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第3話

「も、申しわけありません。助けていただいておきながらこのように顔を隠して……」  慌てて布を取ろうとしたが、男の手がそっと制した。 「そのままでいい。残党などが見ていたら大変だ。俺があんたの顔を見られないのは残念だが」  初心なシュンリュウでさえわかる、口説き文句のようなその言葉……彼は冗談で言ったのだろうが、シュンリュウは胸の鼓動が聞こえてしまうのではないかと思うほどにときめいてしまった。 (こんなにどきどきするのは初めて……)  いっぱいいっぱいになっているシュンリュウの隣で、彼は爽やかに笑う。 「では、俺はもう行くよ。送っていってやりたいが船の時間があるからな。乗りそこねたら野宿だ。別にそれも一興だが」  それは送っていってもいいという意味なのだろうか。男にそんなふうに言われたことのない初心なシュンリュウには想像もつかない。いや、いつも男には注意していたというのに、気が緩んでいるとしか思えない。 「そんな、とんでもない……僕は大丈夫です。船の方が大事です!」  一気に言い切って、シュンリュウは急に恥ずかしくなってしまった。彼は笑っている。でも、もう少し、もう少しだけ話がしたい……シュンリュウはおずおずと訊ねた。 「旅をされているのですか」 「まあ、そんなものだ」 「そうだ、あ、あの、何かお礼を……」  言ってしまってから後悔した。今の自分のどこに、お礼できるようなものがあるというのか。 「礼なんてそんなものいいから。悪い輩を追い払うのは当然のことだ」 「で、でも」 (だから、お礼なんでできないんだってば!)  心の中であたふたする。その時、敷物の上に転がっていた蜜柑が目に入った。シュンリュウは蜜柑を拾い上げ、布でごしごし擦ってから両手で彼に差し出した。 「こっ、こんなものしかありませんが、もらってください!」  一生懸命なのと恥ずかしいのとで、身体中から汗が噴き出しそうだった。だが、彼は目を輝かせる。 「喉が渇いたから、ちょうど買って帰ろうかと思ってたところなんだ」 「そんな、お代などいただけません。どうかもらってください!」  すると、彼は柔らかく微笑んだ。 「じゃあ、ありがたくいただくよ。とてもきれいな色だな。囓るのがもったいないくらいだ」 「そ、そんなふうに言っていただいて、ありがとうございます!」  そうして彼は踵を返し、「じゃあな」と振り向いて歩き出した。蜜柑を掲げ、陽に透かしている。 (お名前、訊けばよかった……)  訊いてどうなることも、どうすることもできないのに、そんなことを思ってしまう。これから蜜柑を見るたびにあの人のことを思い出してしまいそう……。  胸はまだどきどきと鳴り続けている。彼の姿が雑踏に紛れて見えなくなっても、シュンリュウはその方向を見つめ続けていた。  それから何日か経っても、シュンリュウは彼のことが忘れられないでいた。ふわふわと胸を過る柔らかな思い……かと思うと、急に胸が熱くなるのだ。シュンリュウは頬を染める。母のために蜜柑を剥いていたのだが、それだけでも舞い上がってしまいそうなのだ。 「何かあったの?」  母親にもそう訊かれたほどだ。 「えっ、なんで?」 「とても幸せそうだから」 「えっ、そ、そう?」 「恋でもした?」 「ええっ!」  恋……僕はあの御方に恋をしているの? ふわふわした思いが甘い痛みに変わる。 (そんな……たった一度お会いしただけなのに?)  シュンリュウの気持ちを読み取ったのか、母は昔語りをするような目で言い添えた。 「恋におちるのは一瞬の時もあるというわ。もちろん、育まれていく恋も素敵だけれど」 「そ、そうなの?」  母は優しくうなずいた。 「あなたに幸せな恋が訪れますように」      2  母が言ったように、これは恋なのかもしれない。 シュンリュウはそれからもしばらく彼のことを思っていた。記憶というものは時間とともに薄れていくものなのに、彼の笑った顔、颯爽とした後ろ姿をありありと思い出すことができるのだ。そんな時、ずくんと下腹の方が疼くこともあった。 (発情の時みたい……)  自分ではどうにもできない、あの淫らな状態を思うと、薬もほとんどないこともあって不安になる。できれば発情なんて来てほしくない。それなのに、彼を思う甘やかな感覚は手放したくないのだ。 (蜜柑の君、蜜柑の御方――)  シュンリュウはいつしか彼のことをそう呼ぶようになっていた。もちろん心の中だけで。  だが、シュンリュウの密かな恋心が吹き飛んでしまうような出来事が起こった。母が血を吐いたのだ。 「母さん!」 「だい、だいしょうぶ、だから……」 「だめ、喋らないでいいから!」  シュンリュウは早速に村の医者のところに走ったが、まだ先月の支払いも済んでいない。だが、何度も頭を下げ、頼み込んだ。そうして、やっと家に来て母を診た医者は、重い口調でこう告げたのだった。 「もうこれ以上、家で寝かせておくのはただ命を縮めるだけだ。胸患い専門の施療院に入って、治療と見立てをしてもらわねば」 「施療院へ?」 「そうだ。そこには胸の患いに精通した医者や薬師がいて、身の回りの世話をしてくれる者もいる。清潔で、病状にあった食事も出してもらえる」 「で、でも――」  施療院はすごくお金がかかる。入れてあげられるものならば、とっくにそうしていた。シュンリュウの悲痛な表情を見て、村の医者はため息をついた。 「うちへの支払いも滞っているのに、到底無理な話だな。このままだんだん弱っていくのを見ているか、死ぬ気で金を作ることだ」 「そんな……」  これで最後だと言って、医者は診療代と薬代をツケにしてくれた。だがそれはもう、滞った支払いを済まさねば診ないし、薬も出さないということだった。 「ありがとうございます……」  見捨てられたのも同じなのに、シュンリュウは頭を下げるしかなかった。そんなシュンリュウに医者は容赦なく突きつける。 「おまえほどの器量ならば、できることもあるのではないか? ケイの男娼館の主人がおまえにぞっこんだと噂に聞いたが?」  あまりの物言いに、さすがに穏やかなシュンリュウも腹が立ち、唇を噛みしめて屈辱を耐えた。その間に、医者はさっさと帰っていってしまった。 (もし、僕が国の官吏になったら、あんなことを言う医者は再教育してやるのに……!)  などと、今あり得ないことを考えてしまったが、シュンリュウは美しい貌に影を落とし、絶望の息を吐いた。 (でも、これが現実なんだ。お金がない者は、結局身を売るしかないんだ……)

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