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第1話
風のない日だった。道場の周りは木々で囲まれているけど、木陰は僕たちのいる射場を涼しくする役目を果たしていなかった。
「……弓構 え」
的前に立つ僕の動きを、後ろから風吹が射法八節 *1で追っていく。
学校の弓道場には今、僕と風吹しかいない。今日の講義は二限で終わった。金曜は部活の無い曜日だから他の部員は来ていない。自主練をするには持って来いの日だ。
「打起 し。大三*2。肩上げんな。水流れ注意」
僕は肩に余計に入ってしまった力を抜いた。風吹のアドバイスは的確だ。僕の父は昔、弓道の指導者をしていたことがあるらしい。でも僕は全然上手くない。中学から弓道を始めた風吹の方がよっぽど上級者だ。
「引分 け」
中一から使っている僕のカーボン弓がグッとしなる。小さい頃から身体が弱くて入院ばかりしている僕は、大学一年生になった今でも弓上げ出来ず、重さは十一キロのままだ。我ながら情けない。
「会 」
一、二、……と頭の中でカウントする。三秒に行くまえに僕は右手を弦から離してしまった。パンッと的が鳴る。矢は的の正面左斜め下ギリギリの所にあたっていた。
「早気 」
言いながら風吹が僕の射位へ近づいて来た。残心を終えてから僕は後ろを振り返る。
「離れは綺麗なんだけどな」
風吹が大きな手で僕の頭をガシッとつかむ。僕は半分泣きそうになりながら、背の高い風吹を見上げた。
「早気が直んない。これじゃ審査もダメだよね……」
「一過性のものだろ。この前高熱出したばっかだし、まだ本調子じゃないだけだって」
風吹は「気にすんな」と言って僕の頭を撫でて髪をワシャワシャにする。
「……練習する」
僕は矢取りに行くため風吹の手から抜け出した。風吹も僕の後に続く。僕の矢は八本あるけど全部打ってしまった。面倒でも的場まで取りに行かないと次の矢は無い。
「頑張るのはいいけど、今日はもうやめとけ。ここの気温高過ぎ。せっかく体調戻ったのに熱中症になったらつまんねぇだろ?」
矢道横の通路を歩きながら風吹の声が追いかけてくる。僕はすぐに返事をしなかった。もっと練習したい。でも、午後の気温はぐんぐん上昇していた。クーラーのない道場は湿気でもわっとしていて、風吹の言う通り暑すぎる。
まだ六月初旬で、身体が暑さに慣れていないのも良くない。連日気温の乱高下も激しいし、元気な人でもへたばりそうだ。無理の利かない僕の身体はまた抗議の熱を出す可能性が高かった。
風吹に返事をしないまま、的場の矢を抜いていく。僕の打った八本の矢は三本しか的にあたっていなかった。さっきまで隣で打っていた風吹の矢は、全部的に刺さっている。僕は悔しい思いで安土から矢を引き抜いた。
全部の矢を回収して矢尻を布で拭いていると、風吹が安土から的を取って看的所の奥に向かった。物置へ的を仕舞っている。もう、強制的に練習終了って感じ。
ちょっとむくれて、矢を抱えたまま僕は通路に立った。追いついた風吹が僕の顔を見ると、面白そうにクッと笑った。
「んな顔すんなって。お前、ぶ、ってした顔すると幼稚園の頃と変わんないよな」
僕はますますふくれて、無言のまま通路を歩き出した。
風吹は僕の幼馴染だ。家が隣同士で同学年。生まれた時からずっと一緒に育ってきたようなものだ。僕の父と風吹のお母さんはまたいとこで、僕達は遠い親戚でもある。
僕の双子の姉の菫が十一歳で死んでしまった後、両親は離婚した。その時僕は母と一緒に今の家に引っ越している。でもほどなくその引っ越し先の隣の家に、風吹の一家も越してきた。
風吹と僕は腐れ縁と言っていい関係だと思う。だからこそ気安く不機嫌な顔も出来る。
「天ヶ瀬! 今日飲み会出れねぇ?」
急に声が掛かって、僕たちは木立の間を見た。弓道場の外側にある古いアスファルト道路に学生が数人立っていた。道路と道場の間には防護用の網が張り巡らされている。古くて汚れているから見えにくいけど、男子学生一人と女子学生が二人いて、こっちを向いていた。
「悪り。今日バイトだわ」
風吹が答える。風吹に声を掛けた男子学生の隣にいた女子二人が「えー、天ヶ瀬くん来ないのォ」と小さめの声を上げた。
僕は矢を抱えて歩き出した。男子学生は同じ工学部の一年だけど、僕に向かってお誘いの言葉を掛けてきた訳じゃない。風吹と一緒に立ち止まっているのも変だし、矢もたくさん抱えていると結構重い。
「バイト休めねーの? ここにいるモエちゃんとミサちゃんも来るし、M女の子も来るんだけど」
畳みかける様に言われても、風吹は「無理」と答えた。通路をサンダルで歩く音が追いかけてくる。「あーん、やだ。ショック」というモエちゃんとミサちゃんの声が聞こえてきた。
「じゃ、今度また誘うから、そん時は来てくれよ!」
「あー、ま、そのうちな」
風吹は適当な返事を返している。男子学生は必死だったし、女子たちは残念そう。
そりゃそうだろう、と僕は思う。何せ風吹は昔からモテる。それこそ老若男女問わず誰からも好かれる。
気さくで人たらしな性格のせいもあるけど、何よりかなり目立つ容姿をしている。髪の毛は銀色で、肌の色も透ける様に白い。確かひいひいおじいちゃんだったかが、北欧出身の人だと聞いたことがある。
風吹のご両親はどちらも美形だけど髪も目も東洋人のそれだった。風吹には六歳離れた姉もいる。でも両親同様、美人で目立つ以外の特性はない。遺伝子のいたずらか、風吹だけが先祖返りしてしまったらしい。
風吹の顔立ちは外人特有の掘りの深い造りじゃない。ただ一個一個のパーツが隈なく整っている。すれ違う人が大体は振り返るような、いわゆる爆イケ男子だ。
*1弓道の八つの基本動作
*2大三は射法八節には入っていません。
*会は通常五秒くらいは保てないと早気といわれます。
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