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第2話

 そう教えてくれたのは母だ。また母と畑ができるようになればいい。それが今のシュンリュウの望みだった。  もっと美しい衣装が欲しいとか、大きな家に住みたいとか、そして、優しくてお金持ちのアルファに娶られたいとか……自分のために何かを望んだことはなかった。求めるのは母との穏やかな暮らし。それだけなのだ。  ただ、数年前から始まった発情期が辛くて、オメガに生まれたくなかった……と思ってしまうことはある。発情を抑える薬よりも、母の薬を優先させたからだ。疼く身体を持て余し、下半身を冷たい布で冷やして、懸命に時が過ぎるのを待った――。 『発情の匂いが外に漏れて、何かあったらどうするの』  あの時はあとで母に叱られ(母もオメガだ)それからは最も安い薬を飲んでいる。効き目もそれなりで、完全に身体の熱を抑えることはできないが、飲まないよりはましだった。  さて、敷物の上に残ったのは時なしの蜜柑が一個。そろそろ店じまいをしようと、売上金を懐にしまった時だった。 「ネギはあるかい?」  野太い男の声が屈んだ頭の上から聞こえた。シュンリュウは顔を上げる。 「申しわけありません。今日は全部売り切れてしま……」 「よう、シュンリュウ」  シュンリュウは言葉を失った。そこにいたのは、派手な赤い上衣を着た男娼館の主人と、その取り巻きだったのだ。 「最近見かけないと思ったら、こんなところに移動してやがって」  そうなのだ。以前いた市場はもっと村からも近かったのだが、彼らに目をつけられてしまい、執拗に言い寄ってくるので場所を変えたのだ。それまでも、連れ去られそうになって騒ぎになり、市場を出禁になってしまったこともあった。 「いい加減にウチのものになれよ。そうしたらこんなふうに逃げ回ることもないんだぜ?」  主人は顎の下に蓄えたひげを触りながら言う。ぎらぎらと脂ぎった顔で、いやらしく笑う。 「ぼ、僕はあなたの許には行きません!」 「おまえほどの男娼ならすぐにいい客がついて、豪勢な暮らしができる。何人も相手をするのが嫌なら俺が買ってやろうって言ってるじゃねえか、なあ」  周囲を取り巻きの者たちに囲まれて逃げ場がなくなり、シュンリュウは手首を主人に捉えられてしまった。 「うんと可愛がってやるからよ」  主人は猫なで声でシュンリュウの手を引き寄せ、腰を抱こうとする。 「やめてくださいっ! 誰か……!」 「人を呼べば、ここにもいられなくしてやるぞ?」  主人はねっとりとシュンリュウの首筋に顔を寄せてくる。シュンリュウは必死に抗ったが、もう少しで舌が肌に届きそうだ。男の体臭にも吐きそうになる。近くの市の者たちも、巻き込まれるのが嫌なのだろう。そそくさと帰り支度を始めたり、見ないふりをしている。 (くっ……っ)  シュンリュウは血が出そうなほどに唇を噛みしめ、顔を背ける。アワ団子をくれた穀物売りのおばさんが早々に店じまいをしていてよかったとシュンリュウは思った。親切にしてくれた人に迷惑をかけずに済んだ……。 「頑固なやつだな。ウチに来るか、俺のものになったら、おっかさんの薬代も出してやるって言ってんのによ」  それだって、信じることはできない。それに、この主人の店も、彼自身の性癖も異常だと聞いている。甘い言葉を囁こうが、要は性の玩具にされるのだ。   嫌だ、この男に身体を好きにされるなんて……! シュンリュウは懸命に力を振り絞った。男に対する嫌悪感で、一瞬、信じられないほどの力が湧いたのだ。 「嫌です!」  シュンリュウは思い切り、男の膝を蹴り上げた。だが、それもまた一瞬、シュンリュウは怒った男に地面に組み伏せられてしまった。 「人が優しくでてりゃこの野郎! 今日こそこのまま連れ帰って……えっ、なんだ、い、いてえ……っ!」  ヨウゲンは顔を歪め、しきりに痛みを訴えている。シュンリュウは彼の肩越しに、ヨウゲンの腕がねじ上げられているのを見た。 「いい加減にしなよ、ダンナ」  涼やかだがズンと響く美声がヨウゲンを戒める。シュンリュウはその隙にヨウゲンから逃れたが、次の瞬間、ヨウゲンを締め上げている男の胸に庇われた。 (えっ……?) 「い、いてて、離しやがれこの野郎……っ」  美声の男は、立ち上がりながらヨウゲンの腕を離す。だが、痛みは相当なものなのだろう。ヨウゲンはみっともなく屈んだまま、それでも虚勢を張って、取り巻きの者たちに命令した。 「何してやがる! 早くこいつをやっちまえ! シュンリュウには傷をつけるなよ!」  彼の登場に驚いていた取り巻きの者たちが、一気に掴みかかってくる。剣を抜いてくる者もいた。多勢に無勢だ。だがシュンリュウは、彼がまるでハエを払うかのように取り巻きたちを倒していくさまを、彼の胸に庇われながら見ていた。 (な、なんてすごい体術!) 「自分より体格の小さな者を襲うなどもっての他だ」  脚や腕を使いながら、落ちていた棒きれ一本を武器に、男はシュンリュウを庇ったまま、ひらりと舞うように戦う。 「畜生、お、覚えてやがれ!」 「いや、あいにく俺は忘れっぽいんでね」  息も乱していない彼に悪態をつきながら、ヨウゲンとその取り巻きたちは負け犬の遠吠えを吐いて、その場を逃げ去っていった。 「あ、あの……」  シュンリュウは自分がまだ彼に寄り添っていることも忘れ、なんとか礼を言おうとした。だが、すでにシュンリュウの目と心は彼に惹きつけられてしまっていた。  きっとアルファに違いない立派な体躯に、無造作に括られた黒髪。だが、なんという男らしい美貌だろう。きりっとした眉に、まなじりの上がった黒い目、続く鼻梁や唇は完璧なかたちを描いている。だが、はっきりと言葉を発するその唇は大きく開かれ、これほどの美形でありながら、気さくな感じを醸している。 (笑うと素敵だろうなあ……)  礼を言わねばならないのに、何を考えているんだ僕は。そう思ったそばから、彼はシュンリュウに優しく明るい笑顔を向けてきた。 「怪我はないか?」 「は、はい。大丈夫です」  向けられた笑顔の素敵なことといったら……!  爽やかで、明るくて、まるで春のひだまりのような温かさを感じさせる。だが、一本、凜とした筋が通っているのだった。覆った布の下で、シュンリュウは頬が染まるのを感じた。それでも懸命に礼を口にする。 「助けていただいて、本当にあり、ありがとうございました」  懸命すぎて噛んでしまったが、男の笑顔は変わらない……が、ふと彼は眉間を険しくした。 「いつも絡まれているのか?」 「は、はい。時々……」  また今回もこの市場を去らねばならないだろうな……村からは遠いけれど、活気があっていい市場だったのに。男に見蕩れながらもシュンリュウはしゅんとしてしまった。 「そうか、それはけしからんことだな」  彼の答えはひとりごとのようだったが、シュンリュウは「はい」と答えた。 「そのために顔も隠さねばならんとは」 「えっ?」  不意にそんなことを言われたので、ふわふわしていたシュンリュウの胸はどきんと大きく鳴った。そんなことまでわかるんだ。この御方は……。

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