めた。  言わなければ良かったと、瞬時に後悔した。 「ごめん、智颯君は、辛いよね。直桜様と、化野さんが揃って、ここに、いるのは」  しかも、何日詰めることになるかも、わからない。  きっと智颯は、自分なりに自分の気持ちにケリを付けた。だから直桜と護のバディ契約を祝う言葉を伝えたんだろう。  それでもまだ、二人が一緒にいる姿を見ているのは、辛いはずだ。 「円のことばかり、考えてたよ」 「……え?」  智颯の言葉が咄嗟に理解できなかった。 「褒められすぎて円が過換気になったら、どうしようとか。上手く話せなかったら僕が通訳しようとか。円が褒められて、僕も嬉しくて誇らしかったりとか」  智颯が気恥ずかし気に頬を掻いた。 「円に指摘されるまで、気が付かなかった。直桜様がいるのに僕は、他人がいたら円に毎日の御褒美のキスが出来なくて残念だなって、考えてた」  トクトクと、鼓動が徐々に速さを増していく。  爆発するのでも、止まるのでもなく、只々小さく静かに、速くなる。 「あ、でも今は、ほぼ徹夜で四日も仕事してるから、御褒美はなしだ、な……」  智颯の腕を引っ張って、体を引き寄せた。  頭に手を添えて、唇を奪う。  舐めあげて、舌を差し込み、絡める。 「ぁ……、んっ……」  智颯の口から、声が漏れる。  緩んだ口元から零れそうになった唾液まで、舐め挙げた。  すぐに唇を吸って、また舌を絡めた。  膝の上に抱いた智颯の腰に腕を回して強く抱き寄せる。  逃げそうな頭を押さえて、更に舌を深く差し込んだ。 (やばい、いつもより本気のキス、しちゃってる。智颯君も感じてる。皆いるのに、止めらんない)  ビクビクと体を揺らして、智颯が円にしがみ付いている。  すぐそこのキッチンには直桜たちがいる。わかっているのに、止まらない。 (草、草の自制心、戻って来い! これ以上したら、もっと、たくさん、色んなとこに触れたくなる。もっと止まらなくなる)  漏れた吐息を飲み込んで、震える唇を離した。  普段とは比べものにならない程、智颯が顔を蕩けさせている。  半開きの口から熱い吐息を漏らしながら、潤んだ瞳で円を見上げていた。  その顔が堪らなくて、円の感情が弾けた。 「好き、好きだよ。智颯君、好き。俺のキスで可愛い顔になっちゃう智颯君、誰にも渡したくない」  智颯の顔を自分の胸に押し当てて抱き締める。  智颯が自分から、円に体をくっ付けた。 「初めて、渡したくないって、言った」  熱い吐息と共に、智颯が小さく零した。 「円はいつも僕に、狡くていいとか、直桜様を好きなままで良いって、言ってただろ。僕が誰を好きでもいいのかなって、思ってた」 「それは、だって、そうじゃないけど」  智颯の直桜様への想いが尋常ではないと知っていた。だから、それ以上を望んではいけないと思っていた。 「僕はずっと直桜様って偶像を追いかけてた。円に会ってそれに気付いたのに、それが円を好きって気持ちだとは、気が付かなくて。本当はきっと、もっと前から円が好きだった」  心臓が早鐘を打つ。打ちすぎて、脈を打っているのかすら、わからない。  智颯の口から出た言葉が信じられなかった。  智颯が円を見上げた。 「好きだよ、円。円が待っていてくれたから、伝えられた。円が僕の隣にいてくれるから、直桜様と化野さんが一緒にいる姿を見ても平気でいられるんだ」  見上げる智颯の顔が上気立って、仄かに赤い頬が余計に艶を増して見える。  ワナワナと震える唇がまた智颯の紅い唇に吸い付こうとするのを必死に耐えた。行き場を彷徨う唇は、智颯の額に落ちた。 「ダメ、それ以上言われたら俺、我慢できない。この場で智颯君の全部、奪いそう」 「全部、奪うって、どういう……」  寄り添う智颯の体を包むように抱きすくめた。 「俺だけの智颯君に、なってくれるの?」  耳元で囁くように問い掛ける。  智颯の耳が熱くなった。 「じゃぁ円も、僕だけの円になってくれよ」  弱い声音が照れを帯びて、本音を隠した欲を語る。 (そっか、智颯君も俺が欲しいんだ。欲しがられてるんだ、俺) 「俺は最初から智颯君しか見てなかったからね。最初から、智颯君だけだよ」 「じゃぁ僕も、もう円しか見ない。