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第1話
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春柳――シュンリュウ。
川べりの柳の木が、春風に揺れている。枝はしなやかに風を受け、葉はさやさやとそよいでいる。大陸の東部を占める、歴史ある呉国(ウーこく)にゆっくりと春が訪れていた。シュンリュウは、さらに国の東にある、センの村に住んでいる。
二十歳になったばかりのシュンリュウは青い空を仰いで胸いっぱいに澄んだ空気を吸い込み、世界に挨拶をした。
「おはよう!」
シュンリュウの名は春の柳から名づけられたという。たおやかに風を受けながら人生を歩むという意味を込めて――女性にも通用する名前だが、シュンリュウはとても美しい赤子だったというから、その名も良きとされたのだろう。名づけてくれたのは父だというが、シュンリュウは父の顔を知らず、優しい母とともに、貧しいながらも穏やかな日々を暮らしていた。だが、ともに畑仕事をし、文字の読み書きも教えてくれた母、ユイレンは数年前から胸を病み、ずっと床についている。
「ごめんね……あなたばかりに苦労させて」
「なに言ってるの。僕のことは気にしないで。もっと働いて、良いお医者さまに診てもらえるようにするからね」
咳をしながら涙ぐむ母にシュンリュウは明るく笑いかける。
だが実際は、町で野菜を売り、村長の家で下働きもしているが、わずかな日銭は診療代と薬代に消え、足らない分は積もっていくばかりだ。できれば施療院に入れて……と思うが、金銭的にとても無理な状態だった。
それでもシュンリュウは母を励ましながら、健気に生きていた。がんばっていたらきっといいことがあると信じて。明るく優しい性格は、出会った人を思わず笑顔にする。奉公先の子どもたちにも、とても慕われていた。
今日は隣の大きな町、ケイに野菜を売りに行く日だ。シュンリュウは母にかゆをこしらえ、まだ朝露の残る畑へと出ていった。
「瑞々しいなあ。今日は良い菜がたくさん採れた」
艶やかな黒髪を木綿の布でまとめ、手は畑仕事で荒れているが、顔は日焼けすることなく陶器のように滑らかで、唇は桃の花の如く。色の褪せた麻の服を着てはいても、その名の通り春の柳のような美しさは損なわれない。シュンリュウの美しさは、ここセンの村ではもちろん、隣のケイの町にも届いているほどだ。
(全部売れるといいな。いや、売らなきゃ。そうしたらそのまま薬代を払いに行って……)
だが、それでも滞った代金はまかなえない。またもう少し待ってもらえるようにお願いしなければ。
――儂のものとなり、店で働けば良い暮らしをさせてやろう。おまえの母親の薬代も面倒をみてやるぞ。
ふっと、ケイで一番の男娼館の主人、ヨウゲンの言葉が蘇る。シュンリュウは首を振り、その声を耳から追い出した。
ヨウゲンだけではない。シュンリュウは銅男子――男オメガを愛好する者たちにしつこく言い寄られているが、身を売ることだけはしないと決めていた。シュンリュウは収穫した野菜をカゴに入れて勢いよく背負った。そして、しゃんと背を伸ばす。
「さあ、行こう! あっ」
畑の端に植えた時なしの蜜柑の樹に、この春一番に成った実たちが枝をたゆませている。
「美味しそうに熟れてる!」
シュンリュウは黄金色に輝くそのひとつを手に取った。なぜだろう。とてもいいことがあるような気がしたのだった。
この世では、男女の二つの性が、さらに三性に分かれている。
金(アルファ)、銀(ベータ)、銅(オメガ)、つまり厳密に言えば六つの性が存在することになる。すべてに優れているという金の男女、何においても平均的だが、努力次第で道も拓ける銀の男女、発情期があるために、獣のようだと何かと蔑ろにされる銅の男女。――そして、銅の男は男ながらに子を孕む。
しかも、金の男と交われば、金の男子を産むことが多い。加えて銅の男との交わりは、金や銀の男たちにめくるめく快感をもたらすとして、身分の高い者にも、平民にも性的な需要が多かった。
だが、その呼び方はあまりにもあからさまであるとして、いつしか西の大陸のように『アルファ』『ベータ』『オメガ』と呼ぶことが広まっていった。
シュンリュウは男オメガだ。
加えてその美貌、しなやかな身体つき。男たちに目をつけられて、かどわかされそうになったり、あの男娼館の主人のように言い寄ってくる者たちもいるので、出かける時、シュンリュウは黒い布で顔を隠していた。ウーの西隣の大国、黄(ファン)を越えた、大河を挟んでさらに西にある国から流れてくる女たちはみな、このように顔を隠している。だから、そうすることで却って目立つということはなかった。
ケイはウー国一の大きな港町で、いつも賑わっている。市場にはイキのいい魚や新鮮な野菜、果実、花々、塩をした獣の肉、煌びやかな衣、めずらしい外国の品々も並び、売り買いする者たちの威勢のよい声が飛び交って、すごい活気だ。
その市場の隅に敷物を広げ、シュンリュウはカゴを下ろして野菜を並べた。
「おはようさん」
「おはようございます」
隣で穀類を売る中年の女性といつものように挨拶を交わす。
「これ、少しだけど持って帰りなよ」
女性は、ぽんと小さな包みを放って寄越した。シュンリュウは、わっ! と慌てて両手で受け取る。中に入っていたのはヒエとアワの団子だった。シュンリュウは顔を輝かせる。
「ありがとうございます! おばさん!」
「おっかさんの具合、どうだい? ちょっとは食べ物の足しになればと思ってね」
屈託のないシュンリュウの喜びように、女性は嬉しそうだ。実際、食べ物を分けてもらえるのはとてもありがたかった。
「はい。温かくなればと思っていたんですけど、今も咳が辛そうで……」
市場で会うだけの顔見知りだが、こんなふうに弱音を吐けるのはほっとする。だが、だんだんその思いに流されそうになってしまうので、シュンリュウは黒い布の後ろで唇をきゅっと引き結んだ。
「でも、いつもより食べられるようになってきたんですよ」
布で覆った顔の向こうでも、それが笑顔であることはわかるようだ。女性は目を細め、ふと涙ぐむ。
「ど、どうしたんですか? おばさん」
「いや、あのさ、健気だなと思ってね。貧しいなりをしていても丁寧な言葉遣いや物腰、あんたはきっといいところの出なんだろうにって思ってね」
手の甲で涙をごしごし拭い、女性は続ける。
「ほら、実は天子さまの落とし胤とかさ、あるじゃないか」
「僕の母はお金持ちのお屋敷で下働きをしていたそうですよ。そんな話聞いたこともないです!」
シュンリュウは笑う。身なりにしては言葉遣いが丁寧だと言われることはめずらしいことではない。だが子どもの頃は、村の子どもたちに『気取りやがって』と言われ、爪弾きにされたものだ。
「でも、あんたの母さんは思うところあって、あんたをそうやって育てたんだろうね。どっちにしてもありがたいことだよ。大事にしてやんなよ」
「はい!」
明るく返事をしたら、ちょうどお客さんがやってきて、お互いに喋っていられないような状況になってきた。
「いい青菜だねえ。二束もらうよ」
「ありがとうございます!」
シュンリュウの売る野菜は新鮮で瑞々しく、人気がある。顔を隠していても愛想良いので、それも手伝って、ほぼ売り切ることができるのだが、ひとりで作っているために数が少なく、市場に払うみかじめ料もあって、残ったもうけはスズメの涙だ。
(でも、ほとんど売れるんだからありがたい。これもみんな、土や水や太陽のおかげなんだ)
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