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第4話
実際、よく聞く話だ。シュンリュウの幼友達が借金のカタに男娼館に売られていったことがあった。自分と同じ、オメガの男だ。
――貴族や金持ちのだんな連中には、女よりも男オメガが好きという輩が多いのさ。だが、男オメガは数が少ないからその分、高い値がつくってわけだ。
そう言ったのは、例の男娼館の主だ。いつもなら聞く耳ももたないシュンリュウだったが、今度ばかりは項垂れて我が身に問うた。
(母さんを施療院に入れてあげたい……。貧乏な中で僕を一生懸命育ててくれて、いつもあったかくて優しくて……僕には、母さんしかいないのに)
その時、ケイの町で出会った男の顔がふっと過った。蜜柑の君だ。どうしてこんな時に……。彼が助けてくれるわけでもないのに。名前すら知らないのに……。
シュンリュウはぎゅっと目を瞑って、その男の面影を頭から追い出し、そして、眠る母の側に座った。
浅い呼吸に、青白くこけた頬。親子そろって器量よしだと言われたものだが、今はその面影もなかった。こんなに痩せていたんだ……血管の浮き出る手を握り、シュンリュウは涙を零した。それでも自分にとっては誰よりも美しい、自慢の母だ。
(どうしてうちには父さんがいないんだろう。父さんがいれば母さんはこんなに無理せずに、病気にならなかったかもしれない。施療院に入れてあげることもできたかもしれない……)
彼のことも、父親のことも、考えても詮無いことだ。シュンリュウは涙を拭った。
(行こう。男娼館の主のところへ。僕はお金なんかいらないから、その代わりに、母さんにできるだけのことをしてもらうんだ)
自分のために息子が身を売ったなんて知れば、母は哀しむだろう。だから、その言い訳も考えておかないと……。それから、今まで診てもらっていた医者への借金も清算して……。
日が暮れ、空には星が瞬き始める。ずっと、ぼんやりと考えていた時だった。
薄い木の戸が叩かれた。次いで、太い男の声がする。
「ヤン・シュンリュウの家はこちらか。シュンリュウは在宅か」
「は、はい!」
そんなに叩かれたら戸が壊れてしまう。シュンリュウは慌てて戸を開けた。聞いたことのない声に不安が募る。ただでさえ穏やかでいられない心持ちだというのに、しかもこんな夜更けにいったい誰だろう。
そこに立っていたのは、頭から黒い布を被り、黒い衣を着て、立派な口髭を蓄えた男たちが数人。シュンリュウは驚いてあとずさりしそうになりながら、おずおずと答えた。
「はい、ヤン・シュンリュウは私ですが……」
男のひとりが急に声を潜める。
「天子さまのおわす宮廷より火急の用で参った。内密の話ゆえ、中へ入れてくれぬか」
「宮廷、ですって?」
今度は腰を抜かしそうになる。まさか、新手の詐欺師や強盗ではあるまいか。襲われても、この身以外は取られるようなものは何もないけれど。シュンリュウの驚きと猜疑心を察したのか、男は黒い被りものと黒い上衣を脱いだ。
「あっ!」
男が着ていたのは紫の衣装だった。紫は、宮中の者以外は着てはならない色なのだ。紫の衣をまとった彼らは袖の中に腕を入れ、礼をした。物腰もしっかりとしていて、とても強盗の類いには見えない。おそらく官吏なのだろうけど……。
わけがわからないながら、シュンリュウは彼らに従った。いったい今日は、なんという日なのだろう。宮廷からの使いなど想像もつかない。何かの間違いではないか。
「あの、座っていただく場所もなくて……」
シュンリュウが恐縮すると、官吏の長らしき男が眉ひとつ動かさぬ重々しい表情で答えた。
「そんなことはかまわぬ。我らも極秘で急ぎゆえ、早速であるが、そなたに申し伝える。ヤン・シュンリュウ。我がウー国の妃紗麻(キーシャオ)皇子より直々のお召しである。今すぐに我らに随行し、宮廷へと参られよ」
「は?」
まったく話が見えなくて、シュンリュウは間の抜けた返事をした。宮廷へ? キーシャオ皇子のお召し? この人たちはいったい何を言ってるんだろう。
「第二皇子、キーシャオさまがそなたを宮廷に呼び寄せておられる。これから我らに随行してもらう」
少し話が具体的になったが、なぜかということは語られない。わけもわからず彼らに従うわけにはいかない。何よりも、目を離せない病状の母親がいるのだ。シュンリュウは怯まずに訊ねた。
「何故、皇子さまが私を呼び寄せられるのですか」
「それは、ここでは話せぬ。詳細は皇子より説明があろう。だが、そなたの身の安全は保証されている。怖れることはない。キーシャオ皇子の話が済めば一旦は家に戻れる」
官吏の長らしき男はきっぱりと答える。
(一旦?)
確かめたかったが、彼はそれ以上は言わないだろう。シュンリュウは抗った。
「そんな……今すぐだなんて、私にも事情があります」
「母御のことであれば心配はいらぬ。そなたが留守の間、責任をもって医師と薬師が看護にあたる。身の回りの世話をする女人も連れてきておる」
「なん……ですって」
(どうして母さんの病気まで知ってるんだ?)
宮廷には「鼠」と呼ばれる隠密がいると聞く。調べられたんだ……雲を掴むような話が、急に現実味をもって感じられた。シュンリュウは同時に恐怖を覚えた。自分の知らないところで何かが起こっている――? これは、彼らの言う通りにする方がよいのかもしれない……。
「母を、看ていただけるのでしたら……」
「村の医者などよりずっと優秀な者たちだ。安心するがよい。これは、キーシャオ皇子の計らいである」
そこまでして、宮廷の皇子さまが僕を呼んでいる。シュンリュウはここで初めてほっとした。
(母さんには何か上手く説明をつけなければならないけれど)
「わかりました。ヤン・シュンリュウ、キーシャオ皇子殿下のお召しにより登城いたします」
シュンリュウは礼を込めて返事をした。官吏の長は、ふっと不思議そうに表情を緩める。
「そなたはどこかで教養を授けられたのか? 方言も訛りもない、美しい話し言葉だ」
「母が教えてくれたのです。読み書きもできます。母がどこでそのような教養を身につけたのかは知りませんが」
そうか、とうなずき、取るものもとりあえず出発となった。母は眠っていたので、シュンリュウは文を残した。
『仕事が見つかりそうなので、都まで話を聞きに行ってきます。お医者さまや薬師の方は母さんのために使わしてくださった方々なので、遠慮なくお世話になってください。すぐに戻るから心配しないで。シュンリュウ』
走り書きのような文を手伝いの女の人に託し、シュンリュウは官吏たちとともにウー国の都、鳳(ホウ)へと出発した。
シュンリュウには、なんと輿が用意されていた。官吏の長は馬で、他の二人は護衛だったようだ。輿に乗ることなど初めて、もちろん都にも行ったことがない。
(それにしてもこの格好で皇子さまの前に出ていいのだろうか)
普段は粗末な麻の衣を恥ずかしく思ったことなどない。母と二人、働いて手に入れたものだからだ。だが、さすがに宮廷に上がるのに、継ぎのあたった着衣はどうなのだろうと思ってしまった。適当に結い上げた髪も。
鳳の都までは一泊せねばならなかった。その翌朝、シュンリュウは真新しい衣装を渡された。着付けも髪結いもいる。湯を使い、有無を言わさず着付けられ、髪を結ったシュンリュウを見て、その場の皆が感嘆の息をついた。あの、笑った顔が想像できない官吏長も、満足そうにうなずいている。
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