……きっと、結構前から円しか見えてなかった」  智颯の体全体が熱を発しているように、熱い。  「僕はもう、円だけが好きな僕だから、自分でちゃんと、気が付いたから」  智颯が顔を上げて、唇を寄せた。  熱くて柔らかな粘膜が、円の唇にふわりと重なる。 「これからは、円だけを愛してる僕で、円の隣にいたい」  円は息を止めた。  あまりにも自然に流れた言葉が、すんなりと胸に沁みる。  智颯の艶を帯びた声も言葉も、潤んだ目も表情も、いつもなら心臓が爆発するレベルのスチル確定な場面だ。 「俺も、智颯君だけを、愛してる」  なのに今は、只々静かに鼓動が早まって、穏やかなドキドキといっぱいの嬉しさで心が満たされている。  智颯の頬に手を添えて、そっと唇を返した。  ただの推しではない、愛する人にやっと触れられた気がした。 (推しを快楽堕ちさせるなんて不純な動機が始まりだったのに。一目惚れではあったけど。まさか自分の方が本気で沼るとは、あの時は思ってなかった)  この人を生涯かけて守りたい。  なんてチープな言葉、二次元にしか存在しないと思っていた。  今は本気で、そう思う。 (草の訓練を再開しよう。須能班長に指摘された直霊を鍛える訓練をしよう。惟神の智颯君を、この身を持って守れるように)  妹の瑞悠に排除されないためにも、強くなろう。  最強の惟神を守る護をお手本に、心を鍛えよう。  自分らしからぬ考えだと思う。  すべては、智颯のために。智颯が円を変えた。 「円くんて智颯相手だと、ちゃんと話せるんだね。なんか、いい感じみたい。良かったね」 「ダメです、直桜。これ以上は近付いてはいけません。そこで話したら、聞こえてしまいます」 「とりあえず食材は適当に使って、後で補充しよう。飯が出来上がる頃には二人も落ち着いているだろう。智颯の解析室移動は決定でいいな」 「忍班長まで! もっと静かに話してください!」 「良いと思うよ。直霊の相性も良い二人だし、智颯のバディも決まりだね」 「直桜! 声を落として!」  キッチンの方から声がする。  注意している護の声まで丸聞こえだ。 (俺は草だからね、耳もいいけどね。多分この音量だと、智颯君にも聞こえてるよね)  腕の中の智颯が小さく震えている。まるで子犬のようだ。 「えっと、智颯君。全部、バレたみたいだけど、大丈夫?」  初恋にケリを付けたとはいえ、聞かれたい会話でもないだろう。  今のやり取りを全部聞かれていたのだとしたら、智颯の性格上、この後の仕事にも影響しかねない。 「円との、関係を、説明する手間が、省けた、よな」  震える声が、途切れ途切れに聞こえる。  最大級の強がりであり、そう言い聞かせて自分を保っているのだろう。  体はさっきより熱いし、震えも止まらない。 「でもまだ、恥ずかしくて、どうしていいか、わからない」 「だよね。落ち着くまで、こうしているから、大丈夫だよ」  愛する推しの可愛い姿を抱き締める。  円は人生で最大の幸せを感じていた。 『理想の卵が孵るまで(円智スピンオフ)』完 【補足情報】  なんかイイ感じにくっついてくれました。性格は全く正反対なのに根っこの部分が似た者同士の二人なので、相性いいだろうなと思います。片方だけが相手を支えるんじゃなくて、どっちかが辛いときはどっちかがしっかりして支え合える良き関係、智颯と円はそんな感じの二人ですね。本編では智颯も瑞悠も差し込む隙がなかったので、ここで書けて良かったです。特に瑞悠の性格は尺がないと描写が難しかったので、スピンオフで出せて良かったなと思います。瑞悠は別に性格が悪いわけでも闇に塗れている訳でもなく、単純にお兄ちゃん大好きなブラコンなだけです、多分。円は瑞悠を天才だと判断したしその通りなんだけど、果たして智颯より能力が高いかは、まだ謎です。その辺り、第三章で書いていけたらなと思います。  何気なく書き始めたスピンオフだったけど、第三章に向けた布石になりました。智颯に忍び寄る影を円と瑞悠がどんなふうに迎え撃つか、直桜と護が今後、どんなふうに関わっていくのか、楽しみにしていただけたら嬉しいです。

